Criticism series by Sayawaka;Far away from the“Genba”
連載「現場から遠く離れて」
第四章 事件は現場で起こっているのか 【1】ネット時代の技術を前に我々が現実を認識する手段は変わり続け、現実は仮想世界との差異を狭めていく。日々拡散し続ける状況に対して、人々は特権的な受容体験を希求する――「現場」。だが、それはそもそも何なのか。「現場」は、同じ場所、同じ体験、同じ経験を持つということについて、我々に本質的な問いを突きつける。昨今のポップカルチャーが求めてきたリアリティの変遷を、時代とジャンルを横断しながら検証する、さやわか氏の批評シリーズ連載。
だが、このように大変な人気作であるにもかかわらず、『踊る大捜査線』の劇場版は熱心な映画ファンや映画業界の関係者、または映画評論家などから厳しく論難されることが多い。たとえば今挙げた『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか』は、まさに『踊る大捜査線』が映画界に与えた功罪の両方を詳らかにしようという企画で作られた本となっており、その姿勢は凡百の批判とは違って実に公平なものだが、しかしそれでも多くの映画業界人がこの作品の新しさを称えると同時に苦言を呈しているがゆえにこのような本が作られたということは間違いないだろう。
業界人からの批判とは概ね次のようなものである。まずこの映画は、テレビシリーズのスタッフがそのまま劇場版の制作にかかわっており、それがゆえに映画ならではの作家性の高さよりもエンタテインメント性を重視した、よく言えば観客の娯楽を優先した、悪く言えば深みのない作品となっている、とされる。また、そのように取り立てて質の高い作品でないにもかかわらず、テレビドラマの放映局であるフジテレビが完全バックアップして大量のコマーシャルを流しているからこそ、ヒットが生まれているとされる。つまりはこの作品は度を超した商業主義によって作られており、映画市場はこうした金儲け主義のテレビ関係者の作る映画によって蹂躙されているというわけである。
これらの批判について、我々はいま反論する必要がない。理由はいくつかあるが、まず第一にもし『踊る大捜査線』が、強引な手段で売りつけられた取るに足らない作品だったとしても、90年代後半からゼロ年代にかけて多くの人々が好んで観賞し面白かったと言うような、まして日本の映画史上でもっとも売れたほどポピュラリティを獲得したような作品がどんな内容を持っているかはその優劣を別として吟味されてもいいだろう。第二に、エンタテインメント性を重視しているというかどで、またそもそもエンタテインメント性と作家性は相反するという発想で作品が非難されるのはいささか短慮にすぎると言っていい。これについては日本映画が歴史的に多く大衆娯楽として作られてきたという話をするまでもないだろう。
第三に、この作品が従来の映画業界が認める「映画」というジャンルの価値基準において劣悪なものだったとして、しかし今やその価値基準自体が世の絶対的な指標として働いていない可能性が高い。90年代以降、我々の社会では価値の相対化が進んでおり、社会全体を覆うような「何が正しくて何が間違っているのか」という指摘は成り立ちにくくなる一方だ。とりわけインターネットが普及して以来は、例えば2011年に起きた東日本大震災について「がんばろう日本」とスローガンを掲げても、その士気高揚のムードに不快感を示す者がすぐに目に入るようになっているような状況なのだ。つまり私たちが知るのは常に、多様な意見があって絶対的な解がないということだけなのである。そうした昨今にあって、映画業界とそのファンのコミュニティが信奉する指標によって『踊る大捜査線』が否定されたとして、その評価は相対的な立場に置かれざるを得ない。実際、既に多くの観客は『踊る大捜査線』に対して行なわれる批判を知らないか、知っていても自分とは無関係なことだと思っているだろうし、だからこそヒットは成立した。にもかかわらず「本来の価値基準」の絶対性・正当性を説くのは難しいはずだ。
こうして我々は、何らかの指標に基づいて優れているか、また劣っているかという判断を差し置いて『踊る大捜査線』が何を描いているかを検証することができる。しかし、そもそもこの作品はそれほどまでに無内容な映画なのだろうか。『THE MOVIE』の最後で主人公の青島は「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ」と叫ぶ。第一章の最後で紹介したように、上野俊哉は『日本のヒップホップ 文化グローバリゼーションの〈現場〉』の解説の中で、この青島の台詞についてヒップホップ的な「現場」とは無関係であると明言している。だが、その上野の主張には映画業界人や映画評論家と同じように『踊る大捜査線』というヒット作は劣ったものであり、語るべき内容などないという偏見がなかっただろうか。そうでなくても、青島の叫ぶ「現場」とは、本当にヒップホップ的な「現場」とは無縁だったのだろうか。むしろ90年代後半からゼロ年代にかけて最もヒットした実写映画作品として、我々の関心である「現場」の概念について、日本人の考えを色濃く反映した作品と考えることができるのではないだろうか。
