Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第二章 地下の風景【2】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
アダルトゲームに発露した不謹慎な欲望を『177』は確かに端的に示しているのだが、しかしこれがまだ未発達の表現であることは明らかだろう。性欲のままに女性を襲うさまはむしろ動物的なのであって、そこに垣間見える人間性はなんとか和姦に持ち込もうという保身欲か、性的に充足させれば文句はなかろうという傲慢である。しかし、この人間性らしきものも読み取ってはじめて現われるような代物であって、そのような思想を表現したいからやっているわけではない。むしろジャンルの発達は読者がなにをもって鬼畜とするかという条件を意識し、積極的に表現へ組み込んでいくことによってなされるものだろう。そして、円熟した作品から振り返ることでむしろジャンルは自らが何だったのかを自覚するのではないか。
これは、「風景」を批判することから始めた我々にとってはむしろ逆説的である。というのも、ジャンルの円熟が体現するものこそが「風景」だからだ。これはこういうものなのだ、という一種のレッテル、ラベルである。しかしここでの前提は、我々がこれを知らない、というものだ(※22)。従って「風景」は障害ではなくむしろ絶好の手引きとなる。
このような観点からさしあたり取り上げたいのは『臭作』(エルフ、1998)である。本作はアダルトゲームの中でも鬼畜作品の代表作として名高く、作品自体が鬼畜ゲームであることを自認している(※23)。また本作はシリーズものの一つであり、第一作目『遺作』(エルフ、1995)、第二作目『臭作』、第三作目『鬼作』(エルフ、2001)と、鬼畜な「おやぢ」たちの活躍が、多くのユーザーの心を掴んだ。むろん、「鬼作」の「鬼」が鬼畜から来ていることはもはや自明だろう。
では『臭作』とはどのような作品なのか。例えば仮に、これは典型的な鬼畜ゲームである、と言っても、ここではそれでは説明にならない。これを言い換えるいい言葉が作中に登場している。それは「外道」である。道に外れた卑劣な手段を用い、女の子から自由を奪い追い詰める――それが『臭作』の主だった方針であることは間違いない。
内容的には、音楽学校の女子寮に、偽管理人として潜り込んだ臭作という男が、デジカメやビデオカメラを使って学生の弱みを握り、それをネタにして相手を凌辱することが目的のゲームとなっている。そう、作品ジャンル名にも書いてある通り、これは盗撮アドベンチャーゲームなのである。
この盗撮という方法を取り入れたことは一つのイノベーションであった。というのも、『177』と無理やり比べるならば、こちらの方がより上位の、つまり文化的な(性)犯罪だからである。ふだん人が見せていない部分を覗き見たいという背徳的な欲望を満たすために、現行の法律では認められていない行動を、デジカメやビデオカメラといった現代的なアイテムによって遂行するというこの仕立てが、アドベンチャーというよりももはやシミュレーションとして、そしてまさにゲームとして、架空の行動体験を盛り上げていた。
もちろん盗撮というモチーフを使い出したのは『臭作』が初めてではなかろうが、重要なのはこれがエルフの作品だということにある(※24)。第一章で取り上げた『同級生』が恋愛シミュレーションとして時間制度に基づいた緻密な行動を要求することはすでに書いた。そして、時間以外の制限がないゆえに、現代の作品からは考えにくい多重同時ヒロイン攻略即ちナンパが時間の許す限り可能だとも言った。
実は『臭作』はこの『同級生』と同じ発想でゲームデザインされている。というよりも、むしろ『同級生』が浮き彫りにしてしまったある種の欲望を特化して表現しているのだと考えることができるだろう。例えば、時間が許す限り何をしてもいいのなら、当然犯罪的な行動も取れるはずだ、とか、女の子をあまりにも多重に攻略することはもはや通常の意味では恋愛と言えず、それは実際には女の子の内面を蔑ろにした鬼畜的行為なのだ、とか、かような時間拘束のスリルはむしろ犯罪的な行動においてこそより強く発揮される、など、様々な視点から『同級生』の成果を言い換えることができる。従って、『臭作』は単に盗撮をモチーフにしたからよいのではなく、この『同級生』的システムと合体させたからこそ業界の歴史に残るヒット作となったのだ、と考えるべきである。その点で、『同級生』と『臭作』は表裏一体となっている。
