Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第七章 ノベル・ゲーム・未来―― 『魔法使いの夜』から考える【3】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
何の変哲もない日常のシーンだが、なぜか左の三分の一が暗くなっている。合理的な理由としては、教室の引き戸周辺から見える風景を再現しているからである。構図が固まっている美少女ゲームでは、このタイプのリアリズムはあまり考慮されてこなかった(※96)。
とはいえ、別にこの事例は、本作がさもFPS的なリアリズムを内面化し始めたのだ、などということを意味するわけではない。単に、認識のくびきから解放されて、そういうことも表現できるようになったというだけである(※97)。実際、従来の美少女ゲームにあったような全画面の背景もそれなりに登場する。他方で、立ち絵を前提にしない様々な(背景ではなく)風景の画像が大きな存在感を持っているということも強調せねばならないだろう。
立ち絵を前提にしない、と言った。その観点からもう一つ取り上げたいのはカットインの表現である。
カットインという手法は、美少女ゲームにおいて何も今始めて現れたわけではない。しかし、リトルウィッチにおけるFFDシステムのような例外を除けば、格闘ゲームにおいて超必殺技が放たれる際に生じる演出効果のような、効果音的な使用に留まるものだった(※98)。しかし、立ち絵中心主義的な構図から解放された『魔法使いの夜』においては、むしろカットインは物語の必要に応じて導入される自然な演出として機能している。たとえば、この画像は、奥にいる有珠に対して向かい合っている青子たちを同時に表現するための手法の結果として、つまり、二つの風景を接合する目的で構成されている。こういう構図は、かつては画面を縦に分割して、距離を隔てた人物の顔を左と右に配置して、さも近くにいるように描くことで対戦の臨場感を盛り上げるものとして存在していた。しかしそれは、テレビにおける同時中継の発想の延長であり、映画的なリアリズムの産物であった。本作は、あくまでもそちらではなく、ノベルゲームのリアリズムにおいて表現を思考している。
言うなれば、ここでは背景の立ち絵化が進んでいる。より正確には、画像の自由化が進んでいる、というべきだろう。固定的で下地としてべたっと貼り付けられたものとして背景を考えるのではなく、もっと可塑的な画像として、かつて立ち絵がそうであったかのように多様に用いていこうという態度である。
画像の自由化を体現する可塑的な使用――。これは、恐らく二つの技法に基礎付けられている。一つはトリミングである。周知の通り、トリミングとは画像処理において一部分だけを切り出すことだ。本作ではこの技法が縦横無尽に使われている(上記画像参照)。すでに登場した風景の切り出しもそうだし、イベント絵の一部分を強調することであたかも立ち絵のように振舞わせるような表現も、この技法によるものである(※99)。もう一つの技法がズーミングである。ズームとはある部分を拡大表示することだ。トリミングとかなり共通している部分があるのだが、ズーミングが重要なのは、その映像が部分となっている全体が存在しているということだ。つまり、単に拡大されているばかりでなく、縮小され通常状態に戻ることで、即ち、最初に表示している部分から連続的に視点がズレていくことによって、動きが表現されるということである(※100)。このような表現の技法をそれぞれ、トリミング・プレゼンテーション/ズーミング・プレゼンテーションと呼んでおこう(※101)。
とりわけズーミング・プレゼンテーションの存在は本項の議論においては有用である。というのも、一枚の絵の中で視点が変化するということの重要性が強調されているということは、それ自体が立ち絵的構図からの脱却を遂行的に示唆しているからである。レイヤーによる画面構成は、レイヤー要素を切り替えることによって多様な組み合わせを作り出すことを可能にした。その構成をプログラムが行っているという点で、本質的にはむしろ先進的であった。それに比べて、むしろズーミング・プレゼンテーションの方が、ある意味からすれば紙芝居的であるのかもしれない。一枚の絵を見せて、この部分に注目してください、と指で示すようなことを、単にデジタルツールの力で滑らかにしているだけだからだ。しかし、もちろんそのデジタルツールによるエンパワーが全く舐めたものではない、という事実もさることながら、一枚の絵における視点変化によって表現を演出しているという事実それ自体が、立ち絵のような発想を無化し、逆説的に新しい見方を提示しているのである(※102)。そう、まさに『魔法使いの夜』の営みは、背景から風景へのパラダイム移行として捉えられるべきである。
文=村上裕一
※96 たとえば応用として、下記のような使われ方もあった。 これは、視線の動きに合わせて見えるシーンが一つの画面の中で切り替わっていく、という動画的手法である。重要なのは、実際に視点人物が上記のような形で歩いているのではないということだ。ここでは、布団の中でまどろんでいる青子が、鳴り響いている電話のうるささに、有珠に変わりに出て欲しがっているのだが、その有珠が家のどこにいるのか分からない――ということを表現するために、こういう演出となっている。
※97 しかし、FPS的なリアリズムはないが、文字表象にアイデンティティを託すノベルゲーム的なリアリズムには忠実である。これは後述される内容とリンクしているが、たとえば、画面・背景の左側が黒くなっていることで、左から右へ向かって表示される文章というものが、かなり読みやすくなっている。こういう、文章を読むという経験を引き立てるために、本作の様々な演出は工夫を凝らしている。
※98 FFDとは「フローティングフレームディレクター」システムの略である。 全てのCGをコマとして解釈することで、一種の先進的なコミック的表現を成立させ、美少女ゲームのインターフェイスの進化に大きな役割を果たしたが、大局的に見れば、開発元のリトルウィッチを除き、『魔法使いの夜』までこの流れはほとんど受け継がれていなかった。そして、結果的に自由なFFD的表象が存在しているとはいえ、そこへ至るまでのロジックは大きく異なっていると言えよう。FFDは画像=平面優位だが、TYPE-MOONの演出は文章ないし作品=立体優位である。
※99 この技法はすでに『Fate/stay night』の頃からある。たとえば以下のようなケース。英霊エミヤは無数の武器を召還できるが、無数の武器の差分を作ることはたいへんなコストである。そこで、あるイベント絵のうち、片腕部分だけをトリミングして裁ち落としてしまい、その見えない部分に新しい様々な武器が持たれているのだ、という風にしていた。この時点では素材の少なさを補うための消極的使用だったが、『魔法使いの夜』においては積極的な演出へと態度が切り替わっている。
※100 zoomingがmovingを意図する、とでもいうところだろうか。この事実は、これまた後述される動的表現の部分とも関わってくる。
※101 ズーミング・プレゼンテーションは実際にプレゼンの手法として存在する言葉で、Preziというツールを用いることで気軽に採用できるようになっている。
※102 たとえば鎌倉時代の絵巻物である『伴大納言絵詞』では、一枚の紙に描かれた絵に三つのシーンを表現した「異時同図法」という手法が使われている。これは、視点の移動が時間の変化を表現しうることを示した例として考えることができるだろう。本作では、ほとんど映像さながらに動画も動くのだが、それと同時に、静画に対してプレイヤーの目を動かさせることによって運動を表現するような、両面的な作戦が展開している。
関連リンク
TYPE-MOON Official Web Site
http://www.typemoon.com/
12.05.20更新 |
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