Monthly Column "Green is located next to us".
日本は雨量に恵まれた国である。気候も概して温暖だ。ゆえに、私たちの身の回りは緑、ミドリ、みどりで溢れかえっている。
思い浮かべて欲しい。あなたが今日、自宅を出て駅に辿り着くまでのわずかの間にも、実に多様な植物を見かけているはずだ。
お隣の庭木、街路樹、路傍の雑草......名前は分からなくとも、きっと両手両足の指で足りない種類のみどりを目にしているはずだ。
この連載では、それらのごく身近な植物に少しだけスポットを当てていくものである。明日からの生活の中で、あなたがとなりのみどりに少し興味を持つようになれば、本稿のささやかなもくろみは成就するとお考えいただきたい。
さて、第2回となる今回取り上げるのは、建物の壁を這っているのをよく目にするつる性の植物・ツタである。
実はこの植物から、食用として珍重される加工品が作られていた......と書くと、大抵の方は驚かれるのではなかろうか。
ではしばし、となりのみどりを巡る旅にお付き合い頂こう。
あてなるもの。薄色に白重(しらがさね)の汗袗(かざみ)。かりのこ。削り氷にあまづら入れて、新しき金まりに入れたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。いみじう美しき兒(ちご)の覆盆子(いちご)くひたる。
冒頭に掲げたのは、『枕草子』の一節である。「あてなるもの(上品なもの、高貴で優美なもの)」の例として、「薄紫の衫の上に着た白い重ねの上着。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかる様子。大変可愛らしい子供が苺などを食べている様子」と共に挙げられている「削り氷(ひ)にあまづら入れて、新しき金(かな)まりに入れたる」とはなんだろうか。
削り氷とは文字通り削った氷。金まりは「金椀」とも書き、金属製の碗のことを言う。『竹取物語』には銀製の金まりが登場する。
つまり、件の一文は「銀など金属でできた碗に削った氷を入れて、あまづらをかけたもの」というような意味になろうか。
この「あまづら」、今回取り上げるツタと関係がある。それについてはのちほど詳しく触れるとしよう。
■美しく紅葉する様を詠む
ツタはブドウ科に属するつる性の落葉植物で、全世界で現在19種類ほどが知られている。
日本に暮らす人で、この植物を見たことがないという人はいないだろう。建物の壁にツタを這わせて装飾的に用いることも多い。もしかしたら、この文章を読んでいるあなたの家も、ツタで覆われているかもしれない。野球場などでもよく見かけるが、阪神甲子園球場のツタは、特に有名である。
学校や教会などでもツタを這わせることは盛んで、往年のヒット曲『学生時代』(1964、キングレコード)に登場する「蔦のからまるチャペル」は、青山学院大学内に実在している。作詞作曲をつとめた平岡精二、歌手のペギー葉山は二人とも青山学院の出身だから、さぞかし身近なモチーフだったのだろう。
この、建物に這わせるという風習と相まって、ツタは何となく明治以降に西洋から入ってきたものだと感じていないだろうか? 確かに、煉瓦作りの建築物にツタはよく似合う。けれども、ツタの原産地は東アジアと目されており、日本においては「史前帰化植物」──つまり、有史以前から自生していたとされる。
和歌の世界でも、ツタはすでに『万葉集』の時代から詠み込まれており、そこではツタの枝が別れて繁茂する様子と、人の別れが重ねあわされて詠まれている。また、最も多いのは、やはりその葉の色づく様子を詠んだものである。
思はずよよしある賎のすみかかな蔦のもみぢを軒にははせて
西行『山家集』
古寺のかはらの松は時しらで軒端の蔦ぞ色ことになる
他にも似たモチーフを詠み込んだ歌は多いが、ツタと言えば紅葉する様子が美しく、そして大抵は建物の軒を這っているものであったようだ。
宗良親王『宗良親王千首』
