WEB SNIPER's book review
復興から「未来都市」を作るまでのタイムトラベル
しかしながら、大阪だけではなく、2000年代半ばから現在に至るまで、「建築街歩き本」が一つのジャンルとして確立し、かつては建築や建築史を志す人のためのマニアックなジャンルが市民権を得ている。切り口もかなりポップなものが多く、すでに飽和状態といってもいいだろう。「レトロ」と言った古典的な表現を超えて、50年代~70年代の建築は、「いい」「シブい」「ヤバい」などなど、建築をライトに楽しむさまざまな形容詞が冠され、斬新な見方の提案も多い。行政や施主の意向ではなく、建築や都市を積極的に楽しむ、使うという点では建築が成熟した文化になってきた証左といえるかもしれない。
特に、大阪の場合、現存する価値ある建築を「生きた建築ミュージアム」とし、2014年から官民一体となった「生きた建築ミュージアム フェステバル大阪(イケフェス大阪)」という建築一斉公開イベントが浸透してきており、関連書籍も多数出ている。「リビングヘリテージ(生きている遺産)」の概念を現存する近現代の建築に当てはめ、「シビックプライド(都市に対する市民の誇り)」にする試みは非常に素晴らしく、多くの所有者の協力を得て、今や100件以上の建築、毎年延べ3万人以上の参加者を動員している。今年、建築公開イベントの発端であるオープンハウス・ロンドンから派生した、「オープンハウス ワールドワイド(Open House Worldwide)」の加盟も決まった。
一方、そのような現存する建築を軸とするだけでは、都市の歴史や各時代の雰囲気を見間違うこともある。すでに解体された建築がその時代の都市を代表していることも多いからだ。何をもって代表とするかは難しいが、ランドマークになっていたり、よく使われていたり、長く残っている建築は候補になるだろう。「通天閣(2代目)」(1956)などはその典型例である。都市における代表的な建築は、住人や訪問者の都市のイメージを形成するとともに、外部記憶の装置でもある。その建築を見ると、多くのことを思い出すことができる。逆に言えば、その建築を失うことは、都市のイメージや歴史、各時代の雰囲気を失うばかりではなく、人々の記憶の一部を失うことに等しい。
そのため本書では、現存という「今」ではない、その時代時代にとって代表的な建築というもう一つの「今」を設定し、竣工当時の写真とともに時系列に紹介していくことで都市の生成と変貌を追体験できるようにしている。失われた都市の記憶を未来につなぐための、小さなタイムマシンといってよいだろう。空襲で焦土と化した都市が、急速に立ち上がると同時に、さらに解体と生成を繰り返していく様子は驚嘆する。そこには、失われた都市が見え隠れしている。
紹介されている、大阪万博の建築をのぞく42件のうち、現存するのは半数を切るわずか19件ということがその事実を端的に表している。「大阪球場」(1950)やフェステバルホールがあった「新朝日ビルディング」(1958)などはその代表例であろう。ランドマークになっていたり、駅に隣接しているような利用頻度の高い建築は、それだけ経済状態に左右されやすく、新陳代謝が早いのである。
また別の尺度として、都市インフラと結びつき、通常「建築」の定義に入らないものも紹介しているところがユニークである。例えば、地権者の補填と立体換地を実現し、全長1キロ近い10棟のビルの上に高架式の道路と高速道路、地下に地下鉄を通した、世界にもなかなか例のない、「船場センタービル」(1970)や、細い堀川の上を蛇行させながら回遊させた「阪神高速道路1号環状線」(1964~1967)、極めつきは、1970年の半年だけ開催されて解体された、大阪万博の建築群である。「船場センタービル」などは、それ自体が一つの都市と言っても過言ではない。しかし、これらが特別なわけではなく、交通網が発達し、高層化・長大化した戦後の建築は都市とは無縁ではいられないのである。
