注目の大型官能小説連載 毎週木曜日更新!
New Style Heian Erotical Mandara [Kouchu no hitoya]
艶めかしき人外の化生に魅せられた侍が堕ちていく魔的なエクスタシーの奈落――。今昔物語の一編を題材にとり、深き闇の中で紡がれる妖と美の競演を描くニュースタイル・平安エロティカル曼荼羅。期待の新人作家・上諏訪カヤハと絵師・大往生ジダラクのカップリングで贈る会心のアブノーマル・ノベル!!「遠慮することはあるまい」
「遠慮ではない。本当にいらんのだ」
吉丸はもはや、かたくなだった。ここで銀の杯に手を伸ばすのは簡単なことだが、阿夜からまたも試されているという思いが、半分は恐怖のようになってその手を止めていた。ここで受け取ったことが阿夜に伝わらないとは、もはや思えなかった。
「ならば、いい」
黒狐は深くは追求しなかった。あっさり評定の対象を次の狐に替えると、同様の話をまた始めた。
吉丸は再び首魁狐に目を向けた。それはもしかしたら何か救いのようなものを求めてのことだったかもしれない。吉丸の視線の先では首魁狐もまたこちらを見つめていた。いや、見ていたかどうかは仮面の内のことで定かではない。しかし吉丸はなぜか、「あいつはこちらを見ている」と、確信に近く思った。
夜天の様相も変わらぬうちに盗品の分配は終わった。黒狐 の「散」の一声に、狐や覆面たちは、馬に乗る者は乗り、駆ける者は駆けて、方々(かたがた)散っていった。首魁狐はやって来た時と同じく吉丸が曳いてきた馬にまたがると、別の馬に乗った黒狐と馬上で何か二言三言交わし合った。何を言っているのかと耳を傾けようとすると、二人はあっという間にあちらとこちらに離れ、数秒のうちに彼方の人同士になってしまった。
吉丸は走る気力もなく、明ける気色もないどんよりとした空の下をとぼとぼと歩いた。土を蹴る足音までが、湿り気を帯びて悄然としている。人目を考えると、べっとりと血に汚れた水干のまま歩くことには気が引けたが、闇夜のこと、誰にも気付かれはしまいと思う。重い足どりは来た時と比べてたっぷり二倍、三倍の時間を彼の上に流し、ようやく阿夜の住まいまで辿り着いたのは東の空がかすかに白み始めた頃だった。
阿夜は眠らずに待っていたらしい。戸をほとほとと叩くと、すぐに中から鎖を外す音が聞こえた。
「おかえりなさいませ」
とこちらを覗き込む顔に、吉丸は「あぁ」とだけ答えて中に入った。
草履を脱いで部屋に上がると、体中の節という節に突然鉄の錘(おもり)をぶら下げられたようなだるさを感じて、その場にばたりと仰向けに倒れた。
「あぁぁぁ……」
腹の底から声とも息とも音ともつかない声が押し出される。その声の中には、ここを出ていった時から今まで抱えていた緊張や不安といったものが、すべて溶け出していた。
「お疲れになりましたでしょう」
阿夜は太刀を受け取ったり、烏帽子の紐を解いたりとかいがいしく動いた。
「お前も、へんげのようだな」
吉丸は横になったまま、そんな阿夜を見て、呟いた。
阿夜は「ほほ」と一笑し、
「あの狐の方たちと似ているというのでしたら、あまり嬉しいこととは申せませんわね」
と愛嬌で華やがせた風な眉で睨みつけた。
「そういう意味ではない」
吉丸は天井を見上げて言った。「掴みどころがない、という意味だよ」。
小さな灯りでは家の中のすべてを照らし出すことはできず、見上げた先は渾然として闇と一体になっている。その闇をじっと見ていると、自分はまだあの屋敷の厩の上で弓を構えているような、あるいは盗品を囲んだ狐の円陣の中にいるような、そんな気がしてきた。
「あまり意地悪をおっしゃるものではございませんわ」
吉丸を上から窺う表情は可憐で、とても無慈悲な強盗を勧めた女のものとは思えない。その肩から黒髪がひとすじ、はらりと落ちて、吉丸の肩を撫でた。
「さぁ、そろそろ起き上がって下さいな」
阿夜は吉丸の手を取った。
「奥にお湯を沸かしてございますから。お身を清められたら、お食事にしましょうね」
吉丸は小指の先端まで疲労のまわった体を強いて起き上がらせた。あまりの倦怠に、いっそここでこのまま眠ってしまいたいという気持ちがちらと胸を過(よ)ぎったが、目を覚ましたときに体にこびりついた血の匂いを嗅ぐことになると思うと、面倒でも湯を使おうという気になった。汚れたままでは阿夜も嫌がるだろう。
いったん空が白んだら、夏の夜が明けるのは早い。家の中はまだ暗ったが、外からはすでに小鳥の鳴き交わす声が聞こえてきていた。今頃、主の屋敷では、目を覚ました下男や下女たちが、朝の食事や掃除の支度に取り掛かっているだろう……吉丸はつい先日までの日常を、ずいぶん昔の記憶を手繰るように思い出した。
湯を使いに行こうとする吉丸を、阿夜は楚々と見送った。が、何を思ったものであろうか、ふと、遣戸を抜けようとするその背中に、
「わたくしも、姿かたちがそうではないだけで、内心は、人を化かすへんげかもしれませんわよ」
と、投げかけた。
「そうだったら、吉丸さまは、いかがなされます?」
阿夜の声には、人をからかうような調子があった。吉丸は振り向かなかった。
「さぁ、どうするか」
吉丸は、考えるともなく答えた。疲れていて頭がよく回らない。「まぁ、へんげに添うて生きるのも、悪くはないかも知れん」。
それを聞いた阿夜の口もとに浮かんだ忍びやかな笑みは、まだ暗い部屋にひっそりと沈んでいった。
