WEB SNIPER's book review
「魂と魂が握手するような出会い」を求めて――
オリジナル作品のみを扱った同人誌即売会「コミティア」は、どのように生まれ、どこへ向かおうとしているのか。漫画と同人誌の歴史・文化に興味がある人や、出版業界に関心のある人は必読の一冊。あらゐけいいち描き下ろし漫画収録。
以前『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社、2014年)、『日本のZINEについて知ってることすべて』(誠文堂新光社、2017年)の書評をしたときも驚いたが、すべてを把握し、一冊にまとめたいという欲望はどこからくるのだろうか?
もともとはコミティアのカタログ『ティアズマガジン』に連載していたものをまとめたものということはあるかもしれないが、関係者へのインタビューや背景の説明、注釈、事実確認などの労力を考えただけでも目が回る。どれだけ広範な知識をもとにつくられているかは、参考文献の量を見れば一目瞭然であろう。そのような労力も本書のタイトルに「魂」と付けられていることと無関係ではない。
さて、恥ずかしながら筆者は小学生以来、漫画を描いたこともなければ、同人誌即売会に行ったこともない全くの門外漢でこのような世界があることをほとんど知らなかった。「コミックマーケット」が東京ビックサイトでやっていて、即売会やコスプレで時々ニュースになっていることはもちろん情報として知っているが行ったことはないし、パロディのような二次創作と、創作漫画の即売会が分かれていることも知らなかった。そのようなことで本書を評するには、まことにふさわしくないと思うが、筆者の知識との接点を探りながら本書やコミティアの価値について考えてみたい。
見えてくるのは漫画を巡って幾つもの層が分かれていることだ。一般的に私たちが言う漫画は、漫画雑誌に連載されているもので、ストーリー性があるものが多い。しかし、それは手塚治虫を起点とした戦後の発明である。アニメーション映画を撮影するお金がないので、漫画を映画化したといってもよい。だから漫画の中には宿命的に絵コンテや脚本の要素がある。それがアニメ化、実写化する要因である。昨今の不幸な事件が起きる鍵でもある。「アニメ」もまた、ディズニーのようなフルアニメーションではない、コマ落ちや再利用の技術によって生まれた制作資金、時間、マンパワーのない中から生まれた。
戦後の財閥解体や農地解放によって、無階層化、総平民化した日本では、創り手も受け手も潤沢な資金はなくなったため、富裕層の芸術は下火になり、むしろ大衆文化の漫画やアニメが花開いた。そのような背景もあってか、現時点においても、日本ほど漫画やイラストをうまく描ける人が多い国もないだろう。創り手も受け手の知識や技能、プロとアマチュアが限りなく近い中でコミュニケーションをする文化の土壌が日本にはある。本書でも触れられているが、それらの日本の戦後大衆文化を、海外の富裕層の文化圏にある現代アートに翻訳したのが村上隆である。
70年代から80年代になると、そのような分厚い漫画受容層の中から、多くの漫画同人が生まれる。日本各地で、高校や大学の漫画研究会を始めとした、同人サークルが勃興していた。また、漫画同人の活動の延長線で、コミックマーケットに代表される同人誌即売会が勃興していく。それらと商業誌の関係は、複雑なものがあるが、商業誌向きではない作品を掲載するインディーズ的な要素もあるし、その中からメジャー流通としての商業誌に移行する作家もいる。あるいは、オリジナルの漫画やアニメのパロディを主にするいわゆる二次創作やコスプレなども生まれる。私たちがテレビのニュースで見るのは、主に二次創作やコスプレが盛んなコミックマーケットだろう。
その中で、コミティアはオリジナル作品に限定した同人誌即売会だ。本書でも、オリジナルと二次創作、コスプレとの複雑な関係が何度となく出てくる。コミティアの二代目の代表である中村公彦はもともと同人誌情報を多く取り上げていた『ぱふ』の編集者で、同人誌即売会を出版社として支援してきたが、初代代表が就職で東京を離れたことに伴い運営を担うようになる。その後、兼業の負担と収益性の見通しを得たことから独立。コミティアを法人化し、専業として続けてきた。本書はそれらの立ち上げから現在の運営までの経緯を、コミティアのカタログ『ティアズマガジン』136号(2021年6月6日)から144号まで全9号で「コミティア魂」として連載された記事を再編したものだ。