我々がここで『踊る大捜査線』に注目する理由はもう一つある。この作品は、その放映時には既に社会現象的なブームを迎えていた『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996年)と、そして前章で今日的な「現場」の概念の原型をもった作品として紹介した『パトレイバー』に強い影響を受けたことで知られているためだ。つまり、これら三つの作品を並べて検討することで、我々は80年代末から現在に至るまでの日本人の意識の移り変わりについて、とりわけ「現場」という視点から考えることができるのである。
影響を示す例として、わかりやすいところではサブタイトルが『エヴァンゲリオン』と同じく黒バックに極太明朝体で書かれていたり、劇伴曲として『エヴァンゲリオン』の劇伴曲「DECISIVE BATTLE」のアレンジバージョンが使われていることなどが挙げられるだろう(※37)。このアレンジバージョンが作られた経緯については『踊る大捜査線』のDVD第一巻でスタッフにより語られているが、しかし「DECISIVE BATTLE」の方も実は映画『007 ロシアより愛を込めて』の劇伴曲「007 TAKES THE LEKTOR」に対するオマージュだと言われており、必ずしもオリジナル曲と言い切れるわけでもないようだ。ここでより注意すべき点があるとしたら、いずれがオリジナルであるかということではないだろう。そもそも『踊る大捜査線』はほかにも古今の様々なフィクションへのオマージュやパロディを含んでおり、例えば『THE MOVIE』においては映画『天国と地獄』(1963)の有名なシーンがそのまま再現されているし、『THE MOVIE2』では映画化もされた松本清張のミステリ『砂の器』(1961)のトリックが使われている。しかも、どちらにもオマージュ元の作品名が呟かれるシーンがあり、これらの引用が意図的なものであることがわかるようになってすらいる。思い返せば作品名自体『踊る大紐育』(1949)『夜の大捜査線』(1970)という過去の映画タイトルからの引用になっているのだ。そして『エヴァンゲリオン』もまた同様に古今東西の作品群からの引用を数多く含んでおり、つまり我々がここで意識すべきなのは90年代の後期にこのようなオマージュの連鎖、過去の作品を多く参照した作品が作られ、そしてそのような作品がヒットを飛ばすようになったということである。『エヴァンゲリオン』と『踊る大捜査線』は、共にその手法を用いた同世代の作品として並べられるべきだろう。
文=さやわか
※36 『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか』(日本映画専門チャンネル編、幻冬舎新書、2010年) ※37 ネットでの記述によれば『踊る大捜査線』の亀山プロデューサーは、テレビ放映時の第三話まではアレンジバージョンではなく「DECISIVE BATTLE」をそのまま使ったと語ったとされている(舞台挨拶 - ヱヴァンゲリヲン新劇場版検証スレまとめwiki - livedoor Wiki)。またテレビ版のスペシャル放送『歳末特別警戒スペシャル』において、特殊空挺部隊の出撃シーンという緊迫した場面でベートーベンの交響曲第9番『歓喜の歌』が劇伴曲として使われるのも、『エヴァンゲリオン』第24話からの影響を感じさせる。
『踊る大捜査線』劇伴曲 「危機一髪」・「G-Groove」
『新世紀エヴァンゲリオン』劇伴曲「Decisive Battle」
『007 ロシアより愛を込めて』劇伴曲「007 TAKES THE LEKTOR」
さやわか ライター、編集者。漫画・アニメ・音楽・文学・ゲームなどジャンルに限らず批評活動を行なっている。2010年に西島大介との共著『西島大介のひらめき☆マンガ 学校』(講談社)を刊行。『ユリイカ』(青土社)、『ニュータイプ』(角川書店)、『BARFOUT!』(ブラウンズブックス)などで執筆。『クイック・ジャパン』(太田出版)ほかで連載中。
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11.06.26更新 |
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