Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第六章 ノベルゲームにとって進化とは何か【6】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
図式的に言えば、多様なギミックを持ったゲームというものは、同じひとつの入口から、複数の異なる出口へと展開する如雨露型の物語だと言える。それに対し『Fate』は、多様な入り口を設定しておきながら、同じひとつの出口へと収斂するような形式になっている。
具体的には、本作が聖杯戦争というバトルロイヤルのルールを持っており、複数のプレイヤーが参加する仕組みになっていることがそれに対応する。当然、敗退したプレイヤーは退場していくため、必然的に最後の一人へと視野が収斂していくこととなる。
このような収斂は、現実世界の時空間に関する論理を共有している。現実においてはある選択の別の可能性というものを物理的に体験することはできないが、ゲームにおいてはそれを物理的に体験することが可能である。そこにはゲームならではの複雑な仕組みが存在しているわけだが、逆に『Fate』ではゲームではなく現実世界の論理に習っているため、仕組みの水準では非常にシンプルに、つまりほとんど一本道になっているのである。特に『Fate』には衛宮士郎という主人公がいるため、あくまでも基本的には彼の物語として展開する。
しかし、彼は主人公であると同時に語り部でもあるような役割を果たすため、普通にプレイしている上でも様々な参加者たちの動機や人となりというものに触れ合っていくこととなる(※108)。さらに、三人称視点であるインタールードというセッションが細かく入るため、様々な陣営の状態というものを物理的に見ることができる。
このような道具立ては、なぜ多様性なのかという問いの営みとして存在している。そしてその問いは、プレイヤーレベルのギミックの複雑性を犠牲にすることで、むしろ縦横かつ深遠に問われている。
確認になるが、それを問う上では『Fate』が二つの複雑性を同時に取り扱っていることを認識せねばならない。空間的な多様性(ファンディスク、スターシステム)と、時間軸上の多様性(ループ)である(※109)。
空間的な多様性は、先述したモチーフの多様性と同義である。聖杯という何でも願いをかなえる装置が、歴史と場所を問わずに様々な人物を呼び寄せた。もちろん、何でも願いをかなえるという法外なものが目当てなのだから、それは求めるものも法外に多様であるだろう、と思わないわけにはいかないだろう。しかし、『Fate』はそこから遡る。なぜそのような法外さが必要なのか。それを強いる聖杯とはそもそも何なのか。このように答えが問われている以上、システムの起源に多様性はありえない。
結論からいえば、起源の事実は、聖杯が何でも願いを叶えるから叶えて欲しい人々が寄ってきた、というような牧歌的な見立てとは全く無縁である。聖杯は魔術師の御三家が、世界の起源たる「根源の渦」に辿り着くための儀式装置であった。その装置を駆動するために、英雄の魂という巨大な燃料が必要だったから、聖杯戦争は開かれていたのである(※110)。
さらに、聖杯(戦争)は時間的な多様性の水準においても影響力がある。というのもこれは、英雄の存在様式に関わっているのだ。多くの英雄は守護者として世界に召し上げられており、世界の危機において召喚され人類を守るための使命に殉ずることとなる。それは聖杯戦争とは全く別個の事態の話なのだが、聖杯が呼び寄せるサーヴァントはかような英雄たちなのである。この呼びつけられる危機というものには時間的空間的区別がない。そのため、サーヴァントは時空間を超越した存在となる。
このような超越は、作品を眺めていればある程度自明である。現に、異なった時代に生きたはずの英雄たちが一同に会しているからだ。
ところが、それが英雄であるがゆえに見えてこない感情というものがある。たとえば、典型的なのはギルガメッシュのようなサーヴァントである。彼は最古の英雄王として、圧倒的な自信と肯定感に満ち溢れている。サーヴァントであるというのに、全くマスターに従っているという感じがしない。英霊の水準で聖杯のような意思に呼び出される身の上になっても、その自分を受け入れているという印象が強くある。英雄と呼ばれるほどの存在だから、多くの存在は高潔であり、マスターに対して忠節があるのだが、この方向性は、大同小異あるとも英雄の基本的な在り方だと見てよいだろう。
だが、このような英雄観からある種かけ離れた感情の問題が『Fate』では描かれる。それこそが、空間的には描けなかった、多様性の動機の本質であるとともに、先に述べたところの、後悔に根ざした二次創作への欲望の核心となる。
文=村上裕一
※108 後述もするが、いくつか含みがある。まず主人公と語り部というものはイコールではないという前提がある。これはシャーロック・ホームズとワトスンの関係を思い出してもらえれば分かりやすいだろう。士郎はワトスンよりもよほど主人公的な役割を持っているのだが、プレイしてみるとヒロインのセイバーや遠坂凛こそが主人公的な振る舞いをしているのだ、と見たとしてもそこまで不自然ではない。さらにいえば本編第三章においてはぐぐっと主人公の役割が後退し、より群像劇感が強まる。これについては本編内のおまけシナリオで自ら「群像劇」的であると名指しているほどである。 また、士郎は普通の意味での自意識というものが欠如しているため、それこそセイバーや凛と比較したとき主人公らしからぬところがある。その弊害として、成長というものが描かれにくくなっているため、主人公らしさというものが弱くなっているところもある。このような士郎の属性を筆者は「鏡」と呼んで分析したことがある。『東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦』(講談社BOX)所収の拙論「逆接の倫理」を参照のこと。
※109 実際には『YU-NO』も同じ要素を持っている。違いはギミックに対する態度だ。こちらのゲームはアドベンチャーであるため様々な場所を物理的に移動し物理的に探索することができ、しかも最終的には現代日本から異世界へとワープする。またタイムスリップ要素があるため二次創作的な行動が可能であり、しかもその行動自体がシステム的にバックアップされているという至れり尽くせりぶりであった。『Fate』にはこういうギミックが欠如しているが、その欠如によって前景化している要素がある。実存である。感情といってもいい。その一つの要素として「父」の取り扱いの差異がある。『YU-NO』においては物語の先駆者として「父」がおり、主人公はそれを追いかけるという流れだった。『Fate』において「父」に対応するのは恐らく「英雄」である。そう見るときこちらの作品には「父」が何人も登場することとなる。即ち『Fate』は「父」の水準の物語なのである。
※110 このときここには、聖杯の秘密という起源に遡る物語展開が、「聖杯は世界の根源へ至る営みだ」という、まるでいまこの瞬間に物語が行なっている営みを現身にしたかのような事実を明るみにしているという、ある種のトートロジーがある。これは一種の呪い、それも鏡像的呪いである。この感覚が『Fate』全体の雰囲気として存在している。
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12.03.25更新 |
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