Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第六章 ノベルゲームにとって進化とは何か【8】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
『Fate/stay night』の成功によってTYPE-MOONはPCアダルトゲーム業界のトップランナーに踊りでた。そのファンディスクである『Fate/hollow ataraxia』(2006)もまた十万本を優に上回る売り上げを記録し、関連商品として、『空の境界』は上下巻で百万部を超え、全八回という異例の上映方針で公開されたその劇場版も、26万人を動員し、累計75万枚のDVDを売り上げるなど大成功を収めた。ニトロプラスの虚淵玄とコラボレーションした小説『Fate/Zero』も大好評を博し、極めて高いクオリティでアニメ化され、2012年4月現在、後半クールが放映されているが、たいへん多くのファンを魅了している。さらには、この4月には待望の最新作『魔法使いの夜』がいよいよリリースされることになっている。
このようなTYPE-MOONの急速なプレゼンス拡大とは裏腹に、美少女ゲーム業界の成長は止まっていた。冷静に考えれば、市場調査などを行なわなかったとしてもこの事実は伺い知れる。たとえば、筆者の上述からも分かることは、業界をある種牽引するような位置取りに立ちながらも、TYPE-MOONが18禁PCゲームというカテゴリーにおいて作品を発表したのは、なんとこの十年でわずかに二本であるということだ。『月姫』のリパッケージ版にあたる『月箱』を入れたとしても三本であり、それにしても2004年よりも前のことだ。その存在感に比して、彼らは非常に寡作なブランドとなってしまっている。
もちろん、TYPE-MOONばかりがヒットメーカーというわけではない。しかし、TYPE-MOONほどのヒットメーカーは、他にないと考えるのが現状の素直な認識であるように筆者には思われる。
なぜこのような状況になっているのだろうか。TYPE-MOONの動き方からそれを推測するのなら、恐らく以下のようになるだろう。
これまでの連載でも確認してきたように、同人活動から出発したTYPE-MOONは、美少女ゲームにおける二次創作や物語の可能性を独特な形で突き詰めたところがあった。特に要約するのであれば、シミュレーションではなく物語を重視した点がその特徴である。このことによって、それまでの美少女ゲームがある意味得意にしてきたようなシステム的多様性は鳴りを潜めることとなった(※112)。他方で筆者は、TYPE-MOONのこのような作品づくりが、形式ではなく意味内容の水準で二次創作を主題にしていると考え、その点で必然的な登場であると見た。
しかし、ここには問題があった。確かに『Fate』は18禁美少女ゲームの領域で大人気を博した。筆者は、『月姫』の成功が小説『空の境界』のヒットへと繋がったと説明してきた。それはより広い見方から言い換えれば、18禁ジャンルにおける成功が、その後の一般ジャンル――たとえば『Fate/Zero』の小説・アニメの活況へとつながっているということだ。それは、とりもなおさず、2000年代後半以降のTYPE-MOONのコンテンツにおいては、18禁要素が作品の魅力の中枢ではない、ということを意味している。むしろ、18禁市場ではなく一般市場を舞台にすることによってそのポテンシャルが引き出され、より広範な支持を獲得したのだと見るべきだろう。それが無意識の成功なのではなく、戦略的判断の結果であるのは明らかである。コンシューマ版の『Fate/stay night』の実績は無論のこと、アーケード格闘ゲーム『MELTY BLOOD』『Fate/unlimited codes』の展開や、PSP用ゲーム『Fate/EXTRA』やアニメ『カーニバル・ファンタズム』の発表、そして何より待望のビジュアルノベル最新作である『魔法使いの夜』が一般向けのレーティングで発売されるという事実に、現在の方針がはっきりと現われている(※113)。
もちろん、そもそも売れても十万本――それは非常に大きなことなのだが――であるPCゲーム業界に対して、たとえば『かまいたちの夜』が百万本以上売れたことからも明らかであるように、一桁違う市場規模を持つのがコンシューマ業界であった。従って、そちらに向かうのは自然と言えば自然なのだが、単にビジネス的な判断ばかりではなく、物語がそちらを向いていたこともまた大きな要因であったはずだ。つまり、TYPE-MOONの作品は、美少女ゲームとしてよくできているという以上に、エンターテインメントとしてよくできていたのだ。
このことは恐らく、TYPE-MOONの作品づくりに独特の負荷をかけたはずである。電子紙芝居とも揶揄されることのあるビジュアルノベルは、ことPCゲーム業界においては、性描写が大きな強みとなっていた。ところが、エンターテインメントとして評価されるようになると、もはや競合ジャンルは18禁美少女ゲームではなくなっていく。今や競争相手は、むしろ映画であると考えるべきだろう。映画もノベルゲームと同じく、文と音楽と絵・映像を同時に扱うことができるジャンルなのだ。この解釈は、後に『空の境界』が映画化されたことからも説得力を強めている。
この事実は、もうすぐ発売される『魔法使いの夜』のことを思い出せばよりはっきりと感じられてくる。体験版を眺めてみれば分かることは、ビジュアルノベルであるにもかかわらず、まさに映画的な方向性をはっきりと打ち出しているということだ。そこには、かつて美少女ゲームというジャンルが持っていたようなある種のニッチ感がすっかり姿を消し、広範な市場に向けて打ち出されているのだという自負が感じられる。逆に、このレベルにまで演出を高めるために、2006年以来、実に5年もの時間をかけて作品制作がなされたのだと言える。それは言い換えれば、このレベルにまで高められた作品でなければ人々に開陳するわけにはいかないという強烈な意識がTYPE-MOON自身にあった、ということを意味するのだろう。
