Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第二章 地下の風景【3】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
しかし、『臭作』がメタ鬼畜ゲームだということにはもっと決定的な理由がある。というのも、実際にこの作品はメタフィクションなのである。それは序盤からちらほらと予告されてはいた。例えば「俺はお前でお前は俺」というテロップがある。これは主人公キャラクターがプレイヤーを意識していることを示している。しかも単なる意識ではなく、主人公という立場にプレイヤーの存在が重ね合わさることによってゲームが成立しているという、その条件に対する理解も含み込んでいる。また、凌辱シーンに入ると、臭作視点と客観視点のどちらかを選択することができる。普通、このようなものはシチュエーションを盛り上げるための単なるサービスにしか思われない。しかし『臭作』の場合、この視点変更ができるということそのものがゲームのメタフィクション性に対する伏線になっているのである。丁寧に対応をつけるなら、臭作視点とは主人公キャラクター視点であり、客観視点とはプレイヤー視点である。問題は、この二つの視点を自由に移動できるということはどういうことなのか、そして何によってそれが可能たらしめられているのか、ということだ。例えば先述したテロップはまさにそれを可能にするための条件としての宣言、あるいは契約だったと言えるだろう。
この点で『臭作』とはアダルトゲームのプレイ経験そのものを隠喩とした作品であることは間違いないのだが、それだけではメタフィクションとは言いがたい。本作をメタフィクションたらしめる要素は他にある。この作品においては、終盤に、プレイヤーがゲームの中に文字通りに入ってしまうのである。
急いで補足しよう。例えばこのゲームは土曜日から月曜日までの36時間で構成されているが、その時間内に全ヒロインを攻略できなかった場合、臭作は死亡し、何事もなかったかのようにはじめに戻る。従ってこのゲームは、まさにゲームらしく、繰り返しプレイすることが前提になっているわけだが、この構造とは完全にゲーム的リアリズムに準拠したものだ。臭作が36時間という僅かな暇の間に綿密なスケジュールとミッションを達成し、何人ものヒロインの篭絡と凌辱に成功するということは、他ならぬプレイヤーが習熟していたからである。
しかし興味深いのは、まさにミッション達成のそのときにおいてある逆転が起きることである。つまり、それをきっかけにしてプレイヤーがゲームの中に入り臭作になってしまうのだが、それは同時に、臭作がプレイヤーの立場に上昇することを意味している。これは隠喩的な物言いではなく、実際にそうなのだ。もう少し厳密に、臭作の主人格はむろん臭作だが、プレイヤーがそこにもう一つの人格として入り込んでしまったことによって、主人格の強い拘束に縛られている、と言うこともできるかもしれない。
この構図は先駆的である。というのも、強度を増したキャラクターがプレイヤーの水準まで上昇するというのは、後々のループ的な作品を眺め見ていればよく出会う光景だが、同時にプレイヤーの位置を下降させることによって、あくまでもそういう演出に過ぎないとしても、一時的にプレイヤーがキャラクターよりも下位の存在になったかのような印象がここに生まれているからだ。しかし、これは真っ当な出来事のはずなのである。ゲーム的リアリズムは、なぜ本来無時間的な存在であるはずのキャラクターがそれこそ「成長」するのか、ということについての一つの説明概念だが、成長の行く先とは「自立」、即ちプレイヤーの手を離れることしかありえないだろう。その点で『臭作』は極めて正しい成り行きを提示している。
では最終的にその物語はどういう結末に至るのか。臭作としてゲーム内に迷い込んでしまったプレイヤーは、当然ながら現実に帰還することがミッションとなる。しかし、いまやこれはとても難しい目標である。なぜなら、最終シナリオに至るまで、我々プレイヤーはまさに臭作になりかわり、極めて厳密で繊細な計画を立て、冷酷かつ残虐に女学生を凌辱していった。その過程とはもはやプレイヤー自身が自分の内面を臭作化していくプロセスだとすら言えるだろう。そして、それが頂点に極まったからこそ、まさにプレイヤーは臭作と化し、ゲーム内に取り込まれたのである(そして強度を増した臭作はプレイヤーの立場に上昇した)。従って、問題はやや重層的である。プレイヤーとしては臭作に抵抗しなんとか穏便にこの36時間を耐え忍びたいわけだが、はじめの段階ではプレイヤーは臭作の操作に抵抗することができない。当然の話だ。キャラクターはプレイヤーの操作に抗うことができない。これは臭作自体がプレイヤーの立場になったことで強力な権力を発揮しているのと同時に、本編のプレイ体験においてプレイヤーが自分自身を強く臭作的なものへと教育してしまったのだという事実性を表現している。
