Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第七章 ノベル・ゲーム・未来―― 『魔法使いの夜』から考える【5】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
『魔法使いの夜』は、本であることを非常に強く意識した作りになっている。全画面にテキストが表示される本作のようなタイプのノベルゲームの場合、特に、クリック待ちに対してページ送りという概念があるため、もともと本らしい演出になっているのだが、ここではさらにそれが強まっている。
これはまさに常に画像を動かしていようという意識――ここでは「秒化」と呼んでおこう――によるものである。当然のことながら文章が細かく切り替わるのに対して、紙芝居とは言われても、実は言うほど画面が切り替わらなかったのが従来のノベルゲームだった。特に、背景に関して言えばかなり長い間同じ画面に滞在しがちだった。しかしすでに確認してきた通り、本作は非常に多様な画像の表現を行なっている。
しかしそれは動画のそれとはどこか異なる、不連続な運動だった。この不連続な感じは、自然な速度で本を読んでいるときに、見開きのページが切り替わるタイミングのリズムだ、と考えると符号するところがある。もちろん、高速でパラパラマンガのように動かせば文字通り動画となるわけだが、それは自然な読書ではない。漫画に近いとも言えるが、漫画の進行単位はコマ割りであるから、もっと――独自の形ではあるが――連続的なものである。ノベルゲームにおいて(イベント)ビジュアルとは増量された挿絵に他ならないが、恋愛ゲーム・アダルトゲームであるところの美少女ゲームの強い重力によって、しばしばビジュアルはご褒美画像として定義されていた。しかし、もちろん見せ場が存在するにしても、通常時画面とご褒美画面の違いがかなりの程度で無化されているのが、立ち絵的構図が解体された本作の表現手法だった。
本の中でもとりわけ小説は、別に挿絵が入ることを前提にして書かれているわけではない。しかし、もし緻密に挿絵を設定するとすれば、それこそ漫画におけるコマに当たるような情景単位があると推測できる。その情景単位とは、場所の同一性や、感情の同一性や、行動の同一性など、様々な水準での同一性によって計られる。ゲーム的に言えば、場所が同じであるなら同じ背景でよく、感情が同じなら同じ表情でよく、行動が同じなら一枚のイベント絵でよい、といった形である。もちろん、コマ割りを与えるべき細かな機微も存在するから、繊細さを追求すればこの単位はどんどん小さく刻まれてゆく。現実の運用ではそれでは細かすぎる。しかし、一般的に付与されている挿絵の数では、情景を表現するには少なすぎる。そうなったとき、合理的な挿絵の転換タイミングは、まさに見開きの切り替わりであると考えられる。実際にめくってみれば分かる通り、そこでは画面が一新されるからだ。本作では、かなり細やかに情景単位に合わせて絵が切り替わっている。そのような、ビジュアルがノベルと協調している点をもって、ビジュアルノベルという言葉はまさに本作のためにある、と言っても過言ではないだろう。
さらに補足すれば、単純に素材のレベルにおいて、本作で用いられる画像が非常に美麗であるということも、かようなゲームの「本」としての在り方に寄与している。このことは二つの視点から説明できる。一つはイメージのレベルにおいて、繊細で書き込みの深い美しい絵というものが、まさに本という平面の内部へとプレイヤーを導く魅力的な誘惑となっている、ということだ。ことによっては人物よりも風景画の方が魅力的であるとすら言ってしまってもよいだろう。逆に言えば、人物もまた風景の一部として美しく描かれているとも言えよう。もう一つは情報量の多さとしての解像度の高さである。前述の通り、本作ではズーミング・プレゼンテーションの技法がかなり積極的に用いられている。ということは、全体としても目を引く絵が、その部分を拡大表示したときも同程度に魅力的でなければならないはずだ。事実そうなっているのであって、それは妥協のない描き込みの賜物なのである。
†文字表現の視覚介入
本としてのイメージを伝える上でもう一つ重要なのが文字表現である。実際、これは小説とも共有している条件だが、文章とは、読者=プレイヤーがずっと目にし続けている、し続けなければならない表象である。したがって、ビジュアルノベルであることを追求する本作においては、まさにそれは絵の問題として考えられなければならないし、事実そうなっている。
その実践として、まず単純に重要なのは、本作では、今読んでいるところ以外の文章が薄暗く後退し、読んでいる文章がまるで光っているように映ることだ。これは前述の秒化とも強く共振する演出であって、単純に読みやすいだけではなく、読書している際のプレイヤーの目の動きを可視化しているだけであるのにもかかわらず、紙の本には不可能な形で、読書に動きを与えているのである。こういう仕組みは、いつでも誰かが思いついてよかったものだったが、地味にこれまでのノベルゲームでは実装されてこなかった。
もちろん、文章そのものを動かすというような、これまた本には不可能な演出も行なわれている。たとえば、本作では魔術を行使するにあたって呪文を詠唱するシーンが登場するのだが、そこではまるで言葉が泳いでいるかのように動いていた(※108)。こういったシーンにおいて、直接文字を振動させるというようなことは、これまた誰しもが夢想した演出だろうが、実際に用いた例はそこまで多くなかった。(※109)。
また、それ以前の問題として、フォントの選択やレイアウトに気を遣っていることにも注目せねばならない。これは筆者の所感だが、本作をプレイし始めて最初の印象はフォントが独特だ、ということだった。明朝体ではあるのだが、他にはないような尖り方をした字体である(※110)。感覚的に言えばピーキーで過敏な見た目だ。それはまさに描かれる対象たる蒼崎青子の性格や運命を体現しているかのようで、非常に示唆的だった。このような文章が、画像表現のリズムと協調しながら、ある意味においては画像の邪魔をしないように(そして画像が文章を邪魔しないように)、一ページにはあまり文章を表示して敷き詰めたりしないようにしつつ、そもそも表示される部位そのものを少し狭く限定するなどの作業がなされている。このことによる差異は『月姫』『Fate/stay night』と比較すれば一目瞭然である。
文=村上裕一
※108 奈須きのこは、文章による視覚演出に対して非常に気を配る作家である。このことは『ビジュアルノベルの星霜圏』所収の鼎談でも語っている。「ビジュアルノベルというのは文字のバランスと演出のタイミングも含めて「ひとつの絵」として成立させるものなんだということです。ただ文章を流すだけじゃないからこそ美しい」(19ページ)。たとえば、もちろん魔術設定上のものではあるのだが、呪文詠唱に英語やドイツ語を用いることには、日常の言葉と魔法の言葉を視覚のレベルで区別する効果がある。こういう営みを奈須が小説ですでに行なっていたことを考えれば、むしろこれは文体演出の一環であると考えたほうがよいだろう。実際、魔法が登場するライトノベルは多いが、その詠唱を日本語以外で書いている作品はそこまで多くない。
※109 たとえば、リニューアル版の『痕』にはそういう演出が見られた。
※110 土屋つかさ氏の調査によると「筑紫明朝D」ではないかとのこと。
http://d.hatena.ne.jp/t_tutiya/20120313/1331647952
関連リンク
TYPE-MOON Official Web Site
http://www.typemoon.com/
12.06.03更新 |
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