Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第七章 ノベル・ゲーム・未来――『魔法使いの夜』から考える【1】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
†触媒としての要素
ノベルゲームというシステム形式に対して、ある固有の物語の磁場を導入すると、美少女ゲームになる。それがどういう磁場だったかは既に確認した通りだが、たとえばそれはヒロインの優越であり、あるいはそれはシステムを内面化したキャラクターの登場であったりした。このジャンルがそういう独特の進化を遂げたのは、アダルトゲームに見初められてしまったというような偶然に端を発する、歴史的経緯ゆえのことである(※89)。
ではその独特さとはいったい何のことなのか。ひとことで言えばそれは、電子書籍(※90)としての独自性である。
DNMLやNScripterなど、システム自身が解釈するノベルゲームの認識においては、ノベルゲームは、立ち絵・背景・テキスト領域・音楽(音声・効果音)の四レイヤーを基本構成要素としている。これをさらに抽象化して言えば、画像・文章・音楽がノベルゲームを構成している、ということになる。
ここに見られる要素群は、テロップつきの洋画(映画)のそれに極めて似通っている。あるいは『新世紀エヴァンゲリオン』や『化物語』のように、映像における文章表現を重視していた作品の存在を思い出せば、むしろアニメに似ていると言うこともできるだろう。そのような考え方からすれば、ノベルゲームとは、劣化したアニメ・映画表現であると言うことになる。なぜならば、常時、映像を動かし続けることができないからこそ、文章に頼っているのだと考えることになるからだ。
かような発想は、このジャンルには憑き纏い続けていた。ジャンルの祖とも言うべき『かまいたちの夜』はサウンドノベルというジャンル名を持っていた。サウンドだから、視覚はそこまで重要視されていない。実在の場所の写真を背景に使い、人物像は影絵で表現されていた。では、だからといって豪華なサウンドが存在していたかといえば、そんなことはなかったと言わねばならないだろう。確かに雰囲気を盛り上げるBGMはあったし、恐怖や驚きを掻き立てる効果音もあった。しかし、それは豪華さと言うよりも、使い所を念入りに狙うことでなされた、引き算型の戦略だった。その点でサウンドとはまさに効果音の謂いである。そして、「サウンド」はまさに小説の挿絵の豪華バージョンとして、「小説に音は出ないでしょう」と言わんがための言葉として機能していた。
小説に比べれば豪華だが、アニメに比べれば貧相だ。そんな中間的な位置づけにありながらも、「ゲーム」という装いを纏い、性表現を組み込んだ濃厚な物語やコミュニケーションを描くことで、ノベルゲームは独特の地歩を築いてきた。
その結果として生まれたものは何か。第一の段階としては無論、豪華な小説としての姿が挙げられる。しかしそれはあまりにも初歩的なことでしかない(※91)。第二の段階としては、差分の表現による読者の感性的強化があったのだと思われる。差分の表現とはある絵柄を局所的に変化させることで動きを示すことだ。目や口元の動きが代表例だが、ごく僅かな変化でしかないのに、プレイヤーはそこに様々な感情の動きを読み取るようになるのである。
差分の読解力、または感情移入力が強まるということは、文章に対する想像力が強まるということもまた示唆されるのではないだろうか。そのような、文体への強い欲望が恐らくは第三の段階である。恐らくはその進化の過程として文体を持った作家たち、例えば、Keyにおける麻枝准の泣きゲーや、TYPE-MOONの一連の伝奇的物語における奈須きのこが存在していたものと思われる。そのような想像力の訓練は、普通に読書するような仕方ではありえないものだった。
