注目の大型官能小説連載 毎週木曜日更新!
New Style Heian Erotical Mandara [Kouchu no hitoya]
艶めかしき人外の化生に魅せられた侍が堕ちていく魔的なエクスタシーの奈落――。今昔物語の一編を題材にとり、深き闇の中で紡がれる妖と美の競演を描くニュースタイル・平安エロティカル曼荼羅。期待の新人作家・上諏訪カヤハと絵師・大往生ジダラクのカップリングで贈る会心のアブノーマル・ノベル!!「今、母ちゃんが中に干し魚を売りに行っているの」
「あぁ、知ってる」
吉丸は子供相手の会話など面倒だと内心では思った。しかし、だからと言って無視をするのもかわいそうだとつい相手をしてしまうのが、彼の人の好いところである。それでも、この会話がなるべく早く終わるようにできる限りぶっきらぼうに答えようとする程度の冷淡さはあった。
だが少女は子供特有の傲慢さからなのか、それとも単に鈍感なのか、吉丸の思惑とは裏腹にさらにぺらぺらと喋り続けた。物を売る生業に就いている女の娘らしい愛想の良さだ。将来はきっと有望だろう。長い時間たった一人で待たされて退屈していたのかもしれない。
「母ちゃん、入ってからずいぶん経つんだけどまだ戻らないの。今、何しているか知らない?」
「さぁ。俺は今日は見かけていないからな」
「いい男を見つけて舞い上がってるんじゃなきゃいいんだけど」
少女の声や喋り方は変に大人びていた。見目の悪くない吉丸に子供らしいささやかな憧れを抱いて、わざとそんな言い方をしたのかもしれない。
しかし当の吉丸は途中から話そっちのけになって、視線を少女の顔の一点にじっと集中させていた。
視線の先には、少女の口中で咀嚼され、半液体状になった桃の果肉があった。これが大人の女であれば口を隠すか、そもそも口に食べ物を入れたまま喋るようなことはしなかっただろう。だがそこは子供のこと、どんな状況でもとにかく喋りたいという無邪気さが、口中の薄金色の桃肉をあからさまにしていた。
吉丸は息苦しさを覚えた。そんなはずはないのだが、見ていると次第に上下する少女の歯の動きが遅くなり、それにつれて口の中の様子がより明瞭になっていく。彼はその中に吸い込まれていきそうな錯覚に陥った
「吉丸、どうした?」
吉丸ははっと我に返った。見ると連れのひとりがきょとんとしてこちらを覗き込んでいる。
「何でもない」
慌てて不自然な苦笑いを返すと、吉丸は少女の顔をもう見ないようにして、足早に門を出た。途中で話を打ち切られた少女はぷくっと頬を膨らませて不機嫌そうな顔をしてみせたが、吉丸はもうそれに一瞥をくれることすらしなかった。
往来に出た吉丸の額からはわずかに汗が滲み出ていた。それをさりげなく袖でぬぐおうとした時、彼は初めて阿夜のことを思い出した。
ぞっとした。何だか順番がめちゃくちゃではないか。少女の口を見るのに夢中で肝心の阿夜をまったく思い出さなかっただなんて、自分は本当は阿夜に心を動かされたわけではなく、口中の咀嚼物のほうにより強く執着を抱いていたのではないだろうか。この倒錯的な嗜好を投影できるのであれば、相手は誰でもいいとでもいうのだろうか。
甲高い、賑やかな笑い声が後ろから近づいてきた。振り返ると、手に手に木の枝を持った子供たちが数人、それぞれ何か喚き合いながら吉丸たち一行を追い越して駆けていった。後に小さな砂煙が続く。
「戦ごっこかな。いい気なもんだなぁ」
連れの若い男がそれを見送りながら顔を綻(ほころ)ばせた。。
吉丸はその声を聞き流しながら、頑なに守り続けてきた意志を翻す決心をした。もう一度、阿夜のところに行こう。俺がこうして苦悩の狭間を彷徨っているのは、結局、あの女が欲しいという気持ちのひとつの形態なのだということを確かめなくてはいけない。このままでは飢えた犬のようになって、誰彼構わず噛みつくようになってしまう。それよりは……同じ煩悩の犬として生きるのならば、俺をそう変えた相手をいっそ主人のように慕い、行儀良く餌を貰っていたほうが、まだ多少なりとも救いがあるのではないか。
その夜、上弦の月がすっかり西に傾いた夜半過ぎ、吉丸は屋敷を抜け出して、月明かりでうっすらと銀色に滲んだ大路を小走りに駆けていた。昼間であれば数え切れないほどの人々で賑わっている道も、今はしんと静まり返って人っ子一人見当たらない。ただ家々の軒の影が道に沿って黒く並んでいるばかりである。どこからか聞こえてくる犬の遠吠えが、月光を青灰色に照り返す雲がぽっかりと浮かんだ夜空へ舞い上がっていった。
