本文註釈・参考文献
※1 天井桟敷
※2 秋山邦晴
※3 金坂健二
※4 草月アートセンター
※5 アンダーグラウンド・シネマ/日本・アメリカ
※6 ザ・フォーク・クルセイダーズ
※7 アングラ・レコード
※8 ニュー・アメリカン・シネマ
※9 稚拙であっても血の色をした映画が欲しい
※10 後続に直接つながるような大きい流れを生むことはなかった
※11 イメージ・フォーラム
※12 土方巽
※13 サマー・オブ・ラブ
※14 クロス・トーク/インターメディア
※15 20世紀初頭の前衛芸術運動
本文註釈
※1 天井桟敷=1967年に寺山修司が旗揚げした前衛劇団で、寺山は従来の演劇と区別して演劇実験室と呼んだ。代表作に「大山デブ子の犯罪」「書を捨てよ!町へ出よう!」「犬神」「ガリガリ博士の犯罪」「邪宗門」など。
※2 秋山邦晴=1929年生まれ。音楽評論家。芸術家グループ「実験工房」のメンバーでもあった。エリック・サティに造詣が深く、現代音楽の批評・紹介の第一人者。代表作に『現代音楽をどう聴くか』『日本の作曲家たち』『エリック・サティ覚え書』『昭和の作曲家たち』など。1996年8月死去。
※3 金坂健二=慶応大学英文科出身。卒業後松竹映画に入社、国際部に席をおき、ハーバード大学の国際セミナーに参加するうちにアメリカのアングラ映画作家と接触。自身も映画を撮り、1963年に日本で製作した「燃えやすい耳」は、翌年シカゴで開かれたハルハウス国際実験映画祭で最高賞を受賞。アメリカに移って製作した「アメリカ・アメリカ・アメリカ」「石けり」も高い評価を得ている。映画以外にも、アメリカの文化をいち早く翻訳して紹介していた。代表的著作に『地下のアメリカ』『幻覚の共和国』『俺たちのアメリカ』など。1999年死去。
※4 草月アートセンター=1958年、生け花の大流派である「草月流」が設立した、現代芸術/前衛芸術の発展・交流を目的とする団体。その舞台となったのは草月ホール。
※5 アンダーグラウンド・シネマ/日本・アメリカ=好評だったのか大阪・京都・札幌も巡回した。キャッチコピーは「自由をもとめる多彩な映画実験──黒い笑いが現代の狂気をつく!」。第一回の上映作品は「悪魔は死んだ/カール・リンダー」「この西瓜やろう/ロバート・ネルソン」「ムロフノク/ジョー・セデルマイヤー」「モスライト/スタン・ブラケイジ」「アメリカの詩/スタン・ブラケイジ」「アメリカ・アメリカ・アメリカ/金坂健二」「リリパット王国舞踏会/飯村隆彦」「愛/飯村隆彦」「ライフ/ドナルド・リチイ」「ライフ・ライフ・ライフ/ドナルド・リチイ」。
※6 ザ・フォーク・クルセイダーズ=京都のアマチュア・フォーク・グループで、初期メンバーは加藤和彦、北山修、平沼義男。当時から「笑いのフォークル」として人気があったらしい。1967年11月に解散を記念して作った自主制作レコード「帰って来たヨッパライ」がラジオ関西でオンエアされ話題を呼び、翌12月に東芝から発売され数百万枚の大ヒット。これにより一年限定で活動を再開した(平沼は脱退、端田宣彦が加入)。この時のフォークルの所属がのちにURC(アングラ・レコード・クラブ)を設立する泰政明の高石事務所(版権会社はアート音楽出版)だった。なお「帰って来たヨッパライ」以降は名前がフォーク・クルセダーズとなる。
※7 アングラ・レコード=ジャケットにつけられたキャッチコピーは「これが話題のアングラ・レコード!」。レコード解説には「アングラ・レコードとは何か? これぞ音楽界の新しいヒーローだ。アングラ、つまりアンダー・グラウンドで人知れずひそかに作られているこの種のレコード、外国では大はやり。モテにモテている。君達も率先してアングラ・レコード製作に命をかけるべきであろう」とあるが……。
※8 ニュー・アメリカン・シネマ=1960年9月28日、ジョナス・メカスを中心に、ニューヨークの映画作家らが設立した「ザ・ニュー・アメリカン・シネマ・グループ」のこと。および1950年〜1960年前後に登場したそれに類するニューヨークの個人映画作家らの総称。1962年には配給組織「フィルムメーカーズ・コーポラティヴ」を設立。