思い出してみれば、世紀末のノベルゲームたちにここまでのクオリティはなかった。ただ、そこには批評的な可能性があった。小説には不可能な物語体験、二次創作を内面化した舞台設定というものは、言わば工夫や機知の産物であった。そこから様々な可能性が芽吹き、たとえば泣きゲーの潮流が生まれ、『Fate』のようなメジャーなエンターテインメントの潮流も生まれた。そういった流れの果てに存在する『魔法使いの夜』の姿には、確かにノベルゲームの進化が端的に現われている。そこには、奈須きのこという他に代えがたいミリオンセラー作家の作家性と文章力、彼だけが持つ世界観とシェアードワールドによる蓄積、そして、諸作品の映画化・コンシューマ化によって洗練された、一般市場で戦うに足る音楽的画像的クオリティを詰め込んだ、最高水準の作品があるはずである。
それゆえに恐らく、世紀末の作品たちがそうであったのと同じようには、『魔法使いの夜』は、真似や模倣、そして、二次創作を許さないのではないかと思われる。もちろん、実際には蓋を開けてみなければ分からない。しかし、そういう発想を弾くような、孤高ゆえのクオリティの高さこそがこの作品の存在理由であるように感じられる。そして、そのような態度こそが、まさにトップランナーたるものの矜持だったのではないか。
『魔法使いの夜』のクオリティの高さは一種孤高である(※114)。そして、その孤高さは同時に、ノベルゲームの進化を体現している。では、その進化の本質とは何か。それは言わば、エンターテインメント化である。
これは、美少女ゲームにとってはまさに悲願だった。なぜならば、ジャンルが孕んだ独特の批評性も、恋愛や性描写に特化した18禁というフックも、ゲームらしからぬゲーム(小説のようなゲーム)であるという事実も、自閉的でコアな市場を形成する契機ではあっても、広範でより一般的なユーザーを掴むような方向性ではなかったからだ。
とはいえ、『魔法使いの夜』――それに先立つ『Fate』や『空の境界』は、間違いなくそれを達成した。それはどういうことなのか。もちろん、ハリウッド映画ほどではないにしても、潤沢な資金と時間と人材をつぎ込み、単純な意味で壮大なクオリティを実現したことは大きな根拠である。実際、今やノベルゲームは、小説とゲームの中間にあって、まさに映画に伍するものとして、音と映像による動的演出を兼ね備えることで、より迫力と臨場感のある物語の体験を可能にしたメディアとなりつつある。
しかし、それだけでは説明不足だろう。同人から生まれ、今や一般ゲーム市場をも席巻するまでになったTYPE-MOONの歩みには、常にファンとの同調があった。そこでは単に批評的であるばかりではない形で、常に二次創作ということが意識されてきた。二次創作をエンパワーするような舞台設定と、二次創作の根拠を問うような人物造形。自ら二次創作に挑戦するようなスピンオフの展開。そして――それでも揺るがぬような物語の骨子。それは極めて複雑で高度な表現だったはずながら、多くの消費者の心を掴んだ。
多くの人に開かれた作品のエンターテインメント化。これは決して単なるポピュリズムの産物ではない。それは、送り手と受け手の相生相克において磨かれ鍛え上げられた、まさに進化の産物だったのである。
文=村上裕一
※112 ファンディスクである『Fate/hollow ataraxia』はむしろ美少女ゲーム的であり、繰り返しによる別な可能性の体験や、ループの自覚による実存の把握、読者が期待したようなシチュエーションの実装など、様々な多様性を組み込んでいる。しかし、それはあくまでもおまけ・お祭りのものであるがゆえのことであり、根幹となる作品の場合、むしろTYPE-MOONはストイックにそういう要素を抑えようとしているように感じられる。
※113 大手ブランドの一般向けへの戦略転換は今や明らかである。それを代表するのはむしろKEYの『Rewrite』(2011)が一般向けで発表されたという事実だろう。また、XBOX360で発表された『STEINS;GATE』がビジュアルノベル作品として十万本以上の売り上げを記録したことも忘れられない。個人的な印象に過ぎないかもしれないが、シミュレーションゲームやみなとそふとのように有名声優とアニメ化によるほとんど一般向けであるような手法で作品を展開しているメーカーが五万本以上のヒットを飛ばしているのに対し、昔馴染みのビジュアルノベルが売り上げを維持している場所はむしろ一般向け市場においてであるように見える。
※114 孤高であるとは、ある種、二次創作を拒否する態度でもある。たとえばKEYの作品では、『Kanon』は非常に多くの二次創作を呼んだが、他方で『AIR』はその人気と比較して二次創作の勢いがかなり弱かった。それはその完成度や完結性ゆえに、付け足すことが難しかったからだったように思われる。他方、衝撃的なエンディングに対し解釈の論争は非常に活発に行なわれていた。批評を二次創作の一実践と見るのであれば、こちらが増えたために通常の同人的二次創作が弱まったのだと言えるかもしれない。筆者が『魔法使いの夜』に対して想像するのは、これに似た事態である。とはいえ、この原稿が公開されている時点では惜しくも一週間のズレがあり『魔法使いの夜』はまだ発売されておらず、その真の実情を云々する段階にはない。よって、これについては製品をプレイし次第、追って何らかの補足を入れたいと思う。
関連リンク
TYPE-MOON Official Web Site
http://www.typemoon.com/
12.04.10更新 |
WEBスナイパー
>
美少女ゲームの哲学
|
|