文=横田猛雄
絵=伊集院貴子
【天下の絶品善光寺チンボ】
酒屋のお姉さんは抜か六責めでお尻の穴を貫かれてのピストン運動で悶絶してしまい、そのまま大きなお腹を横たえ、お姉さんにそっと掛け布団を掛けられて一眠りしますが、そんな時よくうわごとに、
「ゼンコウジチンボや、ゼンコウジさんや、ああええわ……」
と言いますので私は何のことだろうと思いました。
お姉さんも何の意味が分からないと言うものですから私は酒屋のお姉さんに
「ゼンコウジチンボて何?」
ときいてみました。
眼を覚ました酒屋のお姉さんは恥ずかしそうに笑うと、
「私はそんなことロ走っとった?いやあ恥すかしい」
と言いながらも詳しくよく分かるように教えてくれました。
ゼンコウジとは察していた通り、信州信濃の善光寺のことです。
そう言えばお爺さんやお婆さんがよく言っていましたが、『牛にひかれて善光寺参り』という諺があります。
それは善光寺さんがいかに有り難いお寺であるかを説いたもので、昔ある宿場町に信仰心のカケラすら無い欲深で非情な婆様が居たんだそうです。
この婆様は人々が皆有り難い有り難いと言って善光寺さんに参詣するのを見て、
「フン、寺参りなど無益なことよ、足がくたびれるだけ損じやわい。阿呆めが」
と言って川で洗濯をしていると、そこへ一頭のコッテ牛が暴走して来ました。
コッテ牛というのは去勢していないキンタマの付いている雄牛のことで、コッテ牛は力が強いのですが反抗的であり、上手に扱わないと人間に向かってかかって来たり、綱を切って逃走したりするのです。
その日は百姓がうっかりして手綱を放したので牛が逃げたのです。
牛は一本道を婆様が洗濯している所へ来て、その角の先に婆様の大事の着物を引っ掛けてそのまま暴走してゆきました。
着物を持って行かれた婆様は、
「やれこの牛めが、俺の帷子返さんかいこら、やい返してくれ、待てこのどっ畜生めが!」
とののしりながら息を切らせて何里も何里も山坂越えて追い掛けたのだそうです。
そうやって婆様がおよそ小一日追い掛けて、やっと牛がどこかの大きなお寺の山門に駆け込むのを見つけ、やっとのことでそのお寺の本堂の前で牛が止まったので自分の帷子を取り返すことが出来たのですが、ふと前を見るとまるであの世の極楽とはこんなものかと思うような有り難いお堂があり、不信心の婆様も生まれて初めて有り難さに心打たれて一遍に信仰心が生じてきて心やさしい婆様になり、ゆっくりとそのお寺をお詣りし、ここはどこかと人に問うと、このお寺こそ有り難い善光寺さんだということが分かって前非を悔い、その後信心厚く大往生をとげたとのことで、善光寺参りのお土産によくこの婆様が牛を追いかけて走る姿を描いた盆や菓子があり昔からよく知られた諺ですが、『善光寺チンボ』とはこの予備知識を基にして更に大人の知恵を付け加えないと分からない高等哲学なのです。
つまり婆様は行き(善光寺へ)は心臓が破れるような、つまり死ぬほどえらい目をしたが、帰りにはすっかり仏の慈愛に包まれて至福感に満ち満ちした、つまり、行きは辛い苦しいけど、帰りはこんなええものはこの世に又と無いということで、善光寺チンボというのは極上の逸品のことで、それは全体的に擂粉木のように元より先の方が太い形をしていて、更に大切なことは先端の亀頭部が胴の部分より一段と肥大していて、しかも蝮の頭のように、或いは松茸のようにしっかりと鰓の張ったもので、吠えると芋みたいにゴツゴツに硬くなるそんな形のチンボを善光寺チンボと言うのだそうで、そんなチンボで貫かれると、先が太くて鯉が張っているので、そんなのが侵入して来ると、来る時(つまり行き)は息が詰まるくらい辛いけど、引かれる時は鰓の抵抗が膣壁をゴリゴリ擦ってまるで生きながら極楽に行ったような快感を味わえるということで、だから、
「行きは辛いけど帰りは極楽の善光寺チンボ」
なのです。
(続く)
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