※9 稚拙であっても血の色をした映画が欲しい=ジョナス・メカスが主宰するアメリカの映画雑誌『Film Culture』22/23合併号(1961年夏)に掲載された、メカスの小論「ニューアメリカン・シネマのための第1宣言」の文末「観客にバラ色の夢を与える映画でなくてもいい。われわれの欲しいのは血の色をした映画なのだ」(『アメリカの実験映画』掲載・石崎浩一郎訳)。
※10 後続に直接つながるような大きい流れを生むことはなかった=細かく見れば、高林陽一、飯村隆彦、大林宣彦らが1963年のブリュッセルの実験映画祭に出品し、特別賞を取ってから、日本の実験映画の流行が生まれたといえるし、その彼らが足場にしていたVAN映画科学研究所や日大映研制作グループが始まりであるというのが正しい。この1963年の実験映画祭はスタン・ブラッケイジが大量に出品し、アメリカのアンダーグラウンド・シネマが認知されるきっかけになった場であり、そう捉えれば海外の影響以前、つまりアングラ・ブーム以前から日本に個人作家の実験映画というのはしっかり存在し、同時多発的なものだと言える。だが、それはあくまで作家と批評家間の影響・認知であり、一般客層まで実験映画に足を運ぶような状況は、やはりアングラ・ブームがなければ生まれなかったと思う。
「キネカリグラフ(KINE CALLIGRAPH)」(1955年)は、大辻らによる「グラフィック集団」が、ノーマン・マクラーレンの間接的な影響を受けて作った実験映画。撮影はせず、フィルムに傷をつけて、それを再生するもの。オリジナルのフィルムは消失しており、1986年に復元・再制作されている。
「日大映研制作グループ」は足立正生、城之内元晴、神原寛、平野克己、谷山浩郎などがいた。「釘と靴下の対話」(平野)、「プープー」(城之内等)、「Nの記録」(神原)、「椀」「鎖陰」(足立)などが代表的。
「実験映画を見る会」は1960年頃から虎ノ門・共済会館で開催されていた上映会で、高林陽一や松本俊夫らの新作や、海外作品の上映を行なっていた。のち「記録と映像の会」に発展。
「VAN映画科学研究所」は1959年10月に設立された制作所。FAAが前身。城之内元晴、浅沼直也、神原寛、飯村隆彦、足立正生といった映画作家以外にも、音楽家の刀根康尚、画家の赤瀬川原平、佐野善政、風倉匠、詩人の中村義則などが集まっていた、前衛作家のコミューンだった。1969年頃解散。
「内科シネマテーク」は1963年8月に新橋にあった内科画廊で行なわれた上映会。内科画廊はその名の通り内科医師が経営していた画廊。絵画だけでなく、前衛音楽家の楽譜展やオノ・ヨーコのイベント上演が行なわれたという。60年代頭のアヴァンギャルドなスポットでは、銀座の村松画廊、新橋の内科画廊、読売新聞主宰の「読売アンデパンダン」の三つが有名。
「フィルム・アンデパンダン」は前述したブリュッセルの実験映画祭の出品者らと批評家らが集まった組織。メンバーは飯村隆彦、金坂健二、石崎浩一郎、佐藤重臣、足立正生、高林陽一、大林宣彦、ドナルド・リチイ。紀伊国屋ホールでアンデパンダン展(一人2分までのフィルムならどんなものでも上映する)を開催して人気を集めた。この背景には読売アンデパンダンが1964年で中止になったことへの反発がある。映画作家以外の、美術家や音楽家もフィルムを出品するなどした。
※11 イメージ・フォーラム=1977年、かわなかのぶひろらにより設立された映画施設。国による芸術運動への経済的支援がほとんどされない日本において、個人制作の実験映像を発表・研究する“場”を支援し続けている数少ない機関。
※12 土方巽=1928年生まれ。舞踏家。「暗黒舞踏」と呼ばれる新しい肉体表現を生み、強い影響力を持ち続けた。1986年1月死去。
※13 サマー・オブ・ラブ=長引くベトナム戦争の泥沼化に反対したアメリカの若者達に、銃ではなく花を持とう、世界中で花を植えれば平和は訪れる、といった反戦思想が広まった(フラワー・ムーブメント)。そこに「戦うことを拒否する」という社会への反発としての姿勢が加わり(ドロップ・アウト)、マリファナやLSDがそれを実現するための手段(トリップ)として蔓延(サイケデリック)。1967年頃から1970年にかけて、こうしたヒッピーの若者達が台頭してきた時期を「サマー・オブ・ラブ」という。
※14 クロス・トーク/インターメディア=1967年から連続で行なわれた現代音楽祭。音楽、映像、美術、雑誌など様々なメディアが連携して新しいものを作ろうとする動きが60年代後半に見られたが、そうしたinter-(つなげる)mediaの大規模な試みとして開催された。