実際、思想的にも両作は表裏一体である。『同級生』ではうまくすれば十人以上を同時に攻略できるとは第一章で説明したが、現実的に考えればそんなこと本当にありえるのかと思わずにはいられまい。実際にやっている人もいるのかもしれないが、そういう話を聞いて、「弱みを握って脅かしているんじゃないの?」と思わず邪推する人がいてもおかしくないだろう。そして、実際に「脅迫」という行動によって女の子を屈服させているのがまさに伊頭臭作なのである。恋愛というファンタジーによって女の子を脱がす純愛ゲームとは、一線を隠したリアリティがここにはある。しかし、単なる鬼畜ゲームではない(『177』のように単純ではない)のは、先述したような緻密なゲーム性によるところも非常に大きいが、『177』が単純かつ直接的な暴力(追いかけて押し倒す)だけで作品を構成しているのに対し、『臭作』の場合は、盗撮によって弱みを掴み、その弱みをネタにすることで相手に性暴力を振るうという二重の構造がある。これはまさに鬼畜的な合理性とでも言うべきもので、こちらはむしろ、女性の精神を屈服させることを目的とした節があり、その点で進化・あるいは円熟している(※25)。
ところで、実際にある作品がジャンルの円熟を示すものであるかどうかはそのジャンルが終わってみないことにははっきりしないところがあるが、『臭作』にその可能性が強く現れていることは間違いないと言える。なぜか。それは、『臭作』がメタ鬼畜ゲームだからである。
前置きから述べれば、そもそも臭作の行なう盗撮行動は、それによって女の子の脅迫を成功させるという点では行動の材料に過ぎないが、現実を思い出してみれば明らかである通り、盗撮自体を目的とする犯罪者も多く存在する。この写真や動画を集めるという主題は、鬼畜と全く関係のないアダルトゲームにも実は共通している。なぜならば、これも先述したことではあるが、初期のアダルトゲームは、そして大分それから後に至っても、ゲームの目的がご褒美としてのHシーンの収集にあったからだ。そしてその成果は多くの場合、スタート画面からアクセスできる「アルバム」モードによっていつでも再閲覧することができる。
この見立てはむしろ恋愛・純愛ゲームに対して深刻である。というのも、これをある別な現実のシミュレーションと考えるにおいては問題が生じないが、もしそうだと考えない場合、つまりプレイヤーと主人公を分割されたものと考える場合、プレイヤーはまさに神の視点を駆使した盗撮者になってしまうからだ(※26)。そのコンフリクトは物語が純愛であればあるほど激しくなる。恋愛の成就の果てにカップルがセックスに至ったとして、その様子をつぶさに眺めている「私」は何者なのだろうか。むしろみんな俺みたいなもんなんじゃねえの、と臭作は問いを突きつけている。
文=村上裕一
※22 より正確に言えば、美少女ゲームという風景以前に立ち戻ることをとりいそぎの目的としている本連載にとって、「風景」とは2000年代における印象、とりわけ内容的に言えばノベルゲーム的な印象に他ならない。鬼畜・凌辱ものが本連載にとって他者的、つまりそもそも知らないものになっているのは、ノベルゲーム的なものからこれらのジャンルが概ね外れているからだ。もちろん、完全に無関係ということもないのだが、それは話を錯綜させるので今は措いておこう。
※23 例えばゲーム冒頭で「1、こんな鬼畜な野郎には舌をかみ切らせる。2、わけがわからないので好きなようにさせる。3、こんなゲームはしたくないので電源を切り外へ遊びに行く」というような選択肢が提示される。
※24 そもそもエルフの処女作は『ドキドキシャッターチャンス!!』(1988)という学園盗撮ものであり、当初からこの手法が重要視されていたのが分かる。
※25 たとえばアトリエかぐやの『最終痴漢電車』シリーズも、情報収集で弱みを握るフェイズと、それを利用して電車内で痴漢をするというフェイズの二層から成り立っており、手法として一般化した様子が伺える。 またその副産物としてより知能犯的かつ計画的な、罪深い性犯罪になっていると考えることもできる。
※26 このコンフリクトを端的に表現した一例。「気づいてはいけないことに気づいたwwwwwwww:ハムスター速報」
11.07.30更新 |
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