Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第二章 地下の風景【5】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
鬼畜ゲームをたった二作に代表させようというのも無理な話だが、我々はいくつかの共通点に直面している。それは『臭作』という作品がゲームのプレイ経験そのものの造りであったのと同様に、『悪夢』『絶望』の主人公である勝沼紳一もまたこの鬼畜行為そのものをゲームとして自覚していたことである。もちろん、二つのゲームは水準が異なる言葉である。ほとんど完全なメタフィクションである前者が自らが箱庭の中にいることへの意識を見せているのに対し、後者はあくまでもゲームである「かのように」振る舞っているのに過ぎない。しかし、「憑依」「死者」といった装置の存在は、機能的にはほとんどメタフィクションと同じである。そして、その二つの装置が互いに結びついて表現されている事実にこそ見るべきものがある。
『悪夢』での紳一はすでに説明した通り、不治の病魔に蝕まれたゆえの自暴自棄のような形でゲームを始めてしまう。この説明は、人がなぜ鬼畜行為を行なうかという問いに、ある種の精神的合理性を与えている。例えば紳一は財閥の御曹司であるため、金に不自由はなく、また通俗的なイメージを受け取る形で性格が悪い造形になっている。しかし、これだけでは鬼畜行為の肯定には恐らく至らない。なぜなら、金があれば犯罪を犯していいわけではないからだ。しかもこれは、金によって揉み消せばいいという話でもない。金は内面における納得を全て与えてくれるわけではないからだ。例えば、金を渡して女を買うというのならそれは売買春である。しかし、恐らくそれでは満たされない欲望が鬼畜行為には存在する。
とはいえ、ここでの問題は鬼畜行為の核となる欲望は何か、という問いではない。その欲望を合理的に描くための舞台装置がすでに『悪夢』にあったという事実である。このような演出はなぜ必要だったのか。もちろんそれはプレイヤーの作品に対する共感性を高めるためである。むろん、コアなユーザーに支えられているジャンルであるからには、そのような前置きなどいらないというプレイヤーもいるかもしれないが、極端に犯罪行為と結びつきやすいジャンルであるからこそ求められた演出であることは確かに思われる。
この『悪夢』の流れを引き継ぐ形で登場した『絶望』が幽霊の性犯罪を描いた内容であることは、物語だけを眺めていれば自明の展開にも思われる。というのも、前回の大々的な拉致監禁によって逮捕され死刑に処された主人公が再登場するにはどうしたらよいか、ということを考えれば、その解答として幽霊になって再来するというのは非常に筋が通っている。
しかし『絶望』は、物語上の要請でかような設定になっていることが明らかではあるものの、それ以上の機能を果たしてしまっているように思われる。
それは恐らく、鬼畜ゲームのある種の「容赦の無さ」(※27)が、死者の視座に由来していることを示してしまっている点である。『絶望』ではほとんどの鬼畜行為は、誰かに憑依した上でその人物の身体を操縦する形で行なわれる。つまり、鬼畜行為の理由が、極端にいえば「狐憑き」のようなものだと説明されていると見ていいのではないか。これは、二つの点で周到である。一つは、死者の操作によって行なわれている以上、それを現実の法によって縛ることができない点。もう一つは、死者の尺度から行なわれている以上、行為に際限がないという点である。実際には、『絶望』よりもさらに厳しい演出をするゲームもそれなりに存在する。例えば四肢切断、いわゆる「ダルマ」がその一つの典型である。こちらになると、単に鬼畜なのではなく、むしろサイケデリックであるとかカルト的であることが多く、純愛と鬼畜の二分法であれば鬼畜に分類するしかないかもしれないとはいえ、より繊細に見ていく必要がある分野であるのは間違いない。
話を戻すと、『絶望』はゲームの内部において鬼畜行為を正当化するロジックを作り上げている。それは、ゲームという虚構の虚構性を十全にするための工夫だと言えるだろう。ここにおいて、もし現実でゲームのように鬼畜行為を行なおうとすれば我々は死者になるしかない。もちろん、実際に鬼畜批判に対してこういう答弁をしたとしたら間抜けな話でしかないが、物語の論理として、そして、プレイヤーの心理的拘束を解き放つ仕組みとして、その見立ては確実に存在感を発揮している。
