THE ABLIFE March 2011
「あぶらいふ」厳選連載! アブノーマルな性を生きるすべての人へ
縄を通して人を知り、快楽を与えることで喜びを得る緊縛人生。その遊行と思索の記録がゆるやかに伝える、人の性の奥深さと持つべき畏怖。男と女の様々な相を見続けてきた証人が、最期に語ろうとする「猥褻」の妙とは――
「ぼく、だめなんだよ。
またいま、自涜をしてきてしまった。
便所の中へ入ると、かならず自涜したくなるんだ。
やってはいけない、と思っても、誘惑に負けて、
がまんできずに手がのびて、
前のほうを握ってしまうんだ」
またいま、自涜をしてきてしまった。
便所の中へ入ると、かならず自涜したくなるんだ。
やってはいけない、と思っても、誘惑に負けて、
がまんできずに手がのびて、
前のほうを握ってしまうんだ」
私に「自涜(じとく)」という言葉をおしえたのは、商業高校で一年先輩の、三上という少年だった。
いまだから客観的に「少年」と言えるのだが、たった一つか二つだけの年上ではあっても、当時十二歳の私にとっては、三上はもう立派な大人に見えた。
「自涜」というのは、旺文社の国語辞典によれば、
「手淫(しゅいん)・オナニー」
のことである。
ちなみに、私の手元の岩波の国語辞典には「自涜」は載っていない。もう死語になっているということか。
「自涜」は消滅しているが、岩波のほうにも「自慰」は載っていて、
「1、みずからを慰めること。2、しゅいん(手淫)」
とある。
いまは「オナニー」が一般的(?)だが、私などの若い時分には「マスターベーション」と呼ばれることが多かった。それ以前は「せんずり」である。
ま、こんなことはどうでもいい。
三上という不潔な先輩のことを書かねばならない。
彼と私が知り合ったのは、入学式の日だった。
式が終わり、校門のほうにぞろぞろ歩いていく私たち新入生を、この学校の先輩たちが校庭の隅にたむろして待ちかまえていて、
「おい、教科書売るよ、試験の出るとこ買いてある教科書、安く売るよ」
口々に声をかけるのだ。
いまは平和ボケ、ぜいたくボケ、飲食ボケの世の中になってしまったが、アメリカとの戦争が始まって、日常の物資も欠乏していく時代に突入していた。
教科書も新しいものは不足し、先輩が一年間使ったものを新入生に安くゆずり渡すという制度みたいな習慣ができあがっていたのだ。
その日、声をかけられるまで、私にとって三上は見知らぬ先輩だった。
「ねえ、きみ、ちょっと見てごらん。試験の出るところ、他のやつらよりこまかく書き込んであるんだよ。便利だろ。よけいな勉強しなくていいんだよ」
私に接近してきた三上は、私の顔の前で五、六冊の教科書をつぎつぎにひろげ、鉛筆でぎっしりと書き込んであるページを示した。
口のきき方はていねいだったけど、三上の顔はニキビだらけで、その赤紫色にふくれたニキビの粒の一つ一つに臭気がして、初対面から不潔な感じがした。
だが、その古い教科書の値段はたしかに安く、ページへの書き込みもていねいなように思えて、押しつけられた教科書の全冊を買ってしまった。
それだけの関係だったのに、その後も学校の内外で彼はひんぱんに私につきまとってきた。
あまり人のこない校庭の片隅に私を誘うと、暗い表情とぼそぼそした低い声で、ささやくように私の耳に言うのだ。
「ぼく、だめなんだよ。またいま、自涜をしてきてしまった。便所の中へ入ると、かならず自涜したくなるんだ。やってはいけない、と思っても、誘惑に負けて、がまんできずに手がのびて、前のほうを握ってしまうんだ」
ジトク、という彼の言葉の意味が、最初私にはわからなかった。
だが、やがてわかった。
自涜とは、時分を涜(けが)す、ということだ。
小学校(当時は国民学校といった)を終えたばかりの十二歳の後輩にむかって、この先輩は何を言うのか、と私は怯えと軽蔑の目で彼のニキビ面を見た。
だが、彼の表情には、私をからかったり、バカにしているような気配はなかった。
彼は、自分が溺れ込んでいる自涜の「悪癖」から脱しようと、まじめに悩んでいるのだった。
その悩みを、年下の後輩に訴えることによって「悪癖」から逃れようともがいているのだった。
彼がまじめになればなるほど、彼の顔のニキビが赤紫色にふくれあがり、数も増え、臭気も強くなるのだった。
「ぼく、どうしてもやめられないんだよ。どうしたらこの悪癖を断つことができるだろうか」
どんなに苦悩の表情で訴えられても、「自涜」の経験もまだ浅く、性欲というものの実体もよくわからない少年の私には返事することができない。
そうなのだ、結果的には、私は、この三上という学校での先輩から、こんな屈折した形で、「自涜」つまりオナニーという、男子一生の行為を教わったのだ。
いや、教わったというより、彼の苦悩に充ちた告白によって導かれた、といったほうが正確かもしれない。
私がオナニーという行為を始めたのは、いつだったかはっきりした記憶はない。
だが、三上の告白の内容を、ある程度は理解していたのだから、このときすでに知っていたにちがいない。知っていたとは、実行していたということである。
ただし、私がやるオナニーの場合、断片的に三上が訴えていたように、女性の肉体とか、性器そのものを思い浮かべながらの行為ではない。
いま思うと、私自身でさえ奇異に思えるのだが、私が空想あるいは妄想するのは、女性の性器ではなく、「縛」という一字であった。
女性の肉体から離れて、「縛」という一時を見ることによって、あるいは思い浮かべることによって、私は興奮し、そして、ペニスを勃起させるのである。
勃起させようと思って「縛」という字を思うのではなく、新聞紙上とか雑誌とかで「縛」という活字を見ると、とたんに勃起してしまうのである。
なのでオナニーするとき、女性を思い浮かべる必要はないのである。
これは一体、どういうことなのだろうか。
(続く)
『濡木痴夢男の秘蔵緊縛コレクション1「悲願」(不二企画)』
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