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New Style Heian Erotical Mandara [Kouchu no hitoya]
艶めかしき人外の化生に魅せられた侍が堕ちていく魔的なエクスタシーの奈落――。今昔物語の一編を題材にとり、深き闇の中で紡がれる妖と美の競演を描くニュースタイル・平安エロティカル曼荼羅。期待の新人作家・上諏訪カヤハと絵師・大往生ジダラクのカップリングで贈る会心のアブノーマル・ノベル!!隙ができていたのは、三郎のほうだった。いや、首魁狐と黒狐に向かい合っては、三郎は最後まで隙を見せてはいなかった。
三郎の体がゆっくりと崩れ落ちていく。熱い返り血が、吉丸の頬を横殴りに濡らした。吉丸は太刀を投げ捨てて三郎の体を支えた。
「三郎!」
吉丸の腕に体重を預けた三郎は、充血した目を開いて吉丸をじっと見据えながら、みるみる紫がかっていく唇をわずかに開いた。しかし口を動かそうとしても、喉から血の泡を伴ってひゅうひゅうと北風のような音を立てる息に邪魔をされるばかりで、一向、言葉は出てこない。
「頼む……死なんでくれ! 頼む……」
自分がどれほど勝手なことを言っているか、吉丸は気がついていない。そして自分の目から、顔にかかった泥のような返り血を洗い流すほどの涙が溢れ出していることにも。
三郎の筋肉という筋肉から力が抜けていくのが、吉丸の腕に伝わってくる。三郎はわななく腕を吉丸に伸ばした。
「お前、何か……」
何か言いたいことがあるのか、と尋ねようとして終わらなかった声が、三郎がこの世で最後に聞いた人の声になった。三郎はがくりと頭(こうべ)を垂らし、ついに、一個の骸となった。
「三郎……?」
吉丸は三郎の体を二、三度そっと揺すった。しかし三郎の体はもはやぶらぶらと力なく従うだけで、人間らしい弾力は、すっかり消え失せていた。
「あぁぁ、三郎ぉぉぉ!!」
吉丸は場所も状況も忘れて、三郎の骸に突っ伏して泣き吼えた。次第に周り込んでくる火の熱さも、己を取り囲んでいる盗賊どものことも、すべてを忘れて、吉丸は童のような大声をあげた。
黒狐はその様子を、誰にも気色(けしき)を悟らせぬ仮面の下でしばし黙って見ていたが、やがてくるりと踵を返すと、
「そろそろ出るぞ」
と、周囲に呆然と突っ立っていた狐や覆面たちをじろりと睨め回した。火の粉を乗せた熱風がじりじりと肌に迫ってくる。残った連中は吉丸が気になるようではあったが、黒狐には逆らうわけにはいかないのか、それとも単に熱さに耐えられなくなってきたのか、一人、また一人と走り去っていった。
「さぁ、そなたも」
黒狐は最後まで残っている首魁狐の手を引いてせっついた。だが首魁狐はここに来てさえ、凍りついたように動かないままだった。
「いい加減に……」
ついに黒狐が言葉を荒げたのと、首魁狐が吉丸に歩み寄って身を屈め、その肩にそっと手を置いたのは同時だった。吉丸は血と涙と鼻水でぐしゃぐしゃに汚れたおもてをあげた。首魁狐の面の向こう、目穴の奥には、光彩のまったくない眸(ひとみ)が、月のない夜の沼のように真っ暗く佇んでいた。
傍(かたわ)らの建物が、大きな音を立てついに紅蓮の中に崩れ落ちた。
吉丸は首魁狐の手を振り払った。首魁狐は思わず打たれた手を引っ込めた。吉丸は三郎の骸を抱えて歩き出した。
「どこへ行く」
後ろ姿に、黒狐が鋭い声を投げ掛けた。骸を抱えたまま、集合場所に向かうつもりはないだろう。
吉丸は何も応えず、かわりにありったけの暗く激しい憎悪を込めた眼光を首魁狐に投げつけた。