江戸時代を代表する出版人に蔦屋重三郎がいるが、その屋号「蔦屋」は元々、重三郎の養家・喜多川氏の屋号だったという。喜多川氏の家業は吉原の茶屋だったというが、もしかしたらその建物はツタで覆われていたのかもしれない。余談だが重三郎は、狂歌においては「蔦唐丸(つたのからまる)」と号している。
我が国の先人たちにとって、このようにツタは身近であったのである。
■古代甘味料「あまづら」
史前帰化植物として歌の世界でも親しまれてきたツタ。しかし、我が国では、鑑賞するものとしてだけではなく、古くからツタをある方法で利用してきたのである。
それこそが、冒頭で紹介した「あまづら」である。
あまづらは、漢字を宛てると甘葛となり、製法からか甘葛煎とも呼ばれる。いつ頃から用いられたのかは定かではないが、おそらくはこれも有史以前に遡るのではないかと思われる。
記録を紐解いてみると、『正倉院文書』に薩摩・駿河の正税帳が残っており、そこから試算すると、あまづらは一升瓶一本あたり30万円という、とんでもない価値があったらしい(後出の石橋顕氏による)。
また、『延喜式』には伊賀、遠江をはじめとする20ヵ国、そして太宰府より、毎年朝廷に献上されたことが見える。なお、太宰府では全てを朝廷に差し出していたわけではないことが、天平二年に歌人としても知られる大伴旅人が開いた「梅花の宴」のメニューから分かっており、これは他の国府などでも同様であったのではないか。
しかしながら、あまづらは大量のツタと多大な労力を消費する割には少量しか作れず、庶民の口にはなかなか入らなかったであろう。その所為であろうか、室町時代の末期になって砂糖が大量に供給されるようになると、あまづらは滅んでしまう。
近年になり、九州の薬草学者である石橋顕氏が、久方ぶりにあまづらの製法を再現された。その手順は以下のようなものである。
・初冬から春先にかけての時期に、できるだけ太いツタの枝を伐る(この時期、樹液の糖度が高くなる)。
・伐採した枝は30センチほどに切り、息を吹き込むなどして樹液を押し出して容器に集める。
・この樹液を「みせん(味煎)」と呼ぶ。この状態でも料理などには使えるが、日持ちしない上に糖度は十数パーセントに止まる。
・集めた「みせん」を濾し、不純物を取り除いた上であくを取りながら煮詰めていく。
・5分の1程度に煮詰め、糸を引くようになったら完成。
・あまづらは、放っておくと蜂蜜のように結晶化するが、熱を加えると元に戻る。瓶などに詰めれば日持ちはかなりするという。
特にこれといって専門的な道具も必要とせず、ツタさえ集まれば簡単にできるだろう。ただし、それなりの量のあまづらを作るには、大量の立派なツタが必要だし、かなりの人手も要るだろう。
律令国家が全国から集めようとしたのも、まとまった量を畿内だけで生産するのが難しかったからではないだろうか。
このあまづら、私はまだ口にしたことがないが、砂糖(しょ糖が主成分)と異なり、果糖やブドウ糖も含んでいて実に上品な味わいだということである。また、糖度は75パーセント前後もあるというから、清少納言のように王朝時代の人々にとっては、この上なく貴重な甘味だっただろう。
そうそう、冒頭の引用で清少納言が食べていたのは、平安時代のかき氷である。氷は、冬の間に畿内各地の池に張った氷を氷室と呼ばれる倉庫に蓄えておいたもの。それを夏になってから取り出し、削った上にあまづらをシロップとしてかけて食すというわけだ。氷もあまづらも、共に当時の超高級品である。貴族であっても、いつでも自由に欲しいだけ食べることは難しかったのではなかろうか。
夏の暑い日にあまづらをかけたかき氷を食すことは、中宮定子や清少納言たちにとって、多いに楽しみだったに違いない。
■甘美なデザート、芋粥
今少しあまづらの話題を続けたい。
先ほど、製法の部分で「みせん」について、「料理などで利用する」と触れた。そこで、「みせん」を利用した料理の代表である、芋粥について申し述べたい。
現在では芋粥というと、白粥にサツマイモを加えたものを言う。私が小さい頃、風邪を引くと母親が作ってくれたのもこれである。しかし、本来の芋粥は違うものであった。
