WEB SNIPER's book review
〈眼差しの歴史〉として考える映像文明
港千尋「さん」と書いたが、僕にとっては港千尋「先生」で、20年以上前の元生徒になる。ただし、そもそも大学卒業以降を対象にしていたアートスクールだったため、先生と生徒との距離はかなり対等で、同じような目線で議論をしていただき、さまざまな活動を共にさせていただいた。
とはいっても、当時から港さんの活動や行動範囲は広く、知識も広範なため、半分以上は理解していないと思う。その距離は埋まらないばかりか、ひらいているような気がするが、わりとその活動を身近に見ていた一人なので、遍歴を「想像」することはできる。
『インフラグラム』は、約20年前の著『映像論』(NHK出版、1998年)を引き継ぐものだ。『映像論』では、すでに「ピクチャー・プラネット」という言葉で、光学的ではない(デジタル)映像に取り囲まれた21世紀の世界を予言していた。そこに物理的な痕跡はなく、いかようにでも操作される「記憶」であることも示唆されていた。
その当時はまだまだピンとこなかったが、AIによって白黒画像が自動着色されたり、さまざまなフィルターで整形されたり、不要なものを消したりすることが当たり前になった現在では、映像がすでに事実というより不確かで恣意的な「記憶」の産物であると実感できるだろう。歴主修正主義がまかり通る世の中だが、現在では「事実」の特定すら怪しくなっている。すでに「フェイク・ニュース」のほうが事実より拡散性が高い、ということも証明されているが、「フェイク」と「ファクト」の見分けは困難を極める。
また、映像に取り囲まれたと書いたが、それは「視線」に取り囲まれたといってもいいかもしれない。『映像論』にも書かれていた監視カメラが世界規模で覆う「監視の社会」の到来である。しかし、その状況は予想以上の速度と思わぬ形で進んでいる。そのきっかけはなんといっても『映像論』から約10年後に発売されたiPhoneの登場だろう。
「1984年1月24日、アップルコンピュータはマッキントッシュを発表します。そして今年1984年が、小説『1984年』に描かれているような年にならない理由がわかるでしょう」(註1)
これは、ジョージ・ウォーエルの小説『1984』に出てくる監視社会を批判した、マッキントッシュの有名なコマーシャルのナレーションである。しかし、皮肉なことに、MAC以来最大のスティーブ・ジョブズの発明となったiPhoneに代表されるスマートフォンは、人々を(相互)監視社会を構成する「端末」に変えてしまった。今ではビック・ブラザーは偏在し、我々も積極的に監視社会に参加している。我々は監視者であり、囚人でもあるのだ。
『インフラグラム』とは、映像が社会のインフラ(基盤)になった状況をさす造語であるが、本書でもiPhoneの登場がインフラ化の契機となったと指摘している。港は「カメラは常に身につけているという意味で、ポータブルよりもウェアラブルな性質を持ち、同時に写真は瞬時に拡散され、共有される傾向を帯びることになった。ここから写真はインフラストラクチャーとしての性格を強めていく」と述べている。
当然のことながら「インスタグラム」が意識されている。「インスタグラム」という造語が、テレグラム=電報という通信インフラから来ているという指摘も示唆的である。「インスタ映え」という言葉はマスコミで多用されるようになったが、インスタントカメラのような正方形のフレームによって、世界はアーティスティックに切り取られ、世界中の人々が進んでアップロードするうちに、「インスタ」で人気が出るように、世界自体が変えられていくような事態となっている。SNSがインフラとなって、あたかも集合的な意思となった現在、我々はそれに右往左往させられるようになってきているのだ。
我々が日常生活において電気・水道・ガスなどのインフラを意識せず、見えないブラックボックスになっているように、見えない映像インフラに突き動かされている。その新たなインフラを支えるエネルギーは、とりもなおさず、我々が差し出すデータなのだ。
我々が写真や動画で投稿するデータには膨大な個人情報が含まれており、それらは無色透明なものではなく、企業や国家によって使われ、その見返りとして無料のサービスを受けるという仕組みになっている。利便性を引き換えに、自由を奪われているのである。
いかにそれに頼って生きているかわかるのは、いつの時代も事件や事故などのアクシデントが起きた時である。『インフラグラム』では、この20年に起きたさまざまな事件、そして展覧会、映画、歴史などを横断的に批評しながら、今起こっている事態について、輪郭を与えようとしている。
その所作は、2015年に亡くなったメディアアーティスト、三上晴子のアイトラッキングを使った《モレキュラー・インフォマティクス》(1996)に代表される、「視線」が分子状の形を生成する作品群をヒントにしている。そこでは本来不可能な「視ることを視る」ことが実現されていた。
港は、三上の作品のように、我々の視線の先にある、映像インフラの奥の見えない意思、見えない戦争の分子を生成しようというわけである。例えば、世界で1000万人以上を動員した2003年のイラク戦争反戦デモ、2008年のアメリカ大統領選、2011年のビンラディン掃討作戦、2013年のスノーデン事件、9.11前に起こった2001年のえひめ丸事故、ドローンを使ったイスラエル軍の攻撃などに視線を合わせ、次々と情報と戦争の分子を生成していく様子は、まさに、書籍による「モレキュラー・インフォマティクス」といえよう。
くしくも、5G時代を目前として、大量の通信関連技術と知的財産を持つ中国企業ファーウェイに対して、トランプ政権は技術や情報の流出を恐れ、全方位的な圧力をかけはじめている。4Gとは破格の通信量になる5Gの通信基盤を握られることは、国家の存亡に関わるからである。これはもう情報時代の全面戦争といってもよい。中立のように見えた、GAFAのようなグローバル企業の情報も日々漏洩が発覚し、政府の検閲も明らかになりつつある。
しかし、国家、グローバル企業、そして人による情報統制の行方も怪しい。AIが多用されたとき、そこで使われる深層学習の「深層」は誰にも見えない「ブラックボックス」となるからである。AIでは近年、答えを示す教師がいない、教師なし学習の中で、GAN(敵対的生成ネットワーク)と言われる対決させながら進化させる技術が出てきているが、まさに世界は、人が介在しないAIとAIの代理戦争のようになっているともいえる。
先日、京大発AIベンチャーがGANによって全身モデルを自動生成するAIを発表して話題になったが(註2)、GANを使えば、世の中に存在しない人物や映像を生成することもたやすい。存在しないものを作ってしまうこともできる時代になり、見分けはつかない。
では、国家とグローバル企業の思惑が錯綜し、膨大な情報をAIによって操作されたとき、データを積極的に差し出し監視や戦争に加担する「端末」となってしまった人はどうなっていくのか。残念ながら、人間の端末化は、時の為政者や経営者すら逃れることはできない。人は等しく「情報分子」となるのである。
本書はスマートフォンのモニターは、我々の眼差しと、その奥にある膨大な「監視」の眼差しの合わせ鏡であるという事実を明らかにしている。しかし、その奥行きは誰にも把握することができない。ただし、その奥行きに深さを与えているのは確実に我々自身のデータでもある。見えないまでも、アップロードする前に、その奥行きを「想像」してみる必要があるのでないか、と本書は問いかけているのだ。
文=三木学
『インフラグラム 映像文明の新世紀』(講談社)
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