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第9章 潜入捜査官・エリカ【1】

入国手続に特に問題はなく、エリカはスムースにゲートを通り抜けることが出来た。もっとも、彼女がPTWのメンバーであることが知られていたら、そう簡単には行かなかっただろうが。

近代的な空港だった。エリカの国の空港よりもずっと大規模で、設備もいちいち最新鋭だ。空港のスタッフも、そして客もみな礼儀正しく、親切だ。

エリカが空港からタクシーでホテルに向かい、部屋にはいるまで、一度たりとも不快な思いをさせられるようなことはなかった。

どうしてこんな素晴らしい国に、あんな野蛮な制度があるのか……。エリカには理解できなかった。

エリカは窓の外を眺める。46階という高層階からの景色は素晴らしいものだった。林立する高層ビル。この国が世界でもトップクラスの先進国であることを改めて認識する。

エリカの住む国は、ハイテク技術の開発が基幹産業となっているが、街並みは極めてのどかなものだ。古い建物も多く残り、数世紀前からあまり変わっていない。そして国土の大部分は手付かずの自然なのだ。

国土の広さだけで言えば、この国もエリカの国とそう変わらない小国に過ぎないはずだ。しかし、先進国のひとつとして大国と肩を並べる発言権を持っている。もちろんエリカの国を遥かに超える先端テクノロジーの技術力がこの国の経済を支えていることは知っている。しかし、それだけではない力をこの国は持っているというのだ。

実はエリカが東京を訪れたのは初めてのことではない。それどころか、彼女が生まれたのは、ここ東京の病院だった。

東京人の父と、ロシア系の血を引く母は、この地で出会い、恋に落ち、そしてエリカが生まれた。

しかし、幼少時に現在の国へと移り住んだため、エリカには東京の記憶は全くなかった。二十年の歳月を経て、こうやって戻ってきても、特に懐かしいという感慨もわきあがってくることはなかった。

エリカは窓にくるりと背を向けると、バスルームへ向かった。服を脱ぎ捨てていく。東京の冬は寒いと聞かされていたため、無骨なダウンジャケットに皮のパンツという色気のない服装で来たのだが、思ったほどの寒さは感じなかった。

するするとフルーツの皮を剥くように、エリカは無造作に服を脱ぐ。目が覚めるように白い肌が剥き出しになっていく。アジア人とは全く違った白さの肌だった。

一糸まとわぬ姿になったエリカは大きなミラーの前に立った。自分の体を見る。悪くないと思う。長い手脚。高い位置にある腰。くびれたウエスト。そして、決して豊満とは言えないが、形よく盛り上がった胸。乳首を隠すところまで伸びた金色の髪は、そんな彼女の裸身を、さらに神々しく見せていた。

誰かがその姿を見たら、まるで妖精のようだとため息をついただろう。それほどエリカの裸身は、現実離れした美しさを持っていた。

エリカはシャワーを浴びた。ちょうどいい温度のお湯が、エリカの裸身に降り注ぐ。その心地良さに、思わずため息が漏れる。

エリカの白い肌が、少しずつピンク色へと変わっていった。



翌日の夕方、エリカはとある書店に向かった。大きな書店だった。まるでデパートのようだ、とエリカは驚嘆した。エリカの国には、こんな大きな書店は存在しない。読みたい本があれば、通信販売で注文するか、もしくは図書館で借りるというのは普通だった。

カラフルな表紙がたくさんディスプレイされている売り場の奥にエレベーターホールがある。そこに張り紙があった。

「伊藤明大 トークセッション 政治とジャーナリズムの近代史 9F イベントホール」

エリカはそれを確認すると、エレベーターで9Fへ向かう。降りたところに受付があった。

受付の係員は、外国人であるエリカの顔を見て、少し戸惑ったが、ゆっくりとした日本語で言った。

「申し訳ありません。本日はもう定員で、入場できないのですが」
「そうですか。それは残念です。ぜひ伊藤先生にお目にかかりたいので、終わるまでこちらで待たせていただいて構いませんか?」

エリカが流暢な日本語で話すのに、係員は少し驚いたようだった。

「そうですか。それではそちらにおかけ下さい」

エリカは指し示された廊下のソファに腰を降ろした。目の前の扉の向こうから、講義の声が漏れてくる。この声が伊藤明大のものか。

エリカはそっと唇を噛み、怒りをこらえる。この男に関してのいくつかの情報は、エリカにとってはとても許せないものだった。しかし、今は彼に頼るしかない。

しばらくして、イベントホールの扉が開き、大勢の聴衆が出てきた。トークイベントが終わったらしい。

そしてエリカは廊下で何人かと立ち話をしている中年男の姿を見つけた。小柄で禿げ上がってはいるが、いかにも精力的な性格を感じさせる表情をしている。伊藤明大だ。

エリカは伊藤に近づき、話しかけた。

「すみません、伊藤明大先生ですか?」

伊藤はエリカのほうを振り向き、目を見開いた。突然、現れた長身の金髪美女に、伊藤は驚いたようだった。

「あ、ああ、そうだが」
「やっぱり。お会いできてうれしいです。私、先生の本をたくさん読みました。とても感動しました」

エリカがそう言うと、伊藤はパッと表情を明るくする。得意げな顔になる。

「そうか、そうか。それにしても、あなたはずいぶん日本語が上手ですね。どちらのお国の方かな」

エリカは関係のない北欧の国の名前を口にした。

「ほう、それは遠いところからいらっしゃいましたね」
「私、東京にとても興味があります。日本語も勉強して、東京の本もたくさん読みました。先生の本は、東京のお友達に紹介してもらいました」
「ほう、海外の方にそう言われるのは嬉しいことです。そうだな、もし今夜時間があるようでしたら、お食事でもいかがですか?」

