Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第二章 地下の風景【1】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
筆者は第一章で「恋愛」という風景について取り上げた。それは、同じ恋愛というモチーフにも、当然のことながら内部的な差異があることを、ごく簡単にでも確認するためである。ノベルゲーム的なデザインと合流することによって、その思想はのちに大きな潮流を形成し、まさに風景を造り上げることとなる。とはいえ、そちらに進むことはまだできない。本論の目的がアダルトゲームの歴史的網羅的検証にあるわけではないとはいえ、まだあまりにも巨大な要素を放置しているからだ。それは鬼畜・凌辱ゲームの流れである。
鬼畜・凌辱ゲームとは何だろうか。それはアダルトゲームにとって最も重要なアイデンティティの一つである。ごく抽象的かつ暴力的にまとめれば、フィクションの中だけで許されるような反社会的・背徳的な妄想を描いたもの、と言えるだろう。それはしばしば社会通念や一般的道徳から逸脱した枠組みを描いている。goo辞書によると、鬼畜とは「鬼と畜生。転じて、残酷で、無慈悲な行いをする者」、そして凌辱とは「暴力で女性を犯すこと」である。恋愛・純愛ものと比較すれば、こちらのジャンルの黒々とした印象は明らかだろう。それゆえにでもあるのだろうが、鬼畜・凌辱ゲームはコアユーザーに支えられ、現在に至るまで堅実にシェアを守り続けている。しかし、やはりそのジャンルとしてのカラーの強さから、このタイプのゲームしかやらない、という人も多ければ、逆にこのタイプのものは絶対にやらない、というような色分けが比較的はっきりしている。確かに、高度に洗練された感動的ノベルゲームに耽溺しているファンが、人体改造を主眼とするような監禁型凌辱ゲームにのめり込んでいるとはなかなか考えにくい、というのは事実だろう。しかし、実際には鬼畜・凌辱ゲームも、それ以外のゲームも食わず嫌いせずにやるという勢力もいるわけだし、純愛と鬼畜をある種両立させている作品もあるわけであって、見た目の括りよりも複雑な内実があるのは間違いない。
さて本論としては、このような実態を明らかにすることにも意義はあるだろうが、とりあえずはこのある種の先入観を逆に利用することで、鬼畜・凌辱ゲームの輪郭がどうなっているのかを、いくつかの代表的固有名を取り上げることで確認していきたいと思う。
†不謹慎な欲望
現代の認識から振り返って果たしてこれを鬼畜・凌辱ゲームだと認定してしまっていいのかは謎だが、しかし明らかにそのようなコンセプトを持った作品として、よくも悪くも歴史に名を残しているのは、『177』(デービーソフト、1986)である。ゲームとしては二部構造になっており、前半(ACT.ONE)では『スーパーマリオブラザーズ』よろしくアクションが行われる。問題はその目的が逃げる女性を捕まえることにあるところだ。そう、これはレイプを目的としたゲームなのである。前半のアクションゲームに成功すると後半(ACT.TWO)はセックスシーンに突入する。そこではどのキーを押すかによって挿入時の腰の動きを操作することができ、それを巧みに操作することで相手の女性を自分より先に絶頂へ導くことが目的となる。しかし、何も知らずにこの説明を聞く人は、それも妙な話だ、と思うのではないだろうか。なぜ強姦目的の分際でそんなことを考えているのか。実は、自分よりも先に相手を満足させることができた場合、それによって強姦だったはずのものが和姦と認定され、なんと二人は結婚しハッピーエンドとなるというのだ。逆に失敗した場合、突如としてタイプライターで刑法の条文が打ち出される。
刑法 第百七十七条 強姦
暴行又ハ脅迫ヲ以て十三歳以上ノ婦女ヲ姦淫シタル者ハ強姦の罪ト為シ二年以上ノ有期懲役ニ処ス十三歳ニ満タザル婦女ヲ姦淫シタル者亦同ジ(※19)
暴行又ハ脅迫ヲ以て十三歳以上ノ婦女ヲ姦淫シタル者ハ強姦の罪ト為シ二年以上ノ有期懲役ニ処ス十三歳ニ満タザル婦女ヲ姦淫シタル者亦同ジ(※19)
