Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第七章 ノベル・ゲーム・未来―― 『魔法使いの夜』から考える【6】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
以上は主に形式面に着目しての分析であったが、この「本」としての表現という視点は、物語内容的に見ても隠喩的に連動していると考えられる。どういうことか。それは、本という表現が「近過去」に繋がっており、そして「近過去」という概念が奈須きのこの描く物語の美学として現われているということだ。
近過去とは、文字通りにとれば現在より少し前の時間軸のことであるが、ここで独特に込めたい意味合いは、それが我々に身近な現象であったにもかかわらずどこかズレているということだ(※111)。というのも、この過去は非常に微妙な認知限界領域に存在している。たとえば、今の30代は、1980年という時代にはすでに生まれていたことだろう。しかし、1980年という年なり時代を完全に把握していたわけではあるまい。我々の多くは、自分が生まれた時代というものを、事後的に、そのとき大人であった人物やその時代について描いた書籍なり映像なりを通じて知ることとなる。自分がそこにいたのにもかかわらず(※112)。ましてや、もし生まれる一年前のことであるとすれば、物理的にそこに存在していない以上、どんなに身近に見えようとも、体感上は知らないと言わざるを得ない。また、何らかの方法で当時のことを知ることができるにしても、本の形で表現された情報は大きな加工を経ているし、映像や当事者の伝聞にしてもそれがそのまま生の現実というわけではない。あるいは、ひどく荒唐無稽な出来事がさも実在したかのように描かれていたり、あるいは幼少時の自分が普通はありえないような超常的な経験をしたとしても、当時にタイムスリップすることはできないのだから、直感のレベルではそれらのものはあったかなかったか決定不可能であり、信じるか否かという信仰の水準に漂うしかない。即ち、近過去は、それ自体が虚構と現実の狭間、一種のグレーゾーンである。
『魔法使いの夜』の物語はいくつもの水準で、このゾーンにおいてこそ描かれるべきものとして現われている。たとえば、主人公たちは「坂の上にあるお屋敷には、2人の魔女が住んでいる」という噂の対象であった。噂というよりも都市伝説といったほうが正確だろうこの言説は、まさに近過去的領域に息づくものである。そもそも、生真面目に魔女や魔法について考えるのなら、むしろこのような雰囲気はこれらの対象を描く上で必須のものだろう。衒いなく魔女や魔法を描くなら、それは単なるフィクションである。
実際、彼女たちの内面的設定もそのような雰囲気と連動している。たとえば、主人公の片割れであるもう一人の魔女・久遠寺有珠は「最後の魔女」とも称されている。この設定は、次に言う設定との兼ね合いによって、独特の臨場感を帯びることとなる。その設定とは、本作の時代設定が1980年代後半だということである。ということは、30年前に現役の最後の魔女がいたのだということを暗に仄めかしているということだ。もちろん、2010年代に生きる我々は、まさか現代に魔女がいるなどということを容易に信じたりはしないし、そういうことなら連れてきてみよ、とも思うだろう。しかし、30年前であれば話は異なってくる。その時代には遡ることはできないし、単に遡行不可能という以上に、「昔」という性質によって、あったかもしれないという感覚を惹起させられる。もちろん、この物語はフィクションである。そんなことはあったはずがない。しかし、では他のどのようなことが30年前にあったというのか。近過去の時制では、細部に謎めいた雰囲気が宿り続ける。
さらに補足するなら、1980年代後半という設定が、ちょうど昭和と平成の境目ぐらいに位置しているという事実が重要である。これはまさに作品を時代の狭間に位置づけようとしているのであり、一種の逢魔が時としての機能を持たされている。むろん、昭和を魔術と虚構の時代とし、平成を科学と現実の時代などといったら極端にすぎるのかもしれない。しかし、ほとんどそれに近い見立てのもとに、あくまでもその淡いを狙って『魔法使いの夜』が召喚されているのはもはや自明にすら思われる。
そもそも、本作の主要人物の多くは、本作から何年何十年か後の話という設定で、すでに別作品で重要な役割を担って登場している。たとえば『月姫』における青子は主人公の心情的な師匠を、『空の境界』における橙子もまた主人公の一種の後見人的な役割を担っている。したがって、こちらをメインとして考えるのであれば、『魔法使いの夜』の物語は彼女たちの失われた過去である。過去をたぐるという行為のメタファーが「本と読書」に託されているということは言うまでもない。
まとめると、本作は、本に近過去の時間感覚を託し、魔術的なものが自然とぎりぎりで調和していた時代の最後の消え入り時というものを、それをプレイする我々にとっても消え入りそうな約三十年前の風景の記憶と重ね合わせることによって描き出そうとしていた。なるほど、魔法とは現代人にとっては単なるフィクションだろう。しかし、かつて生きたかもしれないがもはや本などの記録によってしか思い出すことができない近未来ならぬ近過去の記憶と重ねあわせれば、その認知限界における詐術によって、魔法というものにリアリティを与えることが可能になる。本という表現は、本質的には過去に連なっている。童話の魔女が活躍するような物語は、まさに昔話(メルヘン)の表象として本を召喚している。しかし、それだけに留まらず、現実に隣接するフィクションの想像力への橋渡しとしても本を機能させているのが本作ならびに奈須きのこという作家の特徴だと言えるだろう(※113)。
文=村上裕一
※111 この言葉は基本的に筆者の造語である。いちおう、たとえばイタリア語文法に存在している時制ではあるが、それ以上の意味合いで言説的に流通しているものではない。他方で近未来という言葉にはジャンル的な重力がまとわりついた上で強い存在感があることは衆目の一致するところだろう。
※112 たとえば、リニューアル版の『痕』にはそういう演出が見られた。
※113 だとすれば、本作以外において、または本というモチーフ抜きにして、それは具体的にどう描かれているか。これは『魔法使いの夜』の論述から大きく逸脱するためここではわずかにしか触れることができないが、例えば『月姫』における琥珀ルートの「殺人鬼の語らい」が上げられる。ここでは、他ルートでは主人公とボスキャラとして激闘を繰り広げるはずの志貴と四季が、立ち絵一つ出ぬままコーヒーを飲みながら殺人について語り合い、いつのまにか殺人鬼としての格が決定し四季が街を去るという展開が描かれる。このシーンには全体として謎のノスタルジーがある。その理由は主に三つで、このルートでは四季を早々にフェードアウトさせねばならなかったため、演出方針そのものが一種のアクロバットとして、つまり「ありえない」展開として描かれているということ。一つは、このシーンに限って、幼馴染であった二人がまるでその失われたはずの当時に戻ったかのような気安さで会話しているということ。そして最後は、このシーン自体が投薬によって朦朧とした意識の志貴を中心に描かれているため、あたかも夢のように見えるということである。さらに強いて言うならば、プレイヤーは四季については他のルートで十分に知識を蓄えており、そのゲーム外の認識を支えにして、妙に爽やかで短時間なこの「語らい」が成立しているということも、ノベルゲームの手法的には重要である。
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12.06.10更新 |
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