Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第八章 美少女ゲームの音楽的テキスト【1】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
ノベルゲーム史上最大のヒットとなった『かまいたちの夜』はビジュアルノベルとは呼ばれなかった。それはサウンドノベルと呼ばれた。だとすればサウンドノベルとビジュアルノベルはどう違うのか。
とりいそぎ確認するのなら、もちろん『かまいたちの夜』にはキャラクタービジュアルがなく、後にビジュアルノベルの名にて世に出た『雫』にはそれがあった。この差異は繰り返し述べてきたし、この一点をもって、だから前者はサウンドノベルで後者に連なる美少女ゲームの作品群はビジュアルノベルなのだ、ということは可能である。
しかし、もう少し大きな思想的違いがこの二つには見受けられる。それは、単純にキャラクタービジュアルの有無には還元できない。その違いとは、まさに「サウンド」の取り扱いに現われている。
サウンドノベルとは、紙の小説に対して、音や絵による演出効果で読書を盛り上げることが可能になったメディアである。実際のゲームを見てみれば分かるように、別段音が加わっただけのものではない。他方で、一応小説にも表紙や口絵、挿絵などが存在する点から言えば、音が鳴るということこそに紙の小説との本質的な違いがあると考えても間違いではない。
だとしても、音が鳴ることにも様々な形があることには注意が必要である。音楽と効果音と音声ではそれぞれ機能が異なるし、そもそもサウンドノベル初期の環境では望むことができないものも多かった。
では、サウンドノベルは音をどう取り扱ったのか。これを考える上では、一連のサウンドノベル作品がいかなる作品傾向を持っていたかを確認するのが重要である。『弟切草』を発端とし、スーパーファミコンをプラットフォームとする作品群を振り返るとき、中心的だったのはホラー/ミステリー/サスペンスといった傾向である。それを一言で表すなら、つまり、怖い作品が多かった、ということである(※118)。
では、怖さを演出するためにいったいどのような手法が用いられているのだろうか。もちろん、怖そうな内容の文章や、そういう雰囲気の絵(たとえば不気味な洋館など)を表示するのは基本である。おどろおどろしい音楽の存在感も忘れられないだろう。しかし、怖さを引き立てる上で最も重要なのは効果音の役割、ないし画像の効果音的使用である。
効果音的演出とは、簡単に言えば、突然生じる現象のことである。『弟切草』『かまいたちの夜』ではそのような範例が示されたと言ってよいだろう。たとえば『弟切草』の序盤では、車で移動するシーンが描かれる。このとき、BGMとしては車の走行音だけがずっと流れている。ほとんど無音のようなものだし、単調な走行音はそれ自体が不気味である。そこに、突然、雷が落ちる。ピシャン!という落雷音がなり、樹木が割れる映像がインサートされ、一瞬、画面が真っ赤になる。この落雷音が典型的な効果音の用法であり、真っ赤になる画面が画像の効果音的使用の事例である。『かまいたちの夜』でなら、突如ペンションに響く女の叫び声や、男の慟哭、外で吹き付ける吹雪の風鳴り、そして、無音の状況で突然どさっ!と響く落雪の効果音などが極めて印象的な事例として存在する。
このような演出は、プレイヤーを、キャラクターと同じように驚かせ、作品世界に没入させる。すなわち、サウンドノベルの「サウンド」とは、このような臨場感の契機を意味している。
ここには、偶然ではあるが、サウンドノベルが「サウンド」を冠しても「ミュージック」を冠さなかったことに関する含意が見受けられる。特に『弟切草』に顕著だが、効果音を強調するためには、ふだん鳴り続けているメロディアスなBGMなどというものはむしろ邪魔者である。無音の状態で突然、扉のきしみ音なり猫の鳴き声なり衝撃音なりがするからこそ、大きな驚きや恐怖が引き起こされる。つまり、サウンドの方がホラー的なサウンドノベルにおいては重要なのだ。実際、プレイしてみて分かるのはBGMよりも遥かに無音状態のほうが印象強いという事実である(※119)。
もちろん、かような演出はビジュアルノベルにも引き継がれ効果的に用いられているし、感情移入が重要な点ではむしろこちらのほうが深刻なのだが、しかし、サウンドノベルにおいては象徴的な役割を果たすこれらの演出は、必ずしもビジュアルノベルにおいて同じような価値を持っているわけではないし、そうであるにしても、もっと重要な演出が存在していることは確認されなければならない。結論から言えば、それが音楽の役割である。
†音楽の人称
当然ながらサウンドノベルにもBGMは存在している。しかし、それは近代的なビジュアルノベルにおけるそれとはしばしば異なった扱いのものだと考えられる。
実は、このBGMの役割の違いが、まさにこの二つのジャンルを分けているといってもよい。それはどういうことか。前章でも触れた通り、音楽は背景の切り替わりに依存せず流れ続けるため、抽象的な情景を規定することができる。つまり、シーンの感情を示すことができるのである。この点ではホラー的なサウンドノベルにおけるBGMも存在感を持っている。というのも、まさに感情に対応するような形で音楽が設定されているからだ。リラックスした音楽、緊張した音楽、悲しい音楽、怒りの音楽、といった具合に。
このような音楽の使用を三人称的と呼ぼう。この使用には、サウンドノベルが内面化しているルールが現われている。そこでは、まさに読書がそうであるように、シミュレーションではなく、神の視点からの、読者のテクストへの参加というニュアンスが現われているのだ。ここでどんなに感情移入しようとも、それこそ映画を見るような、三人称的参加をしているのに他ならない。
しかし『雫』以降のビジュアルノベルはそうではない。そこには一人称的音楽が存在している。具体的にはキャラクターのテーマソングがそれに当たる。たとえば『雫』にはそのものずばりヒロインの名前である「瑞穂」「沙織」「瑠璃子」という曲が存在している。続く作品の『痕』にもやはり「千鶴」「梓」「楓」「初音」というヒロインのテーマソングがある。
もちろん、このこと自体は『雫』などのビジュアルノベルが何も初めてというわけではない。たとえばこの連載でも始めに検討した『同級生』は、まさにそのようにしてBGMを設定している。「斉藤亜子」「佐久間ちはる」「田町ひろみ」といった具合にだ。この事情はまさに我々が序盤で論じた問題と絡み合っている。つまり、ナンパを目的とするこのゲームにおいては、対象がヒロインなのであって、情景もまたヒロインによって規定されるということだ。そして、このようなヒロインを対象にする作法と、ノベルゲームのシステムが組み合わさることによって、「恋愛」が生じるのだという話だった。むしろ、音楽の役割が、このような恋愛という風景を極めてはっきりと示していると言えよう。
文=村上裕一
※118 スーパーファミコン時代の有名作品だけでも『弟切草』『かまいたちの夜』『夜光虫』(アテナ、1995年)『学校であった怖い話』(バンプレスト、1995年)『百物語~ほんとにあった怖い話~』(ハドソン、1995年)『魔女たちの眠り』(パック・イン・ビデオ、1995年)『ざくろの味』(イマジニア、1995年)『晦-つきこもり-』(バンプレスト、1996年)などがあり、見ての通り、そのものずばり「怖い話」という名を冠しているものもある。
※119 この基本は現代においても変わらない。たとえば『ひぐらしのなく頃に』はゆたかなBGMを内蔵しているが、むしろ、無音の状態や、それに準ずるような風の音のほうにこそ、多くのプレイヤーは強い印象を持っているだろう。なぜなら、そこにサスペンスがあるからである。
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12.06.24更新 |
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