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New Style Heian Erotical Mandara [Kouchu no hitoya]
艶めかしき人外の化生に魅せられた侍が堕ちていく魔的なエクスタシーの奈落――。今昔物語の一編を題材にとり、深き闇の中で紡がれる妖と美の競演を描くニュースタイル・平安エロティカル曼荼羅。期待の新人作家・上諏訪カヤハと絵師・大往生ジダラクのカップリングで贈る会心のアブノーマル・ノベル!!空は次第に鈍色がかって暮れていった。そうして屋敷が完全に曇天にくすむ夜の中に沈み落ちると、侍や、やっと到着した放免たちはいよいよ本格的にそれぞれの持ち場についた。手ぐすねを引いて待ち受けている様子をあからさまにするわけにはいかないから、篝火は当然焚かない。寒さは身に染みる一方だった。
あたりの空気は、抑えようとして無理に抑えた興奮を孕んだ不気味な静けさで、はちきれそうになっている。
「早く来い……早く来い……」
隣の若い侍はぶつぶつ呟きながら山吹の下に屈(かが)んで、肉づきのいい大きな手をさすっていた。
一刻ほども息を詰めていただろうか。正門と裏門の周辺で何かが動いた様子があった。
――来たな。
武器を握る手に力がこもる。ほど経ずして盗賊と思しき気配が中庭の枯れ草の上に次々黒衣を奔(はし)らせようとした時、鏑矢(かぶらや)がひゅうと音を立てて三度放たれた。続いて鼓がそれぞれの門で呼び合うように打ち鳴らされる。隠されていた篝火が続々と灯された。木陰から、建物の影から、土塀の影から物々しい凶器を持った男たちが悪夢のように相次いで現われ、狐面たちを囲んだ。
狐たちはやはり「あの」狐たちだった。吉丸の前に照らし出された者の中にも、見覚えのある面はあった。
かかれ、の合図が出たと同時に、若い侍は大笑しながら大槍を振り回し始めた。
「まるで俎板(まないた)の上の魚じゃ」
篝火をぎらりと反射させてまがまがしく踊る穂先が、一匹の狐の腹を無残に食い破る。面の下から上がった悲鳴とともに穂先が天に突き上げられると、哀れな狐は見世物のように即死の体を高々と掲げられた。吉丸はその狐とは盗品分配のときに何度か言葉を交わしたことがあった。
一時なりとも何かの縁で同じ闇の中を駆けた連中だ。できるだけ殺したくはないと、顔を突き合わせてみれば余計に思う。しかし、状況はそんな感傷に浸ることを許さなかった。突如陥った虎口を逃れんと前後も知らぬ決死の刃で血路を開こうする狐たちは、生易しい相手ではなかった。斬りかかられれば、斬り返さなければならぬ。
ふと、冷たいものが頬に当たった。ちらと上を見れば、雪だった。雪は最初はひらひらと、地上の様子を窺うように遠慮がちに落ちてきたが、ほどなくして溜まりに溜まっていたものが一挙に振るい落とされたかのように、一面に狂い舞うに至った。
「ここはもういい、他の