首魁狐は額に鉄の楔を打ち込まれたかのように、刹那、追うすべを知らぬ人となり、黒煙に紛れて消えていく背中を沈黙のうちに見送るほかなくなった。
自分がどこをどう走ったのか、吉丸はよく覚えていない。覚えているのは、ただひたすら走り回ったということだけだ。
三郎の骸は、埋めた。どこに埋めたのかもまた、記憶が曖昧だ。川のせせらぎが聞こえていたことは何となく覚えている。きっともう少し時が経って、もう少し冷静になれば、思い出せると思う。思い出せないわけがない。
本当はきちんと弔ってやりたかった。しかし、そのためにはどうしたらいいのかその時の吉丸にはわからなかったし、それに、こんなふうに死んだ三郎の骸を誰の目にも晒したくなかった。
格子から夕空が見える。烏が点々と並んで、赤く染まってたなびく雲の下を横切っていった。遠くから童歌が聞こえてくる。
吉丸は自分のくしゃみで目を覚ました。少し寒かった。
彼は家を上がってすぐのところに、草履を何とか脱いだだけの、血と泥に塗れたままの格好で大の字になって倒れていた。どうやらそのまま眠っていたらしい。
頭を掻きながら半身を起こす。いつの間に戻ってきたのだろうか。
視線を感じて振り返ると、板敷きの向こうで、阿夜が格子から覗く夕焼けを背負って座っていた。
「お目覚めでございますか」
阿夜の声が夕暮れの中に透き通った。逆光で表情がよく見えない。
「よくお休みになっておりましたわね。このままお目覚めにならなかったらどうしようかと怖くて、ここから離れられませんでしたわ」
言葉のわりには声に相応の感情が籠もっていないように思える。心配されているというよりは、何だかいやみを言われている気分になった。
「お湯もすっかり冷めてしまいました。二度も沸かしなおしましたのに」
「そうか、また湯を沸かしていてくれたのか」
吉丸は何度か頭(こうべ)を振って、まだわだかまっている眠気をうち払おうとした。
「いつものことではございませんか」
影になった阿夜の顔の中で、かすかな笑みがさざめいたようだった。
意識がはっきりしてくると、脳裏を三郎の最期の像が過(よ)ぎっていった。夢の中で何度も見ていたような気もするが、よくわからない。腹の底で、あらためて静かな怒りが膨らみ始めた。
あの首魁狐の正体が、まこと、阿夜であったなら……。
「忙しいことだな。強盗から戻ってきてすぐに支度せねばならぬのだから、休む暇もないだろう」
吉丸の口元が、皮肉めいた微笑で歪んだ。
阿夜ははっとして黙り、俯いた。表で夕雲に向かって舞い上がる童歌が、阿夜の沈黙を際立たせた……という、吉丸が想像していた展開は、しかし、蝶が舞うがごとく軽やかな笑い声にあっけなくかき消された。阿夜はホホホ、と年端もいかぬ少女のようにさもおかしそうに笑うと、
「何をおっしゃっているのか、おかしな吉丸さま」
と動揺の片鱗さえ見せなかった。
「きっと、何かおかしな夢を見ていらしたのね」
「……………………」
黙ってしまったのは吉丸のほうだった。
「いやなことがおありになったと、聞きました」
阿夜がすかさず口調を戻した。
「……聞いたのか」
「えぇ」
「すべてをか」
「黒の狐が見たことは、最初から最後まで」
阿夜は語ることを躊躇する風もない。
「だからおかしな夢をご覧になってしまったのでしょう。お湯でお体を清めて、お気を落ち着けて下さいまし」
衣擦れの音とともに歩み来ると、身を寄せて、水干を脱がせようと象牙細工のような指をするすると伸ばした。薄紅の珊瑚のような爪が泳ぐ。阿夜が動くたびに鼻先に揺らぐ、衣に焚きしめた香が、こんな時だというのに心地よかった。