ということでここで明らかになるのはこのゲームのタイトル『177』が強姦罪を示すものであるとともに、あつかましくも、強姦相手に快楽を与えることでなんとかセックスしつつもその罪科からは逃れようというのがこのゲームのミッションだという事実である。これは、相手を追い込むことにおいて徹底的な現代の鬼畜・凌辱ゲームから考えれば、むしろ手緩い仕立てであるとすら言うことができるかもしれないが、しかし、一九八六年というアダルトゲームの草創期においてすでに、逃げる相手を捕まえて押し倒すというモチーフがあった事実には注目しておいていいかもしれない。もちろん、官能小説やピンク映画、そしてエロ漫画などを顧みればむしろ強姦というモチーフはありふれたものかもしれないが、逆に、これがゲームなのだという点において別の重要性がある。例えば、見た目の類似から筆者は先ほど『スーパーマリオブラザーズ』の名前を挙げたが、こちらはラスボスとしてのクッパを倒し、ピーチ姫を救うことが目的のゲームである。つまり、極端に言えば、まるでクッパを倒すように、『177』では逃げる女性を倒している。これは、第一章で取り上げた、美少女がモンスター化している『カオスエンジェルズ』や『ドラゴンナイト\x87U』を思い出せば、モンスターを倒すように女性を捕まえたいという、男性の根源的な欲望の存在を示唆しているのかもしれない。
さて、極めて小ぶりなゲームである『177』について、例えば実際には前半において女性を捕まえることそのものが難しいことや、後半においても首尾よく相手を快楽に導くことが難しいといった、ゲームそのものの難易度を除けば、その内容についてはほとんど語ることがない。しかし、『177』が歴史に名を刻むことになったのは、むしろ内容においてのことではない。発売して一カ月後、公明党の政治家によって取り上げられ、衆議院の第107回国会において問題視されたこと(※20)によってこの作品は大きなトラウマとなることになった。
今となっては考えにくいことだが、メディアのレベルでもアンダーグラウンドだったパソコンゲーム業界は、当時は18禁のレイティング規制も存在せず、また業界内の自主規制団体も発足していなかった。単に『177』は規制と関係する最初の事例となってしまっただけであって、これに全ての問題が起因しているわけではないが、のちの宮崎勤による連続幼女誘拐殺人事件や、有害コミック騒動などと組み合わさることで、ポルノ表現に対する圧力が高まり、アダルトゲーム業界においては一九九一年において『沙織 ―美少女達の館―』(フェアリーテール、1991)を発売したメーカーが摘発される(※21)という一つの山場を迎えた。当該作品は、明らかに「強姦」をテーマにしている『177』と比較して、そして現状存在する同様のゲームと比較してそこまで過激だったかと言われれば疑問が残る。また重要な要素として無修正のわいせつ画像を掲載していたことがあるが、振り返ってみれば明らかに問題である画像の掲載も当時としては当該作品だけに限らなかったことを考えれば、むしろ『沙織』の事件は業界に対する象徴的制裁だったと受け取るべきだろう。この事件をきっかけにコンピュータソフトウェア倫理機構(ソフ倫)が設立され、概ね現在のアダルトゲーム業界の体制が出来上がった。
法規制とアダルトゲーム業界の緊張関係はそれからも継続し、1999年における児童ポルノ法の成立や、「非実在青少年」というキーワードで大きく問題化した東京都青少年保護育成条例の2010年における改正など、問題は現在進行形である。かような法規制は、女性への性暴力というよりもむしろ子供への性暴力の規制を問題にしているものだが、鬼畜・凌辱ゲームが襲う・襲われるという暴力の力学によって、つまり強者と弱者の関係によって成立していることを考えれば、同一線上の問題である(そんな風に考えずとも、直感的にそうだろう)。その点で『177』は、それを分析することが鬼畜・凌辱ゲームの内容に肉薄することそのものだとまでは言えないが、それを取り巻く環境を考える上では間違いなく重要なメルクマールであるだろう。
文=村上裕一
※19 2004年の刑法改正により、現在の法定刑は3年以上である。またこの改正時に、集団強姦罪が新設された。
※20 衆議院会議録情報 第107回国会 決算委員会 第1号
※21 1991年、京都府の男子中学生が当作品を万引きする事件が発生する。本文中の説明どおり、成人ゲームの影響を危惧する世論を受けて、同年11月25日、発売元のフェアリーテールと親会社のジャストへ家宅捜索が行なわれ、当時の代表が猥褻図画販売目的所持として逮捕された。
11.07.23更新 |
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