暗黒色と肉食の痺れ 第3回
暗黒色と肉食の痺れ 第3回
赤ちゃんが欲しいという妻の言葉が悲劇の発端だった。
●妊娠執着
彼に対する起訴状。
「被告人北里繁夫は、かねてから妻である北里早苗に対し沢田一郎との交際を認め肉体関係を持つことをも許容していたものであるが、早苗が一郎を真剣に愛するようになったことに立腹し、同女に対し、一郎との交際を断つように要請したところ、これを断られたため、異常な関係を断つには2人の殺害しかないと決心し、9月21日夜7時頃、被告人方において2人を欺いたうえ睡眠薬を服用せしめ、意識を喪失せしめて、早苗の首を両手で絞めて、窒息死するに至らせ、又、一郎に対しては、大量の睡眠薬を溶解した水及びウィスキーを嚥下せしめて、中毒死するに至らせもって両名を殺害したものである」
繁夫が早苗と結婚したのは、彼が32歳、早苗が22歳の時であった。繁夫が32歳まで独身だったのには別段理由はない。
人一倍仕事熱心だった彼は、遊びらしい遊びもせず、仕事だけに情熱を燃やし、気がついてみると32歳になっていたのだった。早苗は、上司の妻の遠い親戚の家の娘であった。見合いを勧められ、別段断る理由もないので見合いをしたその相手が早苗だった。
彼のように、女遊びもせず、仕事ばかりしている男に、どうしてこのような妻がと思うほど早苗は美人だった。
観賞用としての美人ではなく、男を引きつけずにはおかない、独特の雰囲気を持っていた。結婚し、心身ともに安定した生活を送るようになって、早苗の魅力には一段と磨きがかかった。
結婚して2、3年めまでが、繁夫にとっては最高に幸福だった時だったかも知れない。
この頃から繁夫は、何故、自分達には子供が生まれないのかと不審にとらわれる日が多くなっていた。2人の間には、結婚したばかりの頃ほどまでには行かないが、それでも週2回から3回ほどの交わりはあった。
早苗は、結婚してから2、3ヵ月もたった頃には、肉体の内部から突き上げてくる抑えようのない痺れるような快楽を味わうことが出来るようになっていた。早苗は、性に対して何の偏見もこだわりも持たない女だった。繁夫との肉の交わりそのものを楽しめる女だった。
だから、繁夫と妻とは夫婦生活の回数が少ないということもなかった。寧ろ多すぎる方だったかも知れない。
2、3年の間に子供が出来なくても不妊症の絡印を押すのは早すぎる。5、6年目に初めて妊娠したという夫婦は世間にいくらでもいる。
だが、それは結果から見ての話である。繁夫には、2人の間に子供が出来ない理由として、密かに案じていることがあった。
ある日決心して、彼は医者の門を入った。結果は、彼の心配していたとおりのものであった。彼の精液では、女を妊娠させることは不可能であった。精液中の精子の数が極端に少ないのだった。
それはどうやら、彼が患ったお多福風邪のためであるようだった。
妊娠しないのは主として、繁夫の側に原因かあることがわかった。このことは繁夫1人の胸の中の秘密であった。早苗にこのことを告げたら早苗はどんな反応を示すだろう。そのことが繁夫にはこわかった。恐怖であった。
早苗は最近よく子供のことを話題にするようになっていた。近所の子供達を見ると、繁夫に、「あんな可愛い赤ちゃんが欲しいわね」とにっこりと笑いながら言うのだった。
こうして、5年が経過し、7年が経過し、10年が経過した。
繁夫は、何度かの転勤を経験し、着実に出世コースを歩んでいた。
だが、2人の間に子供が出来ないのは相変わらずであった。
早苗も、この頃には、2人の間に子供が出来ない原因について薄々感付いているらしかった。早苗は早苗でこっそりと、医者に相談をし、診察を受け、生殖器菅に異常はないとの診断を受けていた。「あなたも一度、お医者さんに診て貰ったらどうかしら」と房事の終わった後、繁夫に、時々言うことがあった。30代も半ばになって、まだ早苗は妊娠することに対して執着しているのだった。
繁夫は、最近、早苗との交渉が苦痛になってきていた。それは、最初は、欲望と、彼の器管との空回りという形で襲ってきたのだった。
つまり、早苗に対する欲望はあるのだが彼の意に反して、男性の象徴たるものが象徴たる機能を果たさなかったのだ。
ショックだった。彼は、インポテントという言葉も、その現象も世間の男並みには知っていた。
だが、自分は全く無縁の男だと信じていた。女性に対して、男性として機能し得なくなるということが自分の身に起こるとは露ほども考えたことはなかった。
それが、当の自分に、何ということだろう、まさにこの自分に降りかかってきたのだった。
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