Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第六章 ノベルゲームにとって進化とは何か【7】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
具体的にその歪みが描かれるのは主人公の陣営においてである。このことは必然的であるが、その必然性ゆえに歪みが大きくなってしまう。
そもそもこの作品がバトルロイヤルを描いたものであることを思い出そう。それは最後の一人を選び出す物語であり、淘汰の過程を描いたものである。ところが、そうであるにもかかわらずこの作品には主人公がいる。プレイヤーであるのに主人公であるということは、必然的に生き残ってしまうことを意味する。実際に生き残る。だが、単に主人公であるという幸運のみを理由にして生き残ってしまったというのなら、それは物語の水準では、何の理由もなく生き残ってしまったというのに近い。この負債の感覚は、物語に大きな影を落とす。
このとき、二つのことが同時に言われる。ひとつは、先に述べたように、聖杯の起源自体が物語の展開と一致したような形式を持っていた以上、つまり、願いが叶わないがゆえにそのような願いを持つことが間違っているような物語を聖杯が強いている以上、その物語を遂行する主人公においても、単純な英雄であることは許されない。と同時にもうひとつは、そのような理由の無さそのものをどう取り扱うかということの問題化である。
主人公の陣営が、まさにこのような事情によって歪みを体現している。まずはセイバーの立場からそれを考えてみよう。セイバーはまだ生きているにもかかわらず呼び出された英霊だった。それゆえに、彼女には祖国を救いたいという強い妄執があった。それは、歴史を変えたいという欲望である。ところが、それは英雄としての自己を否定する歪んだ欲望である。したがって作中でさんざんその態度が非難され続けた。したがって彼女には自信がない。その点でセイバーとギルガメッシュはかけ離れている。
この問題が難しいのは、仮に聖杯によって歴史を変えたとしても、セイバー自身が変わったわけではない以上、彼女は成長していないということだ。もしも、いわゆる主人公らしい成長がなしうるとすれば、それは彼女が自分の失敗だらけの生をそのまま肯定する以外にない。ところが王の矜持がそれを許さない。だが、ギルガメッシュ的な自信はない。意固地な振る舞いをするしかない。そのあわいを生きることが要求されている。主人公陣営の、歴史に知れ渡った英雄の処遇としては過酷過ぎるだろう。とはいえ――それを生き抜くことによって一定の悟りを得る。その過程がつらければつらいほど、得られるものの迫真性も高まるだろう。
では、主人公陣営どころか、主人公そのものである衛宮士郎においてはどうか。彼においてこそ上記の問題がより典型的かつ明瞭に現われる。そして、セイバーや他の人物がしばしばはらんでいた、生き方の歪み、間違った理想という問題が、全て彼の問題だったということが明らかになる(※111)。負債の感覚である。
衛宮士郎は簡単に言うと「正義の味方」になりたい少年だった。だが、バトルロイヤル環境では正義が多元化するため、いわば彼は他人の願いの代理人とならざるを得なくなった。したがって序盤から士郎は、人のお願いを叶える一種の何でも屋として、特にものを直すという方面で活躍していた。
なぜ彼がこのような人物になったのか。それは幼少時に、第四次聖杯戦争による大災害の煽りをくったことが原因である。これによって起きた大災害に巻き込まれ、ただ一人生き残ったのが士郎だった。なぜ生き残れたのか。助けられたからである。誰に。衛宮切嗣にだ。
衛宮切嗣の活躍については『Fate/Zero』に詳しいが、彼こそが「正義の味方」になるべく世界平和のために聖杯戦争を戦った人物だった。ところが聖杯が願いをかなえるアイテムでないことに気づきそれを破壊させた。その代償として災害が置き、世界を救うどころか多くの人を無意味に犠牲にしてしまった自責の念が、彼にたった一人でもいいから誰か生存者がいないかを探させしめた。そうして見つかったのが士郎である。
そのときの顔が――そのときの切嗣の顔がいたく幸せそうだったそうだ。だから、士郎もそうなりたいと思った。それになるために、まず彼は切嗣になろうとした。切嗣にかわって「正義の味方」になろうとすることによって。
ところがこの生き方は歪である。なぜならこれは自分を犠牲にして人を救おうとする態度だからだ。献身的といえば聞こえがいいが、大事なものを捧げるから献身なのであって、士郎には自らが大事だという感覚がない。それをあらゆる周りの人々に指摘され、存在そのものを否定されるような戦いが続いた。
しかも、士郎の場合、事態はセイバーより深刻である。というのも、人から間違っていると攻撃されながらも、いや間違っていない、俺は理想に殉じて生きるのだ――と、そうして生き抜き、戦い抜いて英雄の位にまで上り、守護者として世界に使役されるに至った未来の自分が、自分の生は間違っていたのだとこの士郎に突き付けにくるからだ。これが第二部、Unlimited Blade Worksの物語である。そこで士郎は未来の自分であるアーチャーと対決する。