とはいえ、コミティアはあくまで一法人が主宰している、一つの同人誌即売会に過ぎない。それが一般書籍として販売されるということは異例であるし、それだけ多くの同人の思い入れがあり、公共性、公益性をもっているという証拠であろう。
特徴として、コミティアが後に商業誌にデビューする作家たちを多く輩出していたり、商業誌の原画展が開催されていたり、プロの編集者のアドバイスが受けられる出張マンガ編集部が置かれたり、積極的にアマチュアとプロの交流を盛んにしたことも大きな点だろう。例えば、コミティアに同人として参加していて、『週刊漫画アクション』からの依頼で書き下ろされた、こうの史代の『夕凪の街』はその顕著な例だ。原爆後遺症という繊細なテーマであるため掲載が一時保留されていたが、コミティアで見本誌が出品されて話題となり掲載が決まる。しかしその後『週刊漫画アクション』が休刊されたため、再度、同人誌としてコミティアで販売されている。
その後、インターネットやpixiv(ピクシブ)などのSNSの登場によって個人発表や課金が容易になったり、漫画雑誌の廃刊が続いたりする。さらに、非実在青少年問題、児童ポルノ問題、著作権法非親告罪化、東京オリンピックに伴う東京ビッグサイトの使用停止、そしてコロナ禍など、時代が大きく変化するなかコミティアは継続されてきた。コロナ禍の際には経営難によって継続が危ぶまれたが、クラウドファンディングで約1億5千万円もの資金が集まる。それを機に代表が中村から吉田雄平に変わる。
その際、何を引き継ぐべきか再確認するために連載された記事が「コミティア魂」だ。公式ウェブサイトには、コミティアは「描き手と読み手の、あるいは描き手同士の作品を介して魂と魂が握手するような出会い」があると記されており、本書のタイトルの由来にもなっている。本文にはかみ砕いて以下のように解説されている。
「会場で描き手と読み手が作品を通じて出会う瞬間、心の中に火花が飛び散るような予感が生まれること。それは二次創作のように、描き手と読み手が同じ作品を好きな同志だとわかっている安心感ある期待とも違うものだ。ここにコミティアのコアがあり、描き手から読み手へ流れる一方通行の関係ではなく、読み手から描き手へのフィードバックが起り得る創作の生態系を作るための運動体がコミティアなのだ」
と記されている。
インターネットやSNS、電子書籍などの登場で、発表するのも販売するのも容易になった現在、同じ会場で場所を共有し、同人誌の売買を通して、オンラインでは得られない物質と物質だけではなく、心の奥の「魂」ともいえるものが触れ合い、新しい創作につながること。会いたくても会えないコロナ禍を通して、それはより確信に変わったといえる。特に、これは創作に加えて、自分たちで編集も出版も販売も行う同人誌だから起こることかもしれない。編集者や出版社の意向が入ると、表現は良くも悪くも変わる。
それはより不特定多数の人々に販売するために決して悪いことではないが、著者が本当に伝えたい内容から少しずつずれていくのは確かである。まずはそれを変えずに、外に出してそのまま受け取ってもらえるか確認したいという想いは表現者にはあるだろう。それは、手紙に近いものかもしれない。手紙に編集者や出版社は入らない。その上で、それを元に商業的、大衆的に翻訳することはあるし、その出会いの場もコミティアは提供している。
コミティアという場があることで、純粋な自分の表現を問い、受け入れられるか確認できる。「魂」とはその場や紙という形式を重ねることによって、逆にむき出しになる本性や本心のことでもある。編集者であった中村公彦が続けてきたのも、編集者もその純粋な読み手の一人だからだろう。そのような場が個人の創作のエンジンとしても、商業誌への展開としても、業界全体に影響を及ぼす生態系としてもいかに重要なのか、同時に現在、場を維持していくのがいかに難しいかを本書は教えてくれる。そのようなコミティアに対するさまざまな想い=魂が本書には込められているのだ。
文=三木学
『コミティア魂 漫画と同人誌の40年』(フィルムアート社)
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