※15 20世紀初頭の前衛芸術運動=「ダダイズム」は1910年代半ばにヨーロッパで起きた芸術運動。1916年にトリスタン・ツァラが「ダダ」と名付けた。第一次世界大戦を背景に、これまでの常識的な思想を破壊するような思想を持つ。
「マヴォ」は1923年に村山知義や柳瀬正夢らが結成した前衛芸術集団で、機関紙の発行をはじめ建築や演劇、デザインなど様々な分野で活動した。「のらくろ」で有名な田河水泡も参加していた。
「未来派」は1909年に詩人マリネッティによる「未来派宣言」を起点とするイタリアで起きた芸術運動で、機械産業や騒音など近代文明を礼賛・肯定する芸術を追求した。
こうした運動を踏まえると、20世紀の文化は1920年代前後にほぼすべて用意されており、極論を言えば、それ以降の文化は1920年代の焼き直し/バージョンアップにすぎないとも言える。
参考文献
『潮』1968年8月号(潮出版社)特集「アングラの街を行く」
『美術手帖』1967年11月号(美術出版社)
『表現の世界』松本俊夫(清流出版)2006年12月10日
『現代演劇のアート・ワーク60's-80's』展図録(西武美術館)1988年7月
『196Xレトロ大百科』(ミリオン出版)1987年5月20日
『ジャパン・アヴァンギャルド』編・カマル社+ポスターハリス・カンパニー(PARCO出版)2004年6月21日
『アンダーグラウンド・フィルム・アーカイブス』編・平沢剛(河出書房新社)2001年7月30日
『映画評論』1967年〜1974年
『JAPAN UNDERGROUND CINEMATHEQUE』No.5,No.6
『藝能生活』1977年7月号(新しい芸能研究室)
『STUDIO VOICE』1998年9月号(インファス)
※1 天井桟敷
※2 秋山邦晴
※3 金坂健二
※4 草月アートセンター
※5 アンダーグラウンド・シネマ/日本・アメリカ
※6 ザ・フォーク・クルセイダーズ
※7 アングラ・レコード
※8 ニュー・アメリカン・シネマ
※9 稚拙であっても血の色をした映画が欲しい
※10 後続に直接つながるような大きい流れを生むことはなかった
※11 イメージ・フォーラム
※12 土方巽
※13 サマー・オブ・ラブ
※14 クロス・トーク/インターメディア
※15 20世紀初頭の前衛芸術運動
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本文註釈
※1 天井桟敷=1967年に寺山修司が旗揚げした前衛劇団で、寺山は従来の演劇と区別して演劇実験室と呼んだ。代表作に「大山デブ子の犯罪」「書を捨てよ!町へ出よう!」「犬神」「ガリガリ博士の犯罪」「邪宗門」など。
※2 秋山邦晴=1929年生まれ。音楽評論家。芸術家グループ「実験工房」のメンバーでもあった。エリック・サティに造詣が深く、現代音楽の批評・紹介の第一人者。代表作に『現代音楽をどう聴くか』『日本の作曲家たち』『エリック・サティ覚え書』『昭和の作曲家たち』など。1996年8月死去。
※3 金坂健二=慶応大学英文科出身。卒業後松竹映画に入社、国際部に席をおき、ハーバード大学の国際セミナーに参加するうちにアメリカのアングラ映画作家と接触。自身も映画を撮り、1963年に日本で製作した「燃えやすい耳」は、翌年シカゴで開かれたハルハウス国際実験映画祭で最高賞を受賞。アメリカに移って製作した「アメリカ・アメリカ・アメリカ」「石けり」も高い評価を得ている。映画以外にも、アメリカの文化をいち早く翻訳して紹介していた。代表的著作に『地下のアメリカ』『幻覚の共和国』『俺たちのアメリカ』など。1999年死去。
※4 草月アートセンター=1958年、生け花の大流派である「草月流」が設立した、現代芸術/前衛芸術の発展・交流を目的とする団体。その舞台となったのは草月ホール。
※5 アンダーグラウンド・シネマ/日本・アメリカ=好評だったのか大阪・京都・札幌も巡回した。キャッチコピーは「自由をもとめる多彩な映画実験──黒い笑いが現代の狂気をつく!」。第一回の上映作品は「悪魔は死んだ/カール・リンダー」「この西瓜やろう/ロバート・ネルソン」「ムロフノク/ジョー・セデルマイヤー」「モスライト/スタン・ブラケイジ」「アメリカの詩/スタン・ブラケイジ」「アメリカ・アメリカ・アメリカ/金坂健二」「リリパット王国舞踏会/飯村隆彦」「愛/飯村隆彦」「ライフ/ドナルド・リチイ」「ライフ・ライフ・ライフ/ドナルド・リチイ」。