最初の見立てを確認すると、主人公陣営はバトルロイヤルという仕組みがはらむいわば呪いによって、まっとうな成長ができないようになっていた。士郎においては、自分を大事にできない、自分の望みがない、というのがそれにあたる。セイバーの場合は過去への妄執ゆえのことが、こちらではそもそも妄執がないゆえにそうなっている。そういった意味で、彼はある種の内面がない壊れた存在として描かれている。
しかも、未来の自分が襲ってくるという点で、「人はとやかく言うけれど、信じて歩めば報われる」というような楽観的な解答も封殺されてしまう。さらに、自分を否定する未来の自分=アーチャーを否定する場合、自分自身を否定することにもなってしまう。なぜならば彼は自分の理想を貫き通し完成させた人物である。ふつうの物語であれば、そのような完成にはハッピーエンドが与えられるはずだ。だがここでは与えられない。それが歪みである。
結論から言えば、士郎の解答は、倒れない、ということだった。彼はただ、間違いなんかじゃない、と言いながら、ひたすらアーチャーと切り結んでいた。気が遠くなるほど切り結んだ先に、その姿に見惚れてしまったアーチャーが剣を振るうのをやめ、その結果、士郎がアーチャーを仕留めるにいたった。それはもはや合理的な判断の産物ではない。
ここで何が起きているのか。それは肯定である。士郎の選択は、要は、アーチャーの生を選ぶということである。その結果、彼が未来で味わったような裏切りや報われなさを、これから自分も味わうことが約束される。でも、それでいいじゃないか、と彼は選んだのである。
これは、セイバーにいまいちど引き戻して考えると理解しやすいだろう。セイバーもまたブリテンをある意味理想的に統治できなかった。しかし、歴史の改変を願うことは自分の存在を貶める。そんなことをしたら、王である以前にセイバーでなくなってしまう。そもそも、そんな歴史の改変など、望むべきことではない。セイバーに許されているのは、自分の至らなさを受け止め、肯定することだったのではないか。聖杯戦争とは、いわばその作業を行うための邯鄲の夢だったのではないか。たとえば、セイバールートにおける最終章では、刀折れて死する寸前のセイバーを側近が見守っている姿が描かれる。それは、ずっと孤独に戦い続けてきた王に、ようやく休んでもらえる、休んでほしいという、哀れみといたわりの気持ちだった。そのような些細な哀れみを受け止めることが、王の本当の気高さというものではないか。いずれにせよ、彼女にもまた肯定が求められていた。
以上のように、『Fate』においては特殊に屈折した形での成長が求められていた。そして、サーヴァントの仕組みによって一種のループ構造が内面化されていた(未来の自分がやってくるような)が、にもかかわらず、バトルロイヤル形式に忠実であるため、一つの結末へと疾走していく流れになっていた。このような状態でループを描いても、決して過去を書き換えるような、いわゆる美少女ゲーム的な話にはならない。同じ歴史を繰り返すだけだ。だが、その繰り返しに意味があるのだということを説明している。それはまさに、このようなシステムが存在することの理由であり、様々なキャラクターの問題として転移しながら描かれた物語の感情のようなものだと筆者は考える。
というように、『Fate』は強固に後悔の存在感を強調させるゲームである。そして、内容的に言えばその後悔をいわば塗り替えて肯定にしてしまう内容であった。しかしながら、その展開が骨太でドラマティックであればあるほど、プレイヤーはこう思うに違いない。ここまでの労苦を身に背負ったのだから、セイバーにもアーチャーにも報われて欲しいではないか、と。
従って、このようなゲーム結果は、内面的には二次創作的な意匠をむしろ削ぎ落とす形で洗練されているにもかかわらず、まさにゲームが終わるその段から、別のユートピアの可能性をプレイヤーに夢見させる。その結果として、英雄たちが幸福に同居しているヴァルハラや、プレイヤーたちの平和な日常というものが二次創作されることがさらに承認されるのである。実際、この見立てを裏付けるように、コンシューマ版の『Fate/stay night』においては、最後にごくわずかなシナリオながら、エンディングとして、戦いに戦いを重ねアーチャーとなった士郎が、まさにアヴァロンのような地平にて、セイバーと再会する、というシーンが描かれるのである。それは、コンシューマ化されるまでの消費者の反応に、まさにそのような願いを受け取ったからではないだろうか。
文=村上裕一
※111 マスターは、由来のあるアイテムを用いてサーヴァントを召喚する。たとえば、エクスカリバーの鞘を用いて召喚を行なえば、それにもっとも縁が深い存在、この場合はアーサー王たるセイバーが現われるというなりゆきである。ところが、アイテムが強力な場合は目立たないが、そもそもサーヴァントを呼び出すマスターとの一種の同型性同質性というものが縁として強力な力を発揮するという要素がある。したがって、セイバーと士郎は(士郎にセイバーの鞘が埋まっていたという事情があるものの)性格的に似通った歪みを共有していたという流れが確認できる。
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12.04.01更新 |
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