Monthly Column "Green is located next to us".
日本は雨量に恵まれた国である。気候も概して温暖だ。ゆえに、私たちの身の回りは緑、ミドリ、みどりで溢れかえっている。
思い浮かべて欲しい。あなたが今日、自宅を出て駅に辿り着くまでのわずかの間にも、実に多様な植物を見かけているはずだ。
お隣の庭木、街路樹、路傍の雑草......名前は分からなくとも、きっと両手両足の指で足りない種類のみどりを目にしているはずだ。
この連載では、それらのごく身近な植物に少しだけスポットを当ててみようと考えている。明日からの生活の中で、あなたがとなりのみどりに少し興味を持つようになれば、本稿のささやかなもくろみは成就する。
第一回の今回は、秋になるとオレンジ色の甘い実をつける、見慣れた栽培植物・カキノキをとりあげる。
その歴史は実に古く、豊穣な文化を育んでいるのである。
となりのみどりを巡る旅に、しばしお付き合い頂ければ幸いである。
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■実に1,000種、多様すぎる栽培植物
柿、正式にはカキノキという。
へえ、そうなのかと思い、手元の図鑑類をめくってみる。すると、全て「カキノキ」となっている。
すなわち「柿の木」というわけで、柿はそもそも木なのだからこれは重言ではないのか......と思うけれどもどうなのだろうか。スギやヒノキは「スギノキ」とか「ヒノキノキ」となっていないのだが(「クスノキ」という重言候補もまた存在する)。
しかし、私は植物学者ではないのである。素人だから、この連載でもあまり植物学めいたことは書かないようにしようと思っている。故に、カキノキ重言問題についても立ち入らないことにして、本稿でも柿と書いてしまう。そのほうが身近で好感が持てるというものである。
さて、植物学者ではないが、柿の起源などについて、最低限は触れておかねばなるまい。
まず、原産地は中国であるとのことである。
いつごろからこの植物の利用が始まったのかは定かでないが、ちょっと調べてみたところ「柿」という漢字は紀元前4世紀頃には使われていたようである。後にもう一度登場するが、『禮記』(らいき)という書物の内則(だいそく)篇という箇所に登場している。その頃にはすでに栽培も始まっていたのだろう。
数年前、中国の陝西省で秋の終わりに柿を売っているのを見たが、それらは蜜柑よりもサイズの小さいものであった。或いは、原種に近いものだったのかもしれない。あの時食べてみなかったのが悔やまれるが、寒くて柿など食べたいと思う気分ではなかったので、読者は私を責めるべきではない。
さて、我が国への渡来もかなり早かったようである。『古事記』『日本書紀』には「柿本臣」(かきのもとのおみ)が見える。万葉歌人・柿本人麻呂を出した一族であるが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)によると、「敏達天皇(びだつてんのう)のころ、家門に柿の木のあったことから柿本とした」とある。敏達天皇は有名な推古天皇の夫である。
いずれにせよ、柿本というのは柿の木がなければ起こらない氏名であるのは間違いなかろう。渡来については、奈良時代になってから仏典などとともにもたらされたという説もあるが、敏達天皇云々を信じるならばもう少し早いのではなかろうか。
柿は品種改良が早くから行なわれたようで、栽培品種も多い。変異が割に簡単に起こるようであるから、そのせいなのかもしれない。ともあれ、ごく細かな違いまで数えると、品種は実に1,000を超えるとも言われる。
ここに格別に柿が好きな人がいると仮定しよう。仮に柿内さんとしておく。
柿内家の庭には甘柿と渋柿の木が一本ずつあり、彼は勿論これらを食う。さらに、彼の柿好きは知れ渡っているので、ご近所から貰ったりすることもある。それでも食い足りなくてスーパーで買ったりして彼はしこたま柿を食う。
さて、柿内さんはいったい何種類を口にするであろうか。やはり、精々数種類だろう。1,000種をひとつの柿の実だとすると、ほんの少し齧るくらいでしかないのである。
なお、私の知り合いに柿内という人がいるが、彼は柿が苦手だそうである。
■全世界の富を有(たも)つ
柿は甘柿と渋柿に大別される。甘柿はそのまま食べられるものである。いっぽう、渋柿はそのままでは食えないので、熟柿(じゅくし)になるのを待つか、渋抜きしてから食べる。
そもそも、野生の柿は、もともと渋柿であったらしいが、現在では甘柿の方が多く栽培されているようである。
甘柿の中でもっとも人気がある品種が富有柿である。訛って「ふゆがき」と呼ばれていることもあるので、私はずっと「冬柿」だと勘違いしていたが、正しくは「ふゆうがき」と読む。考えてみれば、秋の果実を「冬柿」と名付けるのは意味が通らない。去来少年はおろかなのであった。
さて、富有柿は、御所柿(ごしょがき)系統の柿の木から変異で生まれたものである。関西出身の両親に聞いたところ、小さい頃食べていた甘柿は御所柿系で、ある時期から富有柿になったというから、どの種が栽培されるのかは地域差などもあるのだろう。
