文=横田猛雄
絵=伊集院貴子
【旅の一座】
毎年一月八日の午后になるとデン助らの一座はトラック二台でやって来て同じ場所に小屋掛けをし、それが出来るとチンドン屋となって、仏壇仏具屋や他の色々な商店の並ぶ仲町通りをにぎやかに行進しておひろめをするのです。
デン助はその行列の中央に、黄金バットのようなマントを着て、紫の褌を締め、胸前に小さな太鼓を付け、ラッパ(昔の軍隊のもの)をプープー吹き、三味線や他の人達にまじって肩いからせて行進し、所々で止まっては行列の一番前の裃姿で拍子木を持った男の人が座長として、
「ご当地に又又やって参りましたデン助一座でごさいます。親の因果が子に報い、生まれ出でたのはあわれこの子デン助めにございます……」
と哀調を帯びた渋いよく通る声でロ上を述べ、その後デン助がラッパで「夕焼けこやけ」を一節だけ吹いて、次にゆずると次のスターが夫々手に持つ楽器で何か音を出して見せるのてす。
ラッパの音が聞こえ始めると商家では皆が軒の下に出て来、親は幼い子に、
「あれ見い、お父ちゃんやお母ちゃんの言うことを聞かん子はバチが当たってあんなんになってしまうんやから、よう見ときな!」
と言い、お婆さんたちは、
「かわいそうになあ、あんな片輪が出来てしもて、親はつろうて死んでも死に切れんぞな、ナマンダブナマンダブ」
と手を合わせて本山の方を拝むのです。
この一座には他にも蛇女とか牛女とかニワトリ女とか人魚とかクモ女とか、ロクロ首もいました。
ロクロ首とクモ女とは小学二年の時(昭和二十五年)に見ましたし、蛇女は女夕ーザンのようなお姉さんが小さな蛇を鼻から入れてロから出したり、大きなのを肩に巻いたりしていました。
牛女というのは臍から下が牛とのことで、裸の女の人がいて、その人の臍の少し上までススキのような草が植えてあり、草の間から牛の脚や腹がかすかに見えていたそうで、ニワトリ女というのは、木戸ロに大きな写真が飾ってあり、ニワトリの身体にこれも臍から上が女の人で、我々はそれを朝の通学時に見て、
「写真があるのやから本物にまちがいない」
と納得したもので、当時我々を含めて田舎の善男善女はすべて、そのように納得していたようです。
当時は小・中学生は大人と一緒でなくてはそんな所に入れませんし、小遣い銭としての現金など持っていませんから、誰もが見たくても中々見られなかったのてす。
一大体親と共に行くと無駄遣いになると言って見せてもらえず、近所の年長者や年上の兄弟と行く時が見られるチャンスでした)見たと言う同級生の話では、ニワトリ女は当時(昭和三十年頃)流行った「チャチャチャ」の歌に合わせて踊っていたそうです。
小学校の頃見たロクロ首は娘浄瑠璃の裃姿のお姉さんが、前に置いた平たい太鼓を叩くとその首が一メーター二十くらい上に伸び、又縮んでもとに戻るのですが、小学校低学ヰの私にも、背後の幕がゆらゆらしていて、幕のうしろに誰か別の人がいるらしい感じがしました。
女の人の首の下に肌芭の長い女用の靴下を付けて首に見せていたようですか、薄暗くした小屋ですぐ間近で見て本当のように見せるのはさすかプロでした。
その隣の天井に張られたロープに吊った竹籠の中に入って首だけ出している娘さんがクモ女で、これは全くのお笑い、人魚というのはお姉さんが素裸で風呂につかっているだけけで、湯気で下半身はぼんやりして見えず、それでも木戸ロの呼び込みは、
「南の島で捕らえた世にも珍しい人魚!」
と連呼していました。
(続く)
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