伊藤がそう言うと、隣にいた編集者が、またかという顔になった。伊藤の女癖には、何度も面倒な目に合わされているのだ。かといって、止めても言うことを聞く伊藤ではない。

「はい。よろこんで」

エリカは伊藤に微笑んで見せる。うっとりするような美しい笑顔だった。



酔いが回ってくると、伊藤は本性を剥き出しにし始めた。その店のおすすめの赤ワインを二本開けた頃から、口調が馴れ馴れしくなった。

「カレンは東京の男性と寝たことはあるのかな? ウタマロだよ、ウタマロ。小さくても固いんだよ、わかる?」

これほどあからさまに卑猥な言葉を投げつけられたのは、エリカは初めてだ。エリカは必死に怒りを噛みつぶしながら、なんとか笑顔を絶やさないようにする。

「うた、まろですか? ちょっとわかりません。すいません」
「またまた。本当は知ってるんだろ? 北欧の女性は大胆だからね。おれが昔、北欧に行った時は、すごかったよ。みんな大柄でボインの女性ばっかりでねぇ。ああ、こりゃあ、天国かと思ったよ」
「先生は大きな女、お好きですからね」

編集者が口を挟むと、伊藤はギロリと睨む。編集者はうつむいた。

「しかし、カレンみたいな綺麗な子はなかなかいなかったな。いや、本当だよ。顔も綺麗だが、体つきもいい。まぁ、体のほうはちゃんと見せてもらったわけじゃないけどな、わはははは」
「あ、ありがとうございます」

エリカは、もう爆発寸前だったが、それでも使命が優先だ。笑顔を引きつらせながらも、伊藤に尋ねた。もういい加減本題に入らなければ、我慢できそうにない。

「あの、私に伊藤先生の本を教えてくれた友達が、先生のところでお仕事のお手伝いをしていたというのですが、彼女は今、何をしているのか、教えてもらえませんか?」
「ん、名前は?」
「斉藤真紀さんと、言います」

真紀の名前が出た途端、伊藤の顔色が変わった。だまりこくり、そしてエリカを睨みつけた。その豹変ぶりにエリカは驚く。

「知らん。うちには手伝いたいという女はいっぱいいるからな。いちいち名前まで覚えてられないんだよ」
「でも、真紀さんは先生のアシスタントとしてずいぶん働いていたそうですが。今、連絡が取れなくなってしまったのです。連絡先をご存知ないですか」
「ふん、真紀か。あいつはな、奴隷になったんだよ。しかも公務奴隷だ。どっかの収容所で、毎日ハメられ倒されてるんじゃないか? あんたも東京に興味があるなら、国民奉仕法のことくらいは知ってるだろう?」
「国民、奉仕法……」
「そうだ、この東京国では、全ての国民は15歳から40歳までのうちの二年間、国家に奉仕する義務があるんだ。男性は兵役、そして女性は奉仕者として特定の国民に対して無条件に奉仕しなければならない……。これがこの国を支える重要な法律なんだよ」
「どうして、そんな人権を無視した法律が、こんな先進国であるんですか」

そのエリカの言葉に、テーブルにいた者、全員が口をつぐみ、怯えた表情になった。

「カ、カレンさん。あなたは旅行者だろうが、あまりこの国の体制に対して変なことを言わないほうがいい。一緒にいる我々も迷惑がかかることがあるしね」

編集者がエリカに諭すように言った。そのムードの急変ぶりに、エリカはこの国における国民奉仕法の存在の大きさを改めて認識することとなった。

「す、すいません。私はただ、斉藤真紀さんにお会いできるかなと、思っただけで」

伊藤は、忌々しそうな表情で手元にあったワインを一気に飲み干した。

「奴隷になったものの状況はわからんよ。真紀が奴隷になって、もう一年くらいだろうから、あと一年すれば期間が開ける。そうしたら、きっと会えるだろう。まぁ、あくまでも普通の奴隷ならの話だがな」
「普通の奴隷……。普通じゃない奴隷もいるのですか?」
「知らん」

伊藤はいきなり立ち上がった。編集者たちも、合わせて腰を上げる。

「今日はもうお開きだ。カレン、自分の国にちゃんと帰りたかったら、あんまり余計なことに首を突っ込まないほうがいいぞ。あんた見たいな綺麗な娘が、恐ろしい目に合わされるのは可哀想だからな」

そうして、伊藤たちはエリカを置いて、店を去っていってしまった。

斉藤真紀の名前を出すだけで、ベテランジャーナリストがこれほど怯えてしまうとは。彼女の置かれている状況の背後に広がる闇の深さをエリカは改めて思い知った。

ホテルに戻ったエリカは、自国から持ち込んだノートパソコンをネットにつなげた。伊藤が口にした「公務奴隷」という言葉が気になったのだ。

国民奉仕法について、ある程度の知識は得ているのだが、市民が普通に使っている用語と正式な用語にはかなりの差異がある。そもそも「奴隷」というのは通称に過ぎず、正式にはあくまで「奉仕者」だ。したがって「公務奴隷」という言葉も正式には存在しない。

「公務奉仕者というのが、それか……。公務奉仕者は国家の所有物として扱われるのか」

エリカは公務奴隷について調べて行ったが、その途中で、いきなりネットワークが切断された。

ホテルのフロントに問い合せてみたが、何か回線のトラブルがあったとのことで、修理には時間がかかると言われた。

嫌な予感がした。
(続く)

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11.01.10更新 | WEBスナイパー  >  赤い首輪
文=小林電人 |