皮革拘束のみに絞った日本国内初のボンデージ・サイト「Fetish Stage」。
縄拘束とは違った魅力を醸し出すレザー・ボンデージ。そこにこだわって映像作品を撮り続けてきたMikeyさんがお届けする、アメリカでのボンデージ体験記です。
文=Mikey
次に働いた職場は、映像関係以外に雑誌の出版事業もやっていたため、仕事はかなり忙しく、休みは自己申請しないともらえないし、キツイけどそれはそれでヤリガイはかなりあった。
また前の会社を辞めたため、L.A.に住んでいるジョンやボンデージの人脈とも距離が随分開いていたが、1998年の正月が明けた頃、L.A.へ出張取材でADとして急遽渡米することとなった。
当時はインターネットもEメールも今ほど普及していなかったし、パソコンを持っていなかったので、ジョンとのコンタクトはもっぱら文通形式での手紙や、たまに国際電話で話す程度になっていた。
出張当日、大韓航空機で僕ら取材クルーがL.A.に到着したのは現地時間の朝8時。到着日は一日オフだったこともあり、クルーをホテルへチェックインさせた後、ジョンとコンタクトを取り、久々に会ってランチでもしようとメルローズにあるイタリアンピザ屋へ向かう。
食事を終えて、珈琲ショップでお茶をしている時にジョンから突然バイトの話が舞い込んで来た。
「オレはオマエのボンデージ・センスを買っているからお願いしたいんだけど、『ビザール・プロダクション』の副社長がBDSM系のボンデージ・ビデオの撮影現場で日本人のBDSM感性が欲しいって言っているんだよね。日本では映像の現場でアートディレクションもやってるんだろ? そのセンスと趣味嗜好を活かしてBDSMの撮影現場でもアートワークをやってみないか?」
ジョンは2日間拘束で500ドルのギャラをそこの副社長は出してくれる、と説明する。結構もらえるもんなんだなぁーって正直思いつつ、これはチャンスかも知れないという誘惑と、自分にアートワークなんかできるのか、期待と不安が入り混じりながらも参加することにした。
会社から与えられた期間は2週間、とある人物の密着取材だったが日本で仕事している時よりか遥かにラクちん。スタッフも現地の人間でお願いしていたのだが、彼らは1日の労働時間が8時間までと決められた契約だったため、必然的に僕ら日本から飛んだスタッフも仕事が早く終わる。
日本からの出張取材が終わった段階で本当は帰国しなくてはならないわけだが、オープンチケットだったこともあり、会社へ国際電話で連絡をした。
「L.A.でAVの現場仕事を手伝って欲しいとのオファーが僕へ直接あったんですけど、勉強のために2日間帰国を延長して参加してもよろしいですか?」
どっちにせよ、500ドルは会社へ入れるバイト料になるわけなんで、僕自身は体験したことのない現場を味わってみたいという好奇心のほうが強かった。
勉強することに寛大な会社だったせいか無事に許可がおり、ADで下っ端だった僕だけがL.A.へ居残り、ジョンの自宅で2日間居候させてもらうことになった。
AVの現場撮影すら経験したことのない28歳現場ADの僕は、撮影前日の夜は緊張して全く眠れず、サンタモニカにあるスタジオへ向かうことになるのだった……。
(続く)
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