※6 ザ・フォーク・クルセイダーズ=京都のアマチュア・フォーク・グループで、初期メンバーは加藤和彦、北山修、平沼義男。当時から「笑いのフォークル」として人気があったらしい。1967年11月に解散を記念して作った自主制作レコード「帰って来たヨッパライ」がラジオ関西でオンエアされ話題を呼び、翌12月に東芝から発売され数百万枚の大ヒット。これにより一年限定で活動を再開した(平沼は脱退、端田宣彦が加入)。この時のフォークルの所属がのちにURC(アングラ・レコード・クラブ)を設立する泰政明の高石事務所(版権会社はアート音楽出版)だった。なお「帰って来たヨッパライ」以降は名前がフォーク・クルセダーズとなる。
※7 アングラ・レコード=ジャケットにつけられたキャッチコピーは「これが話題のアングラ・レコード!」。レコード解説には「アングラ・レコードとは何か? これぞ音楽界の新しいヒーローだ。アングラ、つまりアンダー・グラウンドで人知れずひそかに作られているこの種のレコード、外国では大はやり。モテにモテている。君達も率先してアングラ・レコード製作に命をかけるべきであろう」とあるが……。
※8 ニュー・アメリカン・シネマ=1960年9月28日、ジョナス・メカスを中心に、ニューヨークの映画作家らが設立した「ザ・ニュー・アメリカン・シネマ・グループ」のこと。および1950年〜1960年前後に登場したそれに類するニューヨークの個人映画作家らの総称。1962年には配給組織「フィルムメーカーズ・コーポラティヴ」を設立。
※9 稚拙であっても血の色をした映画が欲しい=ジョナス・メカスが主宰するアメリカの映画雑誌『Film Culture』22/23合併号(1961年夏)に掲載された、メカスの小論「ニューアメリカン・シネマのための第1宣言」の文末「観客にバラ色の夢を与える映画でなくてもいい。われわれの欲しいのは血の色をした映画なのだ」(『アメリカの実験映画』掲載・石崎浩一郎訳)。
※10 後続に直接つながるような大きい流れを生むことはなかった=細かく見れば、高林陽一、飯村隆彦、大林宣彦らが1963年のブリュッセルの実験映画祭に出品し、特別賞を取ってから、日本の実験映画の流行が生まれたといえるし、その彼らが足場にしていたVAN映画科学研究所や日大映研制作グループが始まりであるというのが正しい。この1963年の実験映画祭はスタン・ブラッケイジが大量に出品し、アメリカのアンダーグラウンド・シネマが認知されるきっかけになった場であり、そう捉えれば海外の影響以前、つまりアングラ・ブーム以前から日本に個人作家の実験映画というのはしっかり存在し、同時多発的なものだと言える。だが、それはあくまで作家と批評家間の影響・認知であり、一般客層まで実験映画に足を運ぶような状況は、やはりアングラ・ブームがなければ生まれなかったと思う。
「キネカリグラフ(KINE CALLIGRAPH)」(1955年)は、大辻らによる「グラフィック集団」が、ノーマン・マクラーレンの間接的な影響を受けて作った実験映画。撮影はせず、フィルムに傷をつけて、それを再生するもの。オリジナルのフィルムは消失しており、1986年に復元・再制作されている。
「日大映研制作グループ」は足立正生、城之内元晴、神原寛、平野克己、谷山浩郎などがいた。「釘と靴下の対話」(平野)、「プープー」(城之内等)、「Nの記録」(神原)、「椀」「鎖陰」(足立)などが代表的。
「実験映画を見る会」は1960年頃から虎ノ門・共済会館で開催されていた上映会で、高林陽一や松本俊夫らの新作や、海外作品の上映を行なっていた。のち「記録と映像の会」に発展。
「VAN映画科学研究所」は1959年10月に設立された制作所。FAAが前身。城之内元晴、浅沼直也、神原寛、飯村隆彦、足立正生といった映画作家以外にも、音楽家の刀根康尚、画家の赤瀬川原平、佐野善政、風倉匠、詩人の中村義則などが集まっていた、前衛作家のコミューンだった。1969年頃解散。
「内科シネマテーク」は1963年8月に新橋にあった内科画廊で行なわれた上映会。内科画廊はその名の通り内科医師が経営していた画廊。絵画だけでなく、前衛音楽家の楽譜展やオノ・ヨーコのイベント上演が行なわれたという。60年代頭のアヴァンギャルドなスポットでは、銀座の村松画廊、新橋の内科画廊、読売新聞主宰の「読売アンデパンダン」の三つが有名。