富有柿の栽培をはじめたのは現在の岐阜県瑞穂市居倉に住んでいた小倉初衛という人物である。要は、変異で出現したものを、種として固定しようと頑張った人である。
この日本柿栽培史に特筆すべき事件があったのは、なんと1857年(安政4年)のことだという。安政の大獄で吉田松陰や橋本左内が命を奪われる前年のことである。
その後、日本史はご存知の通りの激動期を迎えるが、富有柿は接ぎ木でじわじわと広まっていったらしい。しかしながら、当時まだ固有の名前はなかった。
この柿に富有という名を付けたのは、小倉と同じ居倉の人、福島才治である。福島は明治の人だそうで、そうすると富有柿はしばらく名無しであったことになる。案外不遇で、やや親近感が増す。
この福島、なかなかの教養人だったらしく、しゃれた出典を引いてきた。冒頭でも言及した『禮記』である。
『禮記』中庸篇で孔子が古帝王・舜について語る部分がある。一部だけ抜き出すが、「子曰、舜其大孝也与。徳為聖人、尊為天子、富有四海之内。宗廟饗之、子孫保之」とある。
ざっくりと訳すと、「孔子が仰られた。舜は非常な孝であることよ。徳ということからすれば、聖人であり、身分の高さにおいては天子であり、富の豊かさでいうならば四海の内を統べている。また、霊廟の祖先の祭りを執り行なって、子孫はそれを継承していった」という意味である(ごく一部分なので全体的な意味は言及しない。興味のある向きは岩波文庫の『中庸』など参照されたい。『禮記』は孔子の孫・子思の自筆として、切り離して一書として扱われることも多い)。
該当部分の「富有四海之内」は慣用的な言い回しだが、「四海之内」という部分は、秦による天下統一が近づくと「天下」という表現に置き換わっていく。
つまり、「富有四海之内」は、「世界中の富を有(たも)つ」という意味に他ならない。
スケールが大きい点も素晴らしいし、当の『禮記』中に「柿」の字が出てくるのも良い。そのことも踏まえていたとすれば、福島才治はこれ以上ない命名をしたと言えるであろう。
甘柿は他にもゴマンと(は嘘だが)品種があるから、少しだけ触れておこう。
ほかにも次郎、西条といった甘柿がある。次郎柿は、甘柿として二番目、渋柿を含めての三番目の生産量のある品種で、東海地方を中心に栽培されている。1844年(弘化元年)、松本治郎吉が、野生の幼木を持ち帰って育てたのが起源という。次郎吉の持ち帰った原木は、今でも静岡県森町で毎年実をつけている。
甘柿だけでなく渋柿もそうなのだが、人工的な交配ではなく突然変異種から有力な品種が生まれることが実に多い。あなたの家の庭先から、200年後も愛される品種が生まれる可能性があるのである。
■庄内説と越後説、平核無柿の起源とは?
甘柿がそのまま食べられるのに対し、渋柿はタンニンが多く、一手間加える必要がある。
アルコールを用いる方法や、干し柿にする方法など数種類あるが、これらの技法も原始的なものはかなり古くから行なわれていた可能性がある。平安時代の『延喜式』(えんぎしき)にも「干柿」がしばしば登場する(「○連」という表記から、吊るし柿であったらしいと分かる)が、これは天皇の食事を司った内膳司に関する箇所で、どうやら干し柿は極めて糖度が高いので、砂糖の伝来前は蔦の樹液を煮詰めた「あまづら」等とともに甘味料として使われていたらしい。今でも和菓子に干し柿を練り込んだりするのはその名残であろう。
そんな渋柿にも、甘柿に劣らず数多くの品種がある。富有柿が甘柿の代表であるとするならば、渋柿の代表は平核無柿であろう。平核無柿と書いて「ひらたねなしがき」と読む。核、すなわち種である。
平核無柿の起源については二説が対立している。越後説と庄内説である。
まず、越後説では、新潟県秋葉区古田にある古木(推定樹齢300年前後とされる)を原木とし、明治期に酒井調良(ちょうりょう)が庄内に苗木を持ち帰って広まったとする。この説の強みは、原木(とされるもの)が現存するところである。しかし、逆に言うならばそれだけなのが弱いところである。
庄内説を検討してみよう。それによれば、明治18年、山形県鳥居町(現鶴岡市)の鈴木重光は、越後から来た行商人から数本の柿の苗木を購入した。それらは数年して実をつけたが、その中に一本だけ、種のない柿があったという。
そこで鈴木は、親交のあった酒井調良に相談した。この酒井、庄内藩家老酒井了明(のりあき)の次男である。戊辰戦争で最後まで新政府に抵抗した庄内武士は、維新以降、新しい生き方を求めなければならなくなっていた。そんななか、酒井は養蚕に力を入れたのを皮切りに、庄内ではじめて林檎を栽培し、豚の飼育をはじめるなど人物として知られていた。
その酒井、鈴木からの相談にこれはと思ったのか、その種のない柿の栽培に乗り出す。これが平核無柿の品種としての始まりで、当時は酒井の名から採って調良柿と呼ばれていたという。
酒井はこの渋柿の販路を確立するため、大正初年頃には農学者・造園家として著名であった原煕(ひろし)の元を訪れ、アルコールによる渋抜きを教授してもらうとともに、平核無柿と命名してもらったという。
