文=抱枕すあま
その日は会社を出たのが遅かったため、コンサートの開演まで時間がなく、詳細についてはメールで連絡して貰うことにした。コンサートが終わり、家に帰った時には、サチ隊長からのメールが届いていた。そのメールには、こう書かれていた。
すあま様 おつかれさまです。
○日はよろしくお願いします。
11時に××スタジオまでお願いします。
わからないときは電話をもらえれば、お迎えにあがります。
内容は、マニア倶楽部の巻頭グラビアです。
カメラマンは、杉浦則夫になります。
私の頭の中を、何度もこの言葉が駆け巡る。
カメラマンは、杉浦則夫になります。
杉浦則夫になります。
杉浦則夫……。
ちょ、ちょっと待って!
杉浦先生ですと!!
しかも、巻頭グラビア!!
ど、ど、ど、どうしよう……。
中学生の頃の私は、エロ本やビデオが買いたくても、お小遣いが足りなくて、なかなか買うことができなかった。身分証明書が必要なレンタルビデオは、もちろん利用できなかった。そのため、私が手に入れることができたのは、古本屋で200〜300円で売られていたSM雑誌だけだった。
『SMファン(司書房)』、『SMセレクト(東京三世社)』、『SMコレクター(サン出版)』、『S&Mスナイパー(ミリオン出版。昔はワイレア出版ではなかった)』、『SM秘小説(三和出版)』などなど。
「自分はSだ。アイツはMだ」などと、会話の中にSMという言葉が気軽に使われるようになり、一般社会に認知された現在よりも、あの当時は様々なSM雑誌が出版されていたのだ。まだまだ、『変態』という言葉に重みがあった時代である。SM雑誌などを読んでいることが親にバレたら、すぐに家族会議が開かれ、勘当されていたことだろう。
そんなSM雑誌を愛読していた中学生の頃の私が、杉浦氏のグラビアに惹かれていくのは、当然のことだった。いや、惹かれていったというよりも、大きな衝撃を受けたといった方がいいのかもしれない。SMという世界を、生まれて初めて教えてもらったのだから。
この頃のSM雑誌は、全体の8割近くを官能小説が占めていたように思う。そして、この官能小説こそが、私の想像力を豊かにしてくれたのだ。そのため、小説を読んだ後に杉浦氏のグラビアを見ると、縛られたモデルさんの足下に浣腸器が転がっているのを見付けるだけで、実際に浣腸をしていなくても、様々な妄想が楽しめたのである。このような、ちょっとした小道具が写り込んでいるのが、杉浦氏のグラビアの魅力であった。
光の差し込まない日本家屋。
煤けた梁。
すり切れた畳。
そして何より、本当に少女を監禁して、悪戯をしているかのような怪しい雰囲気。
杉浦氏のグラビアは、すべてが衝撃であった。性の知識に飢えていた中学生の頃の私は、いつしかSMの世界にのめり込んでいった。当然の如く、そのSMとは、杉浦氏が作り上げたSMの世界だったのである。だから、私の理想とするSMは、今でも杉浦則夫のSMなのである。現在の主流となっているハードなSMとは、まったく異なったものなのだ。おそらく、私と同様に杉浦則夫の世界こそがSMだと思っている人たちは、意外に多いと思うのだ。
ネット上では、私のような30代半ばの人たちから、すでに定年退職を迎えた人たちまでが、杉浦氏が昭和の時代に撮影したグラビアを肴に、モデルさんの名前や掲載雑誌名などについて、いまだに熱く語り合っているのだ。乳首の横のホクロを頼りに、名前の違うモデルさんが同一人物であるかを調べたりしている。
こんな話を杉浦氏にしたところ、
「面白いねぇ。『杉浦則夫緊縛桟敷』でも、いまだに昭和の時代の写真が人気あるんだよ」
と言いながら笑っていた。
私だけではない。みんな、あの頃の杉浦氏のグラビアから受けた衝撃が忘れないのだ。だから、いまだに昭和の頃のグラビアに夢中になっている。杉浦則夫は、我々にSMというものが何かを教えてくれた母なのである。今度会ったら、お母さんと呼ばせてもらおう。日本人が考える、SMというものを作り上げたのは、杉浦則夫であると言っても過言ではないのだから。
正直な話、モデルさんの容姿は、現在の方が遙かに優れている。ただ、あの頃の雰囲気を持ったモデルさんは、絶滅の危機に瀕しているといえる。都会に洗練された女性ではなく、隣に住んでいそうな、真面目で野暮ったい娘が。
古びた日本家屋に連れ込み、監禁して悪戯をしようとするには、顔見知りで何を言われても断り切れないような純粋な娘でなければ、リアリティがない。アイドルのような容姿ではなく、隣の家に住んでいそうな、近所で評判の気立てがよくて優しいお嬢さんが、杉浦氏のSMには似合うのだ。
(続く)
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