『15×24(集英社)』
著者=新城カズマ
レビュアー=四日市
「この物語は『情報処理』の物語であると共に「生と死」のジュブナイルでもある――(四日市)」。携帯電話を筆頭とする各種情報処理ツールが生み出す予想外の脈絡。人生における「生と死」、ネット社会を泳ぐ情報の塊としての「生と死」、そして……。あなたが今、実感しているリアルとは一体何だろうか。
大切なことなのでもう二度言うつもりだが、この小説はおもしろい。
売れていないらしいので今すぐ街に出よう、書店へ行こう、漱石を本と交換しよう。Amazonでポチるのもいいだろう。
作者の新城カズマは主にSF作家として主に少年少女に向けた作品を発表しているが、この作品について語る上で触れておくべきなのは「蓬莱学園」だろう。「蓬莱学園」シリーズはPBM(Play By Mail)、複数のプレイヤーが自分の行動を葉書で送りそれらに基づいたシナリオを構築する、プレイヤー同志がやたらと遠距離でレスポンスに時間のかかる TRPGのようなもので、新城カズマはそのゲームマスターを務めていた。
タイトルの「15x24」は、15人かける24時間という意味。15攻めの24受けではない。
タイトルの表わす通り、物語は15人の主人公によって織りなされる物語で、あとがきでも言及されているが冒険小説『十五少年漂流記』と海外ドラマ『24』はもちろん、意識されているのだろう。
主人公の一人である徳永順が「ネット心中」に臨むところから物語は始まる。徳永の心中相手はインターネットで知り合った顔も名前もわからない、ハンドルネーム「<17>」という人物。<17>との心中のために、待ち合わせ場所へ向かう徳永は、携帯電話で推敲していた「遺書メール」を、トラブルに巻き込まれ誤って送信してしまう。
このメールが様々な人物の間を誤解されながら転送され、心中を目論む徳永順と、彼を捕まえ自殺を食い止めようとする「捜索隊」との鬼ごっこが始まる。
主人公が15人もいるなんてややこしいし、そんなにキャラクターの名前を覚えることなんてできない……シスター・プリンセスの妹の名前すら覚えられなかったのに、なんてお兄ちゃん落第生、アニメキャラは髪の毛の色か声優で覚えるタイプのひとも心配する必要はない。物語は各キャラクターの一人称視点が切り替わりながら進行し、そのケータイ小説的な語り口とパーソナリティが適切に個人を判断できるよう特徴付けられている(そのため、やや紋切り型と言えるような個性の立ち方にもなっているのだが)。一巻の、物語がめまぐるしく動き始める前の助走とも言える「生と死」に関わる『真剣10代しゃべり場』展開は真剣でも10代でもない読者にとって退屈ともいえるが、この助走の過程で文体とキャラクターの紐付けは完了するだろう。ついでに、完結まで毎月刊行されるので忘れる暇のない親切販売戦略だ。
携帯電話の普及以降、物語作家にとってこのやっかいな道具をどのように物語へ導入するか、自然に溶け込ませるかは大きな課題だったように思う。携帯電話で常に連絡を取り合えるという事態は物語のカタルシスを演出する「擦れ違い」を適宜、訂正してしまう極めて厄介なものだ。
しかしその思い込みは、情報と、その伝達手段と、発信者、脈絡を一緒くたに考えることで起きる誤解だということを、この物語は語ってしまう。
携帯電話、電子メール、ブログなどのシステムが情報を正しく伝達するためにはあまりにも多くの前提を必要とする。情報を発信した端末は明らかだが、そこに示された発信者が本当に本人なのか? その伝達された情報はどこからもたらされた情報なのか? 我々は普段、「ツールが正しく利用されている」ことを前提にすることで、ツールを便利に扱えている。しかしこれらのツールは情報の伝達と拡散を飛躍的に加速化させるための伝達手段に過ぎない。だとすれば誤情報だって拡散させないわけがない。
作中で実際に起きていることを挙げれば、携帯メールが転送に次ぐ転送を繰り返され、一次情報の発信者が不明になる。二次情報発信者が一次情報源と誤解され、発信者への印象に誤解が生じる。その擦れ違い、誤解の様を見下ろす読者体験は実に快感だ。この物語は「情報処理」の物語であると共に「生と死」のジュブナイルでもある。そしてこの高度に情報化された世界にあって、人間とは膨大な情報の塊とも言える。本作をその生と死の物語と捉えれば、思春期の少年少女に向けたジュブナイルからまた違う情報が浮かび上がってくるだろう。
冒頭で宣言した通り、もう一度言う。
この小説はおもしろい。
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