「フィルム・アンデパンダン」は前述したブリュッセルの実験映画祭の出品者らと批評家らが集まった組織。メンバーは飯村隆彦、金坂健二、石崎浩一郎、佐藤重臣、足立正生、高林陽一、大林宣彦、ドナルド・リチイ。紀伊国屋ホールでアンデパンダン展(一人2分までのフィルムならどんなものでも上映する)を開催して人気を集めた。この背景には読売アンデパンダンが1964年で中止になったことへの反発がある。映画作家以外の、美術家や音楽家もフィルムを出品するなどした。
※11 イメージ・フォーラム=1977年、かわなかのぶひろらにより設立された映画施設。国による芸術運動への経済的支援がほとんどされない日本において、個人制作の実験映像を発表・研究する“場”を支援し続けている数少ない機関。
※12 土方巽=1928年生まれ。舞踏家。「暗黒舞踏」と呼ばれる新しい肉体表現を生み、強い影響力を持ち続けた。1986年1月死去。
※13 サマー・オブ・ラブ=長引くベトナム戦争の泥沼化に反対したアメリカの若者達に、銃ではなく花を持とう、世界中で花を植えれば平和は訪れる、といった反戦思想が広まった(フラワー・ムーブメント)。そこに「戦うことを拒否する」という社会への反発としての姿勢が加わり(ドロップ・アウト)、マリファナやLSDがそれを実現するための手段(トリップ)として蔓延(サイケデリック)。1967年頃から1970年にかけて、こうしたヒッピーの若者達が台頭してきた時期を「サマー・オブ・ラブ」という。
※14 クロス・トーク/インターメディア=1967年から連続で行なわれた現代音楽祭。音楽、映像、美術、雑誌など様々なメディアが連携して新しいものを作ろうとする動きが60年代後半に見られたが、そうしたinter-(つなげる)mediaの大規模な試みとして開催された。
※15 20世紀初頭の前衛芸術運動=「ダダイズム」は1910年代半ばにヨーロッパで起きた芸術運動。1916年にトリスタン・ツァラが「ダダ」と名付けた。第一次世界大戦を背景に、これまでの常識的な思想を破壊するような思想を持つ。
「マヴォ」は1923年に村山知義や柳瀬正夢らが結成した前衛芸術集団で、機関紙の発行をはじめ建築や演劇、デザインなど様々な分野で活動した。「のらくろ」で有名な田河水泡も参加していた。
「未来派」は1909年に詩人マリネッティによる「未来派宣言」を起点とするイタリアで起きた芸術運動で、機械産業や騒音など近代文明を礼賛・肯定する芸術を追求した。
こうした運動を踏まえると、20世紀の文化は1920年代前後にほぼすべて用意されており、極論を言えば、それ以降の文化は1920年代の焼き直し/バージョンアップにすぎないとも言える。
参考文献
『潮』1968年8月号(潮出版社)特集「アングラの街を行く」
『美術手帖』1967年11月号(美術出版社)
『表現の世界』松本俊夫(清流出版)2006年12月10日
『現代演劇のアート・ワーク60's-80's』展図録(西武美術館)1988年7月
『196Xレトロ大百科』(ミリオン出版)1987年5月20日
『ジャパン・アヴァンギャルド』編・カマル社+ポスターハリス・カンパニー(PARCO出版)2004年6月21日
『アンダーグラウンド・フィルム・アーカイブス』編・平沢剛(河出書房新社)2001年7月30日
『映画評論』1967年〜1974年
『JAPAN UNDERGROUND CINEMATHEQUE』No.5,No.6
『藝能生活』1977年7月号(新しい芸能研究室)
『STUDIO VOICE』1998年9月号(インファス)
構成・文=ばるぼら ネットワーカー。周辺文化研究家&古雑誌収集家。著書に『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』『ウェブアニメーション大百科』など。なんともいえないミニコミを制作中。 |
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07.03.09更新 |
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