しかし、『臭作』はこれに背いている。というのもこちらは、プレイヤーこそが鬼畜行為の主体なのだという取り込みそのものを主題にしているからだ。そして、そのような形で現実に足をかけてしまったがゆえに、この作品は最終的に純愛化せざるを得なかった。逆にもしプレイヤーが臭作化を受け入れるのであれば、わざわざあしらったメタフィクション的意匠が二重に無意味になってしまう。ゲームの隠喩としての箱庭を設定してまで鬼畜行為の非現実性を設定した努力と、そうまでして保存しようとした人間性の在り処が失われてしまうということだ。
だが思い出して欲しいのだが『臭作』においては規定時間内の凌辱ミッションが完遂できない場合、臭作は死亡してしまう(※28)。しかし、ゲームプレイ上はその段階から何事もなかったかのように時間が巻き戻り、再度凌辱ミッションに挑むこととなる。従って、事実上これは、臭作という幽霊のような人物が妄執的に凌辱を完遂しようと試み続けている作品だと言ってよいはずだ。つまり、考え方によっては臭作もまた紳一と似通った立場にいる。この見立てを採用するのなら、後に判明する、あるいは冒頭から仄めかされているメタフィクション的な設定によって保持されていると思しき現実と虚構の区分、または鬼畜行為の正統性とでも言うべきものは、むしろやはり「死者の視座」によって基礎づけられていたのだと考えるべきではないか。
そして、それを前提にしているからこそ、『臭作』はプレイヤーの作中への取り込みと、作中からの脱出という展開を描くことができたのではないだろうか。というのも、キャラクターにとってなるほどプレイヤーも死者も一律「外部」あるいは「他者」と呼ぶことができるかもしれない一方で、我々からしてみれば死者とプレイヤーは全く異なった存在なのである。死者とプレイヤーの違いについての問題は、また別のジャンルにおいて前景化してくることになるだろう。
ところで、鬼畜ゲームとは単に死人が登場するゲームではない。むしろ性欲の圧倒的な顕現であるとどちらかといえば考えられる。したがって、「死」というよりは「生」ないしエロスに属するはずのジャンルとも言える鬼畜ゲームだが、しかし、少なくない数の作品が黒い闇のイメージとともに、肌色のみならず血の赤を纏うことがあるのは周知の通りだろう。これは、むしろ死に軸足を置く主体の介入によって、キャラクターの生=性が強調された結果なのだと考えることができるかもしれない。例えば『絶望』だけを取ってみれば、憑依した紳一が少女を暴行する際に、選択肢を間違うと、性器を噛み切られるという展開(※29)が起こるのである。ここで見るべきは、本来幽霊のはずの紳一も死に準ずるダメージを負うことや、徹底的な弱者としていたぶられているだけのはずの少女が非常に強力な抵抗を示しうるという事実である。ここには様々な水準で「生」が描かれている。少女たちは死んでいないからこそこの非人道的な扱いに抵抗するのだし、幽霊のはずの主体が傷つきいま一度死に瀕するということは、ゲームの過程で生がそこに引き寄せられていることを意味しているはずだ。それは、めぐりめぐってキャラクターの存在感の問題へと――それこそ『臭作』が直結してしまっていたように――恐らくは繋がっているのである。
文=村上裕一
※27 例えばご覧のように28人の人物を監禁してしまうのもまさに「容赦の無さ」だろう。これはいわば凌辱待機状態で、好きなように選んだ相手を嬲ることができる。ところで、凌辱されたヒロインはその度に服が脱げていき、最終的に裸になるのだが、この裸の状態というのはいわば廃人の状態である。そして、この状態のヒロインに対しては紳一が「憑依」可能であり、むしろその憑依によって新たな人物を「監禁」できるというようなフィードバックが生まれている。したがって『絶望』における凌辱は、むしろ『臭作』における盗撮に対応している。つまり、ある凌辱行為が別の凌辱行為の準備として正当化、あるいは必然化されているのである。
※28 ゲームのプレイ開始早々の選択肢からでも臭作は死に至るが、規定時間内のミッションが完遂できない際も臭作は死ぬことになる。画面は後者のケース。
※29 実際は上記の通り、性器を噛み切るだけでは飽き足らず、睾丸までもが指で握り潰される。朱色の画面の効果も充分で、まるで幻痛を呼び起こすかのようだ。
関連リンク
株式会社エルフ ホームページ
臭作 - アダルト美少女ゲーム - DMM.R18
Studio Mebius Official Web Site
メビウス暗黒パック
11.08.20更新 |
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