芥川龍之介のよく知られた短編のひとつに「芋粥」がある。これは『今昔物語集』に材を採ったもので、ある関白に仕える五位という武士を主人公にしている。
ある年の正月、関白の邸宅で宴会が行なわれ、その終わりに五位は大好物である残り物の芋粥を啜りながら「腹いっぱい食ってみたいものじゃ」と言う。それを聞いていたのが藤原利仁という人物である(利仁は実在の人物で、主に東国の国司を歴任し、武勇に秀でていたという)。
数日後、利仁は五位を誘い出して鶴賀の自邸へと赴き、そこで大量の芋粥を調理して五位をからかう......というおなじみのストーリーである。
ここで登場する芋粥、芥川は「芋粥とは山の芋を中に切込んで、それを甘葛の汁で煮た、粥の事を云ふのである」と記す。
「山の芋を中に切込んで」という書き方は、白粥の中に切った山芋を入れたようにも読めるが、米は用いず、薄く切った山芋をどろどろになるまで煮て、そこに「あまづら」ではなく「みせん」を入れる。これが芋粥である。
これは当時、貴族の宴会や朝廷の行事などの際、最後にデザートとして供されたものである。
すでに述べたように、「みせん」は煮込めば「あまづら」になる。よく煮込んだ芋粥は、実に甘くて美味だったであろう。
五位ならずとも、『今昔物語集』の読者にはこれを好物とする人もいたのではなかろうか。そして、あまづらをかけたかき氷同様、いつでも口にできるものではなかった。だからこそ、この一説話が成立したのではないかと考えるのである。
■1912年、北京の芋粥
ここで、1000年ほど時間を早回しして、1912年の北京に飛ぼう。
当時の北京──辛亥革命により清朝は倒れたが、国民政府の実権はすぐに軍閥の袁世凱によって奪取され、革命に夢を託した知識青年たちは内心に強い鬱屈を抱えながら暮らしていた。
紹興生まれで、日本への留学経験を持つ周樹人という青年もその一人であった。彼は、友人の紹介で国民政府の教育部に職を得て働きながらも、自分の思い描いた革命と、現実との不一致に悩まされていた。
折しも、この年の北京は稀に見る寒波に見舞われており、樹人は体調を崩しがちであった。そこで樹人は、消化がよく栄養に富み、しかも美味である北京産の山芋を好んで食した。
山芋の皮を剥いてしばらく煮込むと、牛乳よりも濃厚で、きめ細やかな状態になる。樹人はこれに砂糖を加え、芋粥にして食したという。中国においては、芋粥は古くから薬として用いられた歴史を持っている。
樹人は元々、医者を志して日本に留学した。また、幼い頃に没落したとは言え読書人の家系であったし、自身も古典籍を好んだから、薬としての芋粥を知っていたのだろう。
周樹人、即ち、後の魯迅である。
魯迅は自ら作品を訳出するほど日本語が堪能であった。また、留学時代には夏目漱石を愛読し、帰国後も「第二の母国語」として日本語の書物には生涯親しんだ。果たして、彼は芥川の「芋粥」を読んだであろうか? 魯迅は几帳面な性格で、「書帳」(入手した書籍のリスト)を遺した。なにぶん膨大なものだが、そのうち全部あたってみるのも面白かろう。
■ツタの葉が散り、冬が訪れる
本稿を書くために、近所をぶらぶらと歩きながらツタを探し、写真を撮ってまわった。
折から台風が幾度か襲来し、それが終わると秋雨が振ってぐんと冷え込んだ。紅葉の季節である。
イチョウやカエデなどと同様、近所のツタも紅葉しはじめている。これらの葉が散ると、冬の訪れである。
ところで、私の住んでいるあたりは、嘗て広い松原であった。故に、今でもマツの大木があちこちに植わっている。中には、マツの幹にツタが這っているのもある。
ツタが落葉樹であるのに対して、マツは常緑樹であり、和歌の世界においてもしばしば対比される。変わるものと変わらぬもの、という喩えである。
自宅に帰ってから、集めた資料を読み返していると、ちょうど今時分にふさわしい一首が見つかった。これを掲げて今回の本稿を締めくくりたい。
ふる郷のかきほの蔦も色付きてかはらの松に秋風ぞふく
宗尊親王『瓊玉和歌集』
となりのみどり 第2回:ツタ 了
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