Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第七章 ノベル・ゲーム・未来―― 『魔法使いの夜』から考える【4】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
『魔法使いの夜』の表現について考えるとき、もう一つ重要なのは画像の運動である。
これは実に微妙な事態である。というのも本作の動画は普通の動画ではないからだ。動画ではあっても、アニメ・映像・映画ではない、と言ったニュアンスだろうか。これは、プリミティブなアニメとしての、パラパラマンガを想定してみれば理解しやすいだろう。アニメーションの動きというものは、まさにレイヤーの枚数によって支えられているのである。ところが先刻の説明どおり、従来のノベルゲームというものでは、このレイヤー枚数が三枚前後に規定されていた。従って、そういった意味ではそもそもアニメーションになりようがないのである。
だから動画を扱おうとしたらそのまま取り込むしかなかった。もちろん、ノベルゲームエンジンは映像を搭載できても、映像を直接操作・編集したりするようなツールではない。それはあくまでも二次的な対応であり、ノベルゲームにとって本質的な問題は、まず静的な画像とどういう関係を取り結ぶかにこそあった(※103)。
このラディカルな形がいわゆる「静止画MAD」の潮流であった。しかし、「MAD」は動画である。静止画しか用いられないとはいえ、自動的に流れる時間の中で絵が描かれる点で、クリック待ちや行組み、ページの概念が確固たる前提として存在するノベルゲームとは異なる規則に従っていることは明らかだった(※104)。
ゆえに紙芝居(※105)。そうであって自然なのだ――という同調圧力のようなものに、本作は全力で抵抗しようとしている。その妄執は病的、というか秒的である。この作品をプレイして誰もがすぐに気づく感触は、常に画面が動いている、ということだ(※106)。たとえば以下の表現などは非常に目新しい。
これは同じ画面なのだが、その中で青子のシルエットが左から右へ後退していき、していくごとに影が赤く染まっていくという演出である。重要なのはクリック待ちなのにお構いなく動いているということだ。この人影は最後には画面から見切れてしまう。アイキャッチとしての機能を持たされているから、という側面はあるのだが、しかしこの演出が与える印象は強い。
常時、これとすっかり同じ演出がされているわけではない。しかし、このような方針が常に張り巡らされているのは確かだろう。特に第一章に顕著だが、あたかも一ページごとに背景が切り替わるような調子で画面が動いていく。切り替わらなければ切り替わらないで画面演出がどこかしら蠢いている。そもそも、読み終わったフォントが薄暗く消灯するという、読みやすさのための工夫が、静的な画面に動きを与えている。そして、その動きはおそらく、デフォルト設定でオートリード機能をオンにしたときに最適であるような設計が為されている。
ここで本作は、ノベルゲームの論理からスタートして自動的に読み進めることを前提とする段階に至っている。それは、自動的な進行という点で映画やアニメと同じ持続を共有している。ゆえに、この作品をプレイするものは、いかにこれがそれらと異なった経験であるかを痛感するだろう。
何が違うのか。映画の連続性はカメラが担保するのに対し、ノベルゲームの連続性は文章が担保するからである。従って、もし本作から文章を抜けば、連続性の低い画像のまとまりだけしか発見できないだろう。パラパラマンガではなく、スライドショーのような(※107)。
これは、別な事実を示してもいる。従来のノベルゲームに比べれば多くの素材を投入し情報量を増やしている本作ではあるが、しかし、空間の継ぎ接ぎを全て補填するような仕立てにはなっていない。これは、例えば『CHAOS;HEAD』(2008, 5pb.)がノベルゲームであるにもかかわらずしばしばそうしていたように、3D技術を援用して立体的な連続性を示すこともできたのに、そうはしなかったということを意味している。もちろんそれは、視覚の優位ではなく、文章の優位を示すための手法である。
しかし、その制限の中にある奥行きの存在感を無視することはできないだろう。本作の静止画は、レイヤーの多さを支えるためにか、非常に精緻に美しく、比喩的に言えば、解像度高く描かれている。力を抜いたおざなりな背景がほとんどなく、どれもが逸話を内包しているがごとき風景画として存在している。もし3Dによる立体感が、外への延長による拡張であるのだとすれば、本作はむしろ内への潜行による深化である。
それは恐らく、『魔法使いの夜』のひとつひとつの物語が、「本」のメタファーに支えられていることからも知ることができる。タイトルメニューのエクストラから、シーン回想であるところの「Archive」を覗いてみよう。するとそこには、まさに表題どおりに、整頓された本が並んでいる。そして物語は、本をめくると現われる平面の、その中に展開しているのだ。
文=村上裕一
※103 とはいえ、ノベルゲームが早い段階で動画形式のファイルを取り扱えるようになったことには大きな意味があると言える。というのも、ゲームと映画の違いが、ある意味、象徴的にここに現われているからだ。実際には様々な工程と加工を経ている映画だが、そのテクストとも映画体とも言えるべき作品実体は、スクリーンの表層においてあたかも生の現実感を伴って現前する。むろん、フィルムが「一連」のものである以上、シーケンシャルに添って分割することは可能である。他方、映像をあたかもノベルゲームのように後景・中景・前景に分割することは、不可能ではないが、必然的ではない。カメラワークは、任意の時空間を切り取るという点では恣意的だが、注意力の濃淡において実際には見えるものをかなり制限している人間の視野とは異なり、光学的にある範囲の風景を切り取ってしまうという点で自然的である。映画は画面の中を外科手術を行なうようにはいじることができない。だが、既に説明の通り、従来のノベルゲームにはそこに生真面目なレイヤーが存在している。この生真面目さは、まさにプログラミング志向のなせる技で、交換を行なうためには関数がそもそも設定されていなければならない。手術の比喩で言えば、人体構造は変わらず存在していて、映画はどの構造のどこに注目するかを問題とし、ゲームは構造の中の部分を何とどう交換するかを問題とする。この発想はプラグイン的な拡張を含意している。ノベルゲームは途中で格闘ゲームやシミュレーションゲームと合流することができるし、オープニングでもないのに動画演出を挟むことができる(こういう場合むしろノベル部分が主従で言えば従的に扱われるが)。しかし、映画やアニメではもちろんそういうことはできない。
※104 静止画MADは、ノベルゲームが頑張って動画のように振舞ったもの、とも考えられる。実態は逆さまだが、実感はそうであろう。自動的ではないが、進行を内包した画面をノベルゲームは構成している。しかし、ノベルゲームは、全ての局面が輪切りにされて、まるで常時ビデオの一時停止が押されているような表現になっている。もしもこれが映像上の出来事だとしたら、こんなにおかしなことはないのではないか。
※105 パラパラマンガを例に出したが、これは要するにもの凄く枚数の多い紙芝居と言えるだろう。
※106 そして、画面こそ動いていないものの、BGMによって持続というものが流れていることを、ノベルゲームは常に表現してきた。だから音楽が途絶えると物語は「緊張」するのである。
※107 後述されるが、これはいかに本作が文章に奉仕すべく演出を重ねているかを示している。ただし、もっぱら文章よりも映像のほうが映えるような戦闘シーンでは、コストを欠けて表現しているのも本作の特徴である。たとえば下記の画像では青子の白いシルエットと手前の瓦礫などが微動し続けることによって、戦闘の臨場感を表現している。さらに、魔方陣の展開やレーザー状の放射光などといった効果の表現はほとんど動画さながらの演出となっている。
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12.05.27更新 |
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