文=横田猛雄
絵=伊集院貴子
【押して勝つ】
かの露西亜の怪僧ラスプーチンに勝るとも劣らぬ我が国奈良時代の妖僧・弓削道鏡は、大和国の弓削氏(弓削部と言って弓を造ることを職掌とした家柄)の出身で、幼少より仏門に入り、若くして学僧としてその才能を現わし、時の天皇である称徳女帝に見出され、その巨マラを振って女帝を我思うままに操って、日本の国を思いのままにしたのですが、面白いことに女帝と道鏡とには、二人に共通した語り伝えがあるのです。
道鏡はある時、野外で放尿中局部を蜂(雀蜂か?)にやられ、当然のこととしてこれによって局部つまりチンチンが筍のように太く節くれ立って膨れ上がり、何とその後も腫れが引かばこそ、段々と生長して、世に類を見ぬ巨マラになってしまったのです。
片や称徳天皇(女帝)の方も、野に遊んだある時、洞穴の前で放尿中をこれも大切な所を蜂に刺され、ポンポンに紅く膨れ上がって熱をもってきて、とうとう比類無き巨大なマンコになってしまったと言うのです。
さあ天皇は困りました。
人並みに性欲の処理を、と思っても、どいつもこいつも皆細くて短い頼り無いチンボばかりで、とても自分のあそこに対等の勝負の出来る男が一人もいないのです。
やっとのことで見付けた、藤原仲麻呂という男のものが、並の男のものより大型であることが分かり、以来この仲麻呂を自分の性欲処理機として寵愛し、国政の方も大方この男にまかせるようになり、従って仲麻呂は一躍天皇を陰で操る、この世の最高権力者になったのです。
そんなある日、女帝と道鏡とのめぐり逢いがあり、それが仲麻呂の運の尽きとなるのです。
女帝に接近して来た学識豊かな魅力あふれる道鏡の僧衣の下には何と、女帝も腰を抜かす程の凄い超弩級の凄マラが飼われていたのです。
仲麻呂のものとて人並みはずれて巨大なものなのですが、あまりにも道鏡の物の方が優れているのです。
比べれは仲麻呂のものは完全に見劣りがします。
彼も自らそれを認めて、座を去らずにはおれません、昨日まで栄耀栄華に酔い痴れた、あの席はもう彼のものでは無く、新参の若造の道鏡に占領されたのです。
女帝も見劣りのする彼のチンボなど今はもう不要品として一瞥もしてくれないのです。
「ああ桁が違う……」
彼はみじめな気持ちで消えました。
だがおさまらないのは仲麻呂の胸のうちです。
憎き道鏡めと、自分をあっさりと廃棄物扱いにした称徳女帝とに一矢報いるべく、男の意地で起こした反乱が『藤原仲麻呂の乱』です。
だが、これはいとも呆気無く鎮圧され、仲麻呂は首をチョン切られてしまいました。
後になって江戸時代の庶民らが川柳でこの事件のことを左のように誦んでいます。
“押して勝つ、気でもヘノコが、立たぬなり”
“○○○○は、医者も親子も、招き入れ”
江戸期の庶民には、これだけで察しがつき、おかしさが分かったこの二句の川柳も、今では注釈が無いと分からないでしょうから説明しますと、左のような内容になります。
「押して勝つ……」
とは、藤原仲麻呂の別名です。
恵見押勝と言ったことに掛けて、押勝つまり仲麻呂が女帝の寵愛をうけたのは、きっとチンボをいつでも呼ばれた時にはピンピンに立てて、女帝の欲求に腰を使って、押してピストンをする男妾的な存在であったのに、強敵道鏡の出現により、自分のものよりはるかに巨大な道鏡のものに対して完全に自信を喪失してしまって腎虚(つまりインポ)になってしまった。
女帝の寵愛をつなぎ留めるために、せっせと押そう(腰を押し出そう)と思っても、もうヘノコ(チンボの別称)が言うことを聞かず項垂れてしまって、これで誰が見ても、客観的に完全に道鏡の圧勝だと言っているのです。
辛いことですが、これが大自然の掟であり、チンボの貧弱な男は、すごすごと去らねばならないのです。
悪あがきするから首が飛ぶのです。
(続く)
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