先ほどの言葉遣いにおける「サウンド」とは、テキストに対する豊かなアクセントだった。その点で、ここに差分表現を含めてもいいかもしれない。これらの表現は、単体で取り出す分には貧相だが、テキストや、それ以外の要素と組み合わされることによって、実に豊かな働きを見せた。その結果、とりわけKeyに代表的だが、サウンドの領域において非常に目覚ましい進化がおきた。Keyの音楽担当である折戸伸治の楽曲は、LeafとKeyの活躍を考える上では当然のこと、美少女ゲームの進化においても見逃せない存在感を持っている。彼の高水準な楽曲は、単体で取り出しても立派なものだったが、それだけに留まらず、テキストと組み合わせることによって強い感情移入を引き起こすような、触媒効果があった。そして、この触媒という考え方こそが、美少女ゲームの、ひいてはノベルゲームの進化の要石だっただろう。
そしてようやく『魔法使いの夜』に至る。奈須きのこの作家性を最大限に引き出すべし、という態度が非常にはっきりと示されておりながら、しかし、本作は間違っても文章一元主義の作品にはなっていない。そこでは、明らかに文章すらもが、自らが「触媒」であるという自己認識を持っているように思われる。
どうしてそういうことが言えるのか。それは、最初に述べた画像・文章・音楽の三すくみの関係が、より発展的な緊張を見せているからだ。その結果として、単なる映画やアニメにも、または小説・ライトノベルにも還元できないような、独特の表現に結実している。そこでは、画像も文章も音楽も、全てが物語という不定形の作品イメージに奉仕すべく蠢いている。
それは、このように補足することができるかもしれない。現状のTYPE-MOONの製作環境を考えれば、ゲームを構成するいずれの要素も、極めて高水準なものを用意することが可能である。それを極端に言い換えれば、彼らは消極的な選択としてゲーム作りをする必要が全くなく、やりたいのなら映画やアニメを作ることができるはずだろう、ということだ。実際、すでにそういう営みの蓄積が、『月姫』や『空の境界』のメディアミックスでなされてきた。ということは、彼らがゲーム作りを選ぶからには、それでなければならない理由が、それでなければできないことをやろうとしているのだ、と考えて然るべきだろう(※92)。
文=村上裕一
※89 もちろんここで、性的メディアだったゆえの優越を思い出すことが可能である。それは今や、忘却された歴史として機能しつつある。つまり今のノベルゲームの姿は、もちろん、美少女ゲームの生態系における進化としてあるが、その過去とは切断されつつある。そのもっとも分かりやすい兆候が、作品の一般化(非18禁化)である。
※90 かつてノベルゲームは「電子紙芝居」と嘯かれていたこともあったが、むしろ、表現の豊穣さだけを取ってみれば、ちまたの電子書籍よりも遥かに電子書籍的である。もちろん、電子書籍の他の特質、たとえばクラウド対応やアノテーションなどの機能と現状において融和的であるとは言い難いものの、それも時間の問題である。また、実用書ではなく、小説や物語の表現として考えれば、こちらのジャンルの圧倒的洗練はすでに自明だろう。
※91 近年の電子書籍の狂乱においては、音楽つき小説のようなものがさも新しいものであるかのように喧伝された時期があった。しかし、単に豪華な音楽をつければいいというものではないのは、ノベルゲーマーならずとも感じ取ったようであり、その後が続いていない。
※92 『ビジュアルノベルの星霜圏』における奈須きのこインタビューなどを見ると、武内氏は奈須きのこの描く物語の可能性を展開することを心がけており、他方で奈須氏は作品がただシナリオライター・小説家の手のみにて成るにあらず、ということを強調している。これを鑑みるに、TYPE-MOONの作品作りとは、畢竟、奈須きのこの世界観をより豊穣な形で展開する営みであると同時に、小説家の仕事のみには決して還元されないまさにノベル「ゲーム」としてのアイデンティティを追究する営みである、と考えられるだろう(余談だが、『魔法使いの夜』はフォントへ非常に気が配られており、文章を読むという経験へのリスペクトを強く感じる)。
関連リンク
TYPE-MOON Official Web Site
http://www.typemoon.com/
12.05.06更新 |
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