文=横田猛雄
絵=伊集院貴子
第二課 ほんもの
私が『奇譚クラブ』や『風俗奇譚』を知ったのは、大学一年の時で、昭和三十六年、東京でのアパート暮らしの中でです。
当時はSMも浣腸もお尻派も、陰の世界の少数派で、密かな存在でしたが、今よりはるかに本物の重症マニア達がいたものです。
お尻の穴を強制的に診察され処置されるという被虐感に憧れて、密かにアパートの自室で真夜中に全裸になり、ラシャ鋏を逆手に握り、転げ廻って自らの直腸粘膜に傷を付け、肛門科医院を何軒も廻ることを実行した女子大生。
食品製造業種や旅館や飲食店等、飲食をともなう接客業種には、年に二回強制的定期的に行なわれる、裸にされて四つん這いでお尻の穴にガラス棒(採便棒)を挿入されて便を採られる検便があったのですが、その強制検便の被虐の虜になり、女子大学卒業後、自らすすんで小学校給食の栄養士を志し、ついには後輩達ともお尻の穴をいじめ合うレズ関係にまで発展したという女性。
お尻から次々と七個も卵を産み落として見せるホモショーが出てくる、三島由紀夫の『禁色』(文庫本で今も見られる)に感銘をうけ、アパートの一室で全裸になり、自分のお尻にペロリと舐めてぬめりを付けた卵を自らの手で押し込み、何百回も何千回も、時には夜が明けるまでその出し入れを繰り返し、卵の直径の一番太い所がお尻の穴の輪を通過する時の、あの輪の紐のあたりの苦痛の激しさの中に快美感の極致を見出し、将来恋人が出来たら、彼には膣よりもこうやって後ろの穴を毎晩ズコズコとピストンされたいと願い、その日のために毎晩密かにお尻のレッスンに励む独身のOL。
全裸にされて様々なポーズで浣腸されたり開股ポーズの緊縛で晒しものにされ、お尻の穴(前は処女だからタブー)を散々に凌辱され、その姿を分譲写真や誌上のグラビヤに発表され、自らも体験記を発表したいとモテル志願した地方の旧家の令嬢で、国文学専攻の女子大生や、同じ思いの婚期をのがした女実業家。
それに、毎晩浣腸の後、太くて硬いサラミソーセージを自分のお尻の穴に挿入して、綿紐で六尺褌状にして、ソーセージが抜けないように固定して眠り、括約筋の圧迫による刺戟で、毎晩妖しい淫夢を見ようと願う一流企業に勤める一人暮らしのOLなど。
当時のお尻派の中には、理知的な少数派の本物がいました(この人達、今では五十歳から六十歳になっている筈で、当時私と同年かやや年長の女性たちでしたから)。
当時のお尻派の同志は皆、いかにしてお尻をいじめられるかについて真剣に考えたもので、人為的に(わざと)便秘や痔になって、医院の門を叩くという方法は、読者の告白にもよく見られ、特に便秘については、収斂剤(下痢止め)を服用して便秘になる方法が時々報告されていました。
体験者の告白記により、摘便処置というのは女性の妊娠中絶(掻爬)手術のような気分が味わえるということでしたから、男性として普通なら絶対味わえない掻爬の感覚を、ぜひ体験せんものと、収斂剤を買い集めた私は、日頃から規則正しく起こっている排便を、その日から止める決意をしたのです。
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