ではプレイヤーはいかにして救済されるのか。それは高部絵里というヒロインによってである。彼女は本来ならメインヒロインであるはずの容姿や扱いを受けているが、驚くべきことに攻略できないヒロインなのだ。従ってもはやこれはアダルトゲームにおいてはヒロインとは言えないかもしれない状態である。ところが、この女性の存在が、一転して最終シナリオにおいてはまさに希望の光となる。臭作の命令をはなれ凌辱行為をいかに防ぐかがミッションであるこの物語においては、まさに攻略できないヒロインこそが唯一の希望である。と同時に、攻略できないヒロインであるにも拘らずその人をヒロインとして扱うためにはどうすればよいのかというアクロバティックな思考がここには展開されている。明らかに最終シナリオは高部絵里シナリオである。
結論を言えば、プレイヤーは臭作の命令を、絵里の力を借りることで排除することに成功し、36時間の閉域から逃れ現実に復帰する。すると、復帰した主人公の前にあるモニターの中に高部絵里の姿がある……。
しばしば印象的に語られるこのシーンだが、いまや我々はこれを、現実に目を向けろ、だとか、キャラクターはしょせん仮想的な存在なのだ、とかいうような受け止め方をするべきではないだろう。もちろん、ナンパゲームの担い手としてのエルフの作品としては、その理解は真っ当である、しかし、極めて込み入った『臭作』の戦略を前提にするとき、我々には別な理解があってもいいはずだ。
当然だが、ゲームから脱出するというような経験をふまえたプレイヤーにとって、高部絵里は特別な存在のはずである。その特別さは、単に自分たちを助けてくれた恩人だから、ということには留まらない。というのも、最終シナリオはいわば我々がキャラクターであることを追体験するような仕組みになっている。これは、アダルトゲームがバーチャルな恋愛体験だとか、序盤の『臭作』が鬼畜ゲームの隠喩・パロディのようになっていることとは一線を画す問題である。もし『臭作』の戦略がそれに留まるのであれば話は簡単で、アダルトゲームユーザー批判ということになるからだ。しかし、プレイヤーがキャラクター化しフィクションの中に落ちるとなると、これは単なるユーザー批判にはなりえない。むしろそれは鬼畜ゲーム批判として捉えられないだろうか。
鬼畜ゲームを批判するということにもいくつかの側面がある。例えば、ジャンル意識というのは一種の考古学として、終わってから初めて明らかになる部分がある。従って逆説的に、ジャンルを代表するような典型的な作品の登場はそれ自体がジャンルの区切りを予見しているとも考えられるわけだが、我々はまさに典型的な作品として『臭作』を取り上げていた。そして内容を吟味した今においては、まさに外から(あるいは奥深くから)鬼畜ゲームを見る視点を組み込んだ形でこの作品がジャンル意識の自覚を表現していることは確かに思われる。それは即ち一種の総括である。
他方で『臭作』が行なう批判はもっとラディカルにプレイヤーとキャラクターの関係を問い直している。鬼畜ゲームとはまさに「不謹慎な欲望」をある程度満たすために存在するエンターテインメントだが、当然、内容の反社会性も相まって、単に存在しているようなナイーブさではいられなくなる。鬼畜ゲームがしばしばレイプをテーマにしているからといって、これと現実の事件の因果など普通はあるはずもないが、そう見ようとする外部の視線に作品は、そしてメーカーは耐えなければならない。そのとき、これは筆者の妄想に過ぎないが、『臭作』が表現しているのは、単に安全な人形としてのキャラクターをいたぶって遊んでいるのだ、ということでは決してないように思われる。例えば、性的対象としてマンガやアニメが機能するためにはそれなりの魅力や存在感を発揮している必要がある。まして鬼畜ゲームはしばしば「人格の凌辱」のようなものが重要なモチーフになってくる以上、余計に人間性が重要になってくる。従って、むしろ、鬼畜ゲームがテーマとするある種の暴力性を、人間が必然的に備えているものなのだと受け入れた上で、その条件を明るみに出す複雑なゲームデザインを間に挟み、キャラクターの人間性に肉薄しようとしたのが本作ではないだろうか。
しかし、そのとき人間性という言葉の意味もまた変質している。その人間性を判断する我々はもはやプレイヤーの高みからキャラクターを眺めるのではなく、同じ目線の高さから、あるいは、キャラクターよりも低いところから見上げるようにそれを確認するのだ。その結果が、高部絵里とのセックス抜きの純愛なのかと言われれば、確かに筋書きとして首を傾げざるを得ないかもしれないし、鬼畜ゲームユーザーの多くは物足りなさを感じたかもしれない。確かにこれだけでは不満だろう。しかしこれは萌芽なのだ。例えば、ゲームをてこにした新しい想像力を、あるいはキャラクターとの付き合い方に取り巻く倫理をもしくは、鬼畜ゲームが欲しがっているだろう反社会的行為の臨場感を追求するにおいて。それらは、すでに鬼畜ゲームというジャンルを超えた視点だが、しかし、すでに十年前においてこのジャンルがかような視点を獲得していたことは確認しておいてよいだろう。
文=村上裕一
11.08.06更新 |
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