阿夜は水干の懸け緒を引いて襟を開き、衣から肩を抜かせようとした。だが、そうして逞しい胸板があらわになると、急に我慢ができなくなったかのように、そこに突っ伏して嗚咽を漏らし始めた。
吉丸は驚いて、どうした、と訊いたが、何も答えない。仕方なく髪をゆっくり撫でてやると、顔を上げることもなく、やっと忍びむせぶような声をあげた。
「……かった」
何と言っているのか、うまく聞き取れない。首を曲げて、阿夜の唇に耳を近づけると、
「よかった」
阿夜はそう言っていた。
「貴方が戻ってきて、本当によかった」
一瞬、ほんの一瞬ではあるが、吉丸は腹に蠢いていた怒りの残滓の感触を忘れた。首魁狐が阿夜ではないかという疑いが、消えたわけではない。三郎を失った悲しみが、いっときでも癒えたわけでもない。しかし、それらのを腹に溜めてなお、涙ながらに胸に縋ってくる阿夜はいじらしく思えた。
吉丸の汚れたままの腕が、獲物をまたたく間に巻きあげる野生の大蛇(おおくちなわ)のように、しっかと阿夜の体を抱きしめた。「あぁ」と、阿夜の唇から苦しげとも悩ましげともとれる息が吐き出され、告げた思いにうち震える頬と、厚い筋肉の底で高鳴る胸が、皮膚の垣根を決壊させてひとつになりそうなほどに強く合わさった。
童歌も烏の声も遠くなったのは、黄昏がより濃く深くなって、人の子は人の家へ、烏の子は烏の家へ帰ろうとしているからか、それとも間近く交わす息遣いにかき消されたからか。
二人はしばらくそのまま物も言わず、 お互いの血潮の熱さに感じ入っていたが、やがて阿夜はまだ乾かぬ目元を袖で隠しながら身を離し、
「さ、奥へ」
と、吉丸を湯へと促した。
湯はだいぶぬるくなっていたが、冷たいというほどでもなかった。何の変哲もない井戸水や川の水で行水することのほうがよっぽど多かった吉丸には、気になるようなものでもない。
あっという間に真っ黒になった湯を見下ろして、吉丸はある決心をした。
部屋に戻ると、これもまたいつものように夕餉の支度がなされていた。家の中に人の気配もないのに朝餉、夕餉が用意されるからくりはいまだにわからないが、不思議も続けば不思議とも思わなくなってしまう。誰が何をして突き出されるものなのか知らないが、吉丸は以前ほど気にはしなくなっていた。
あたりにはすっかり夜の帳が下りて、夕暮れの名残はもはやいずこにもない。すっかり涼しくなった風が、すぐ外に生えているまだ青い薄(すすき)に戯れかかるのが、部屋から漏れ落ちる灯にほの見えた。
晩夏の夜を趣深く彩る虫と風の音を除けば、何の音とてない静かな夜である。二人は向かい合って、食事を始めた。
「阿夜」
膳を前に、吉丸は思い切った顔を向けた。
「はい」
と箸を手にしたまま睫毛を上げた阿夜の眉は、晴れ晴れというには遠く、まだうち曇っていた。涙は消えても、涙するに至った思いは胸のうちにわだかまったままなのだろう。吉丸は少し躊躇(ためら)ったが、言うなら今だろうと箸と椀を置き、背筋を伸ばした。
「俺はもう、強盗には行かない」
声は明瞭に響いた。燭芯がジジ……という音を立てて燃え滓を舞わせ、燈台の火が揺らめいた。過ぎ行く夏を惜しむ虫が、眩しさへの憧憬に抗えず飛び入ったのであろう。
阿夜は黙っていた。燈台の角度のせいだろうか、その目からは光がいっさい失われていて、 真の闇がしんしんと深まるところになっていた。それは吉丸に、昨夜、仮面の奥から覗いていた首魁狐の瞳を思い出させた。
(続く)
10.10.21更新 |
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