盗賊や物の怪の出現に備えて、念のためこっそり持ち出した太刀をすぐに抜けるようにしながら走ったが、その必要はなかった。四半刻もせずに阿夜の住まいに着いた吉丸は、最初に呼ばれたときに入っていった戸を遠慮がちに何度か叩いた。
返答はなかった。物音も聞こえなかった。吉丸は焦った。こんな時間なのだからすぐに反応があるほうがむしろおかしいのだが、そうとはわかっていながらも、不安は和紙にこぼした墨汁のようにじわりじわりと広がっていく。もしかしたら阿夜は今、夫だとか愛人だとか、そういった類(たぐい)の男と共寝をしているのかもしれない。それは自分が「すぐに尋ねる」という約束を反故にした結果であってもおかしくない。吉丸はやきもきとした。
祈りと後悔の念を交互に抱きながら、戸を叩き続ける。戸を叩く力は次第に強くなり、それに比例して音も大きくなっていった。その音が、怒りを顔じゅうに充満させた家の者が今にも怒鳴りつけてきてもおかしくないほどの大きさになったとき、やっと戸の奥に人が訪れた気配がした。
「阿夜、俺だ」
吉丸は矢も盾もたまらず、気配に向かって言った。
「吉丸だ」
戸の向こうで相手の動きが止まった様子があった。静寂が、冷水が染み渡るようにあたりに広がったが、長いことではなかった。すぐに鎖を外す音がして、戸がわずかに開いた。燭の明かりがゆらめきながら細く吉丸の足元にまで伸びた。
「阿夜」
吉丸は押し入ろうとするばかりの勢いで戸に手を掛けた。だが、燭が照らし出した人物を見て、彼は思わず動きを止めた。そこにいたのは阿夜とは似ても似つかない皺くちゃの老婆だった。
「ご主人様は、留守でございます」
老婆は吉丸の勢いに気おされたようだったが、すぐに持ち直して、冷ややかな目を吉丸に向けた。老けこんだ見かけのわりには声に力があり、発音もはっきりしている。迷惑この上ないとでも言いたげな表情だった。
「すまない」
吉丸は咄嗟に謝った。老婆は何も答えず、不機嫌そうな目鼻を崩さないまま、もう用はないだろうとばかりににべもなく戸を閉めようとしたが、
「待ってくれ」
それよりもひと息早く吉丸は戸を押さえた。予測していなかった吉丸の行動に、老婆の体がびくっと震えた。
「どこに行ったのだ」
老婆は無視して戸を閉めようと力を入れたが、頑強な男にかなうはずもない。吉丸は老婆を警戒させないようにできるだけ優しげな声音を使うことにした。阿夜のことをご主人様と呼ぶ相手である以上は、無下に扱うことが得策だとは思えない。
「いつ戻る?」
「さぁ、私は何も聞いておりませんので。明日になるか、明後日か、もっと先か」
老婆の目つきや物言いがさらに刺々しくなっていく。さっさと戻って寝たいのだろう。
吉丸は老婆の向こうに広がる、手燭の光の届かない家の奥にちらりと視線を流した。漆黒に塗り込められてしんと静まり返っている中からは何者の気配も伝わってこない。もうここで問答を繰り返すのは意味がないと吉丸は判断した。
「ならば、また明日の夜に来よう。明日来ても帰っていなければ、明後日も来る」
「お好きになされませ」
老婆が吐き棄てるように言うと、吉丸は押さえていた戸から手を離した。老婆は「ふん」という鼻息とともに戸を閉めた。その後すぐに荒々しく鎖を掛ける音が聞こえた。
吉丸は、顔をひきつらせるようにして口元を引き上げ、無理に笑った。苦笑いのひとつでもして冷静にならないと、得体の知れない不安に蝕まれて、思いも寄らない行動に駆り立てられてしまいそうだった。
その顔のまま、彼は今通って来たばかりの道を引き返した。西の空の月はすっかり山影に呑み込まれており、通りは星の光でわずかに数歩先までが見えるだけになっていた。
その夜も、また次の夜も、吉丸は屋敷を抜け出して、阿夜の家を訪れた。最初の数日間、阿夜は相変わらず留守だった。吉丸が戸を叩くとそのたびにあの老婆が出てきて、やはり夜中に起こされる不機嫌を体じゅうに漲らせながら、この上なく忌々しげに対応した。
「阿夜は、いったい何者なのだ」
ある夜、吉丸は思い切って老婆に訊いてみた。すると老婆は黙って、彼を値踏みするような視線をぎろりと投げつけてきた。ぶ厚い刃物のようなまなざしに吉丸はたじろぎそうになったが、ここで引いてはならぬという気もして、負けずに老婆を見返した。
二人はそのまま押し黙っていたが、やがて老婆は、
「ご主人さまが申し上げていらっしゃらないのなら、わたくしから申すわけには参りませぬ」
と抑揚のない声で言答えた。そして、それ以上はどんなふうに言葉を変えて問いかけても「わたくしからは何も申せませぬ」の一点張りだった。。
(続く)
10.07.29更新 |
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