長くなったが、これが庄内説である。大筋でやはり、庄内説を認めるべきであろう。越後説は、酒井が苗木を持ち帰ったという部分など、作為があるように感じられる。
庄内説でも鈴木の育てた苗木の出所が不明であり、これは越後説の言うように、原木とされるものに直接由来する可能性もゼロではない。ただ、現在八珍柿と呼ばれている平核無柿は、庄内からの逆輸入で広まったことは忘れてはならない(現在も調べを進めているが、佐渡での名産品化に尽力したのは民俗学者の宮本常一であるらしい)。
なお、平核無柿にはさらなる変異種が存在する。奈良県天理市の刀根淑民(とねよしたみ)氏の農園で発見された刀根早生(とねわせ)がそれである。刀根早生もメジャーな品種で、各地で栽培されている。
もう少しだけ触れよう。
市田柿は平安時代から栽培されているとされる古い品種で、硫黄による燻蒸という独特の製法で渋抜きされる。今では長野県の飯田市・下伊那地方で生産されたもののみを言うらしいので、一種のブランド戦略をとっているということだろう。福島県伊達市五十沢(旧伊達郡五十沢村)のあんぽ柿も硫黄による燻蒸を行なう。この製法の良いところは、日が経っても黒く変色しないことである。
他にも面白い品種があるのだが、ひとまずはこんなところにしておこう。
■紀ノ川筋の味
漢方薬や柿の葉茶、柿渋の利用についても触れたいところだが、それではきりがなくなってしまう。最後に柿の葉寿司について紹介しよう。
柿の葉寿司は奈良県、和歌山県を貫流する紀ノ川(吉野川)筋の郷土料理である。近年では奈良県内で幾つかの業者が作っているため、近鉄沿線で買える土産のようになっているが、本来的には紀ノ川筋の限られた地域の家庭で作り、食すものである。
柿の葉は、渋柿のものを使うほうがよいともされる。また、柔らかくするために軽く塩で漬けたりする場合もある。
紀ノ川筋でも特に上流のあたりは、最近まで新鮮な海の魚が手に入りにくかったところである。戦後しばらくして交通の便が良くなるまでは、缶詰の魚や干物がご馳走であった農村・山村も多かったという。柿の葉寿司文化圏について詳細に調べたわけではないが、日頃魚が手に入りにくく、而して紀ノ川の水運を通じて鯖が運ばれる地域、ということではなかろうか。
私の父は紀ノ川筋の出身なので、実家では今でも柿の葉寿司をつくる。庭先に植わっている柿の木から葉をとり、焼酎を含ませた布巾で裏表を拭く。自家製の鯖寿司をこの柿の葉に載せ、半日ほど押す。
あとは柿の葉を取り、ワサビ醤油などで食す。タネは鯖だけでなく鮭などを使っても構わないが、やはり私は鯖が好きである。柿の葉の大きさなどによってサイズがひとつひとつ違うのも愉しい。素朴だが、飽きない味である。日本酒にも実によく合うから、酒飲みの諸氏には堪らないだろう。
なお、石川県でも同名の郷土料理があるが、これは作り方が異なり、柿の葉は広げたままで、そこに〆鯖や酢飯を載せ、これを重ねて重石をするという。残念ながら、私はまだ食べたことがない。
■子規の柿
「柿食へば」の句で知られる正岡子規は大の柿好きであった。例の句に出てくる柿は御所柿である、と本人も記している。
この句は、法隆寺の門前で御所柿を食べた際の句であるとも言われるが、実際に柿を食べたのは前日、宿においてのことだった。
本人の筆によると以下のような経過である。
○御所柿を食いし事 明治廿八年神戸の病院を出て須磨や故郷とぶらついた末に、東京へ帰ろうとして大坂まで来たのは十月の末であったと思う。その時は腰の病のおこり始めた時で少し歩くのに困難を感じたが、奈良へ遊ぼうと思うて、病を推して出掛けて行た。(中略)或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢に山の如く柿を盛て来た。さすが柿好きの余も驚いた。それから下女は余のために庖丁を取て柿をむいでくれる様子である。余は柿も食いたいのであるがしかし暫しの間は柿をむいでいる女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。この女は年は十六、七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた。やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。(以下略)
つまり、本人の述べるところによると、柿を食べたのは宿、鳴っていた鐘は東大寺のものである。これを翌日に参詣した法隆寺に置換したのが有名な句であるわけで、本来的には「柿食へば鐘がなるなり東大寺」だったわけである。
正岡子規「くだもの」より
それにしてもこの文章を読むと、柿への興味よりも、子規のために柿をむいた下女が気になってしまう。私だけであろうか。
となりのみどり 第一回:カキノキ 了
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13.12.01更新 |
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