体についた血をきれいに拭き取り、用意されていた水干に袖を通して部屋に戻ると、すでに蔀(しとみ)が半分ほど開けられていた。部屋には幾筋も爽やかな朝の日差しが差し込んで、床の木目を清(さや)と照らしだしている。夜半、空に重く立ち込めていた雲はもう散ったらしい。往来の声もまだ賑やかとまではいえないが、徐々に活気づきつつあった。
部屋の中には常のように朝餉の膳が二つ並べられており、阿夜はもうその前に座っていた。吉丸が席に着くと、二人は食事を始めた。二人は会話という会話もせずに、黙々と箸を動かした。阿夜が何も尋ねかけないのは、吉丸がしてきたであろうことが容易に想像できるからなのか、それとも殊勝に気でも遣っているつもりなのか。「おそらくは前者だろう」と、普段の吉丸だったら斜に構えて苦々しい気分になるところだろうが、それも今日はない。もはやそれどころではなかった。疲労困憊の極みに達していて、今にもぶっ倒れそうだった。疲れのあまり、食事の途中で何度か椀や箸を落としかけた吉丸を見ると、
「いやぁだ」
箸阿夜は声をあげて笑った。
吉丸の朦朧としたまなざしが、はたと阿夜の口元に向けられた。
阿夜は、 口元を隠しはしていたが、その隙間から見えた白い粥に彼は釘付けになった。
こんなときだというのに、いや、こんなときだからこそ、だろうか。いったん動物的な本能に神経が侵食されると、もう歯止めが利かなかった。
吉丸は椀と箸を置いて立ち上がると、ゆらり と阿夜に近づいた。
「え…………」
突然のことに、身構えるのが遅れたのだろう。吉丸は阿夜が声すら上げられぬ間に、その口を吸ってやった。否、正確に言えば、唇をこじ開け、厚い舌を差し込んで、今まで噛んでいたものを掬い取った。
「…………!!」
阿夜はじっとされるがままになっていた。肩を押さえつけられているので、動こうにも動けなかったに違いない。
中のものを吸い尽くし、舐め尽くすと、吉丸は阿夜の口からそっと自分の口を離して、 まだ驚きを残したままの阿夜を覗き込んだ。彼は切なげな、いっしんに縋るような目で阿夜をじっと見つめていたが、やがてその目から、岩の底からこんこんと湧き出るように透明な涙が溢れ出してきた。
阿夜は呆然と、その顔を眺めていた。
その後吉丸は、終日何もせずに、ただ床に横たわって過ごす幾日かを送った。寝転んでいるだけなのに体に妙な疲れが溜まり続けて、抜けていかない。
しかし、それもそのはずではあった。吉丸は横になってはいるものの、ほとんど眠れずにいた。だが、だったら外に出て何かしようという気にもなれなかった。いや、何度かは思い切って外に出たり、「いっそのこと」と屋敷に戻る支度を始めてみたりしたのだが、すぐに重い疲労感に押し潰されて、またふらふらと床に突っ伏してしまう。食事もほとんど喉を通らなかった。
吉丸は横になりながら、何も考えていなかった。何か考えようとする とすぐに眠気が襲ってくる。それに身を任せようとするとまた目が冴えてしまい、仕方なくまた考え事をしようとすると眠気がやって来て……その、繰り返しだった。
――何かが抜け落ちていくようだ。
吉丸は、模糊とした意識の中でそう感じた。
阿夜は特別に何かをするでもなく、黙って見守っていた。というか、放っていた。何度か話しかられはしたのだが、吉丸はそのたびに「あぁ」とか「うん」とか上の空の返事をするばかりだった。それで阿夜はついに諦めたらしい。吉丸は気にせずに自分のするべきことをした。
するべきことといっても、昼間は蔀(しとみ)を閉じて、吉丸と並んで眠るばかりだ。そして夜になると、供もつけずに外に出て行ったり、入り口のあたりで誰かと声を忍ばせて話していたりした。
何をしているのかとは、吉丸はもはや不思議に思わなかった。大方、仲間と次の強盗の算段でもしているのだろう。
その予想は当たっていたらしく、三日ほど連続して外出していった翌日の夕、阿夜は「さぁ、そろそろお目覚めのお時間ですよ」と吉丸の肩を揺すった。
吉丸は隈の浮かんだ目を開いて阿夜を見た。阿夜は朗らかだった。もはや罪の意識や後悔などといったものとは無縁の境地にいるのであろうこの女も、かつてはそんなことに苦しんだ時があったのだろうか。
頭をぼりぼりと掻きながら、半身を起こす。随分と長い間、こんなふうに起き上がってすらいなかった気がした。体の関節がぽき、ぽきと音を立てて鳴る。動いたことで掻きまわされた空気が鼻をついて、どうやら自分は少々臭いようだとわかった。
「次はどこだ」
と声を出して尋ねた瞬間、
――あ……。
吉丸は、横になっている間に少しずつ失われていった自分の中にある何か、の、最後のひとかけらが、ついにあえなく零れ落ちたのを感じた。
同時に、
――俺には、貴族や豪族に対する正当ともいえる恨みがある。
――それを果たせば、阿夜とずっと一緒にいられる。
そして、
――一度やってしまったら、もう、何度やるのも同じことだ。
何度も自分に言い聞かせていた言葉がやっと胸の収まるべきところにすとんと収まって、己を動かす燃料として少しずつ燃え始めた気配を感じた。
阿夜は吉丸の手に女の白い手を重ね、 次なる獲物となる貴族の名と屋敷の場所を告げた。
(続く)
10.09.30更新 |
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口中の獄
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