Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第七章 ノベル・ゲーム・未来―― 『魔法使いの夜』から考える【2】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
実際、『魔法使いの夜』はそのような作品として我々の前に現われていると言える。では、具体的にそれはどのような形で現われているのか。
もっとも重要なのは、画像表現の進化である。この進化は、非常に総合的で、まさにノベルゲームから出発して映画的なものに至った、とでも説明されるべき代物である。それゆえに、従来のノベルゲームの発想を超越しているのだが、他方で、ノベルゲームからの延長線上に生まれたがゆえに、映画そのものでもなくなっている。この事実は、表裏一体のものである。『魔法使いの夜』は、単純にはノベルゲームとも映画とも言いがたい。
作品がそういう印象を与えるのは、まずもって、画像の取り扱い方がこれまでのノベルゲームと大きく異なっているからである。
一般的なノベルゲームでは、画像は、主に以下の三つの役割しか持たない(※93)。
・立ち絵(画面中央に表示されるバストアップ画像)
・背景
・イベント絵
それゆえに、これらの認識枠組はノベルゲームの基本的論理としても機能していた。それが現在に至るまで踏襲されていることは例えば最新のヒット作である『WHITE ALBUM2』(Leaf, 2011)などのインターフェイスからも明らかである。
これが基本的な論理だというからには、応用はここから派生するものとして起こる。例えば、画面に立ち絵が存在しているとはいえ、左右には空間があるのだから、仮に表示場所を左右にズラせば、二人三人と表示することができるのではないか。また、一人の立ち絵を、右から左へスライドするような動きをさせれば、それによって運動を表現できるのではないか、などといったように。
もちろん、このような応用の発想は、それと同時に制限でもある。たとえば、立ち絵の発想では足元を描くことができない。遠近法との相性が決定的に悪い。背景は一枚の絵である以上、一枚しか画面に表示することができない。イベント絵も同様。ということは、イベント絵と背景絵、それと立ち絵は共存することができない……など。
ところが、『魔法使いの夜』においては、こういう基本単位がほとんど放棄されている。そして、その放棄によって極めて多様な経験が可能になった。逆に言えば、上記基本単位は、いわば効率のよいノベルゲーム作成のために洗練されてきた方法論であるため、それを放棄するということは、必然的にリソースを投下して贅沢な演出にならざるをえない、ということも意味していた。
本作には、基本的な画面構成と言えるものがほとんどない。特に、キャラクターが表示されている場合、極めて自由自在に、様々な角度から描かれている。その中で、従来のものに比較的近いだろうカットを取り出すとたとえばこのようなものがある。
見れば分かるように奥行きの存在する構図で、左手と右手の人物では、表示サイズが異なっている。一般的なノベルゲームの規則に則れば、これはイベント絵に該当するものである。しかし、本連載でも述べてきたように、イベント絵は一般的に見せ場やエッチシーンなど「ご褒美」に相当するものだった。その観点から言えばこれは明らかにイベント絵ではない。実際、本作に限ってみてもこの絵は全く見せ場ではない。その証明として、この絵はCG modeでは表示されない。
CG modeに収録されていない、という極めて明解な指標があることはたいへん幸運だったが、仮にそれがなくとも、ノベルゲームに詳しい向きなら、この絵に少し注目すれば、イベント画ではなくて通常シーンであるということはある程度すぐに分かるだろう。というのも、右手にいる男子は、縮小表示されたものだからだ。その縮小という操作は、立ち絵という単位を前提にして行なわれるのである(※94)。立ち絵とイベント絵の違いとは、前者が、いくつかの絵をパーツにしてプログラムが随時画面を構成するものであるのに対し、後者は基本的に絵描きがその絵を仕上げた時点で画面が構成されているということだ、と言える。
重要なのは、プログラムによる構成と、イラストレーションによる構成という二つの方法論が混ざっているにもかかわらず、前者が後者を目指しているということである。先ほどの画面で言えば、従来のノベルゲーム的な構図になることを避け、むしろイベント絵的な表象化がされるように、仕上げに工夫がされているということだ。表示させた立ち絵は、もともとの背景に組み込まれているわけではない以上、どうしても浮き上がって見えてしまう。これは、実写においてはめ込み合成をされた映像を見ているときに感じる違和感と同じものである。そのような違和感を可能な限り消し去る努力が本作ではなされている。
このような違和感を消し去る努力というのは、単に表示の際のテクスチャを調整する、というようなことばかりには留まらない。
立ち絵概念がなぜ基本単位なのかと言えば、仮にそれが表示されていなくとも、透明な構成単位がかなりはっきりと前提にされているからだ。それはまさに後景(背景)と前景(立ち絵)というような基礎構成単位として確定的に存在している。その単位が存在することにはどのような効果があるか。それは、視座のインターフェイスが固定化されるということだ。カメラワークが固定化されている、と言い換えてもよい。繰り返し同じ論理の画面に触れ合うことによって、プレイヤーのその作品に対する触れ合い方そのものが馴致されていく(※95)。
このような馴致の構造はもちろん自明ではない。それは、本作も採用しているゲームエンジンであるところの吉里吉里を運用してみればある程度簡単に理解することができる。吉里吉里というエンジンは、TJSというスクリプト言語の上に書かれたKAGというスクリプトを解釈する、という形になっているため、TJSなどを通じて根本的な構造が見えるようになっている。その視点からすれば、我々の論理から言えば立ち絵/背景という関係になっているものは、単にレイヤー1/レイヤー2という関係でしかない。さらに言えば、我々にとってはレイヤーが二枚あれば用を成すものとして自明に思えても、吉里吉里にとってはそうではなく、そもそも何枚のレイヤーを使うのか、から定義しなければならないということも意味している。DNMLやNScripterといった別のエンジンは、この自明ではないものを一種のマクロとしてテンプレート化することで、ユーザーの実感に即したゲーム作りをサポートする仕組みになっていたわけである。それは、効率的な環境を提供するのと同時に、基本枠組からの逸脱を強く制限していた。
話を戻すが、ということは、先ほどの画像において、左手をレイヤー1、右手をレイヤー2、背景をレイヤー3とでも定義して、この3すくみの関係が基本的視座だと誤解されては困るのである。実際、作品は決してそういうことを許していない。以下の画像を見て欲しい。
こちらも三層構造にはなっているが、それが前述の画像と同じ距離関係になっていないことが分かるだろうか。もし二つのものを合体させれば、背景だけは共通だが人物はみな違う場所に立っているということで、5枚のレイヤーが挟まれていることが分かるだろう。
文=村上裕一
※93 付け加えるなら、言わば「その他」として、小物の絵やカットイン表現などの演出素材が存在する。
※94 実際、すでに2003年の『マブラヴ』などにおいても、立ち絵を縮小することによる奥行きの表現はなされていたし、もっとさかのぼれば、2000年前後に隆盛した静止画MADの世界では、オリジナルの素材を使って動画を再構成するしかなかったため、このような手法による表現の探求はすでに行なわれていた。
※95 これは育成シミュレーションの発想に恐らく起因している。目の前の女の子に対して指示を与え、それによってパラメータが変化するという行動の関係に最適化された構図が、育成シミュレーション、恋愛アドベンチャー、そして広義のノベルゲームに採用された、立ち絵を基本とする画面構成である。
関連リンク
TYPE-MOON Official Web Site
http://www.typemoon.com/
12.05.13更新 |
WEBスナイパー
>
美少女ゲームの哲学
|
|