そのような都市と深い結びつきがあり、人々の記憶に深く刻まれた建築でも、世界的なモダニズム建築の評価のフレームに入らないことも多い。交通インフラと結びついていたり、作家性が薄い場合、独立性のある「建築」と考えられないからである。しかしそのような建築こそが都市のイメージを形成し、人々の記憶に残る建築であるのは間違いない。大阪万博の建築はメタボリズムの建築家が多数参加しており、世界的にも評価が高いが、すでにほとんどが解体されている。同じように、すでに解体された大阪の建築群も、もっと見直されてよいだろう。
戦前の都市計画は、御堂筋や地下鉄などの第一次都市計画事業、第二次市域拡張を実行し「大大阪時代」を築いた関一という都市政策の専門家であった市長が牽引したことはよく知られている。そもそもシティプランニングを「都市計画」と訳したのは関とされている。
戦前の都市計画は震災や災害とは無関係に大阪が狭すぎて衛生環境が悪化しすぎたために、独自に作られたものであるし、戦後の都市計画も、土地の狭さ、交通事情の悪化、住宅難、緑の少なさなど、大阪の独自の理由により、自主的に計画されたものも多く、都市計画と建築が深く結びついており、全国的にもその関係の深さは特別だといってよいだろう。
戦後の大阪には、戦争を挟んで関一の「大大阪」を実現した部分と、新たに構想された部分がある。その総称が「新・大阪」であり「伸・大阪」でもある。「新」と名のつく戦後の建築は非常に多く、大阪市の広報誌「伸びゆく大阪」をはじめ、「伸」という言葉も当時の時代感覚をよく表している。
その延長線上に大阪万博がある。大阪万博という未来都市を作るのと同時に、当時の都市計画が遂行されている。実際、「船場センタービル」をはじめ大阪万博の関連事業で、多くの未完成だった都市計画を実現しており、「未来都市」や「万博」は大阪の街そのものだったといってよい。また、「船場センタービル」の大胆な構想が、建築家ではなく、市民からの発案によって実現されたことは市民と建築、都市との近さを表わしている。大阪万博のパビリオンの奇抜な意匠と違って堅実な建築が多かったり、丹下健三やメタボリズムの建築家の建築が都心部に少ないため、あまりその関係は語られてこなかったが、交通インフラや都市計画レベルの結びつきはかなり深い。また、老朽化による解体問題で揺れている、黒川紀章の「中銀カプセルタワービル」(1972)よりも約半年早く、同じような思想と意匠の「メタボ阪急」(1971)が建てられていることも注目に値する。
本書は、単なるドメスティックな大阪の建築の歴史の本ではなく、世界的にもユニークな戦後モダニズムの都市全体に対する実践のドキュメントであるとともに、次の時代へ進む都市と建築の移行期を切り取った貴重なドキュメントとして捉えられるべきであろう。デベロッパーや所有者をはじめ、さまざまな関係者から集めた図版も貴重である。撮影のされ方、切り取られ方にも時代性が表われている。
本書の試みは、「建築街歩き本」と矛盾したり、対立するわけではない。どのような時代、どのような背景で建てられたか知ることで、現存している建築や現在の都市への理解はいっそう深まるからである。そうすると記憶はつながり、未来を変えることもあるだろう。
建築によって都市の歴史を描き、都市の歴史から建築を描く、今までに類例のない書であり、建築が都市になり、都市が建築になった時代の新しい本といえるだろう。
さて、実はこの本、私と橋爪紳也さんが企画し、各建築の記事を執筆した高岡伸一さんとともに編著者として参加している。誰かに書評していただきたいと申し出たのだが、この本の見方をちゃんと把握して解説するのは難しいとのことで、編集部より自分で書くよう依頼されたのだった。
ということで自作自演、自画自賛と言われるかもしれないのだが、読むだけの価値はある、ということでご容赦いただき、是非ご高覧いただきたい。
文=三木学
『新・大阪モダン建築-戦後復興からEXPO'70の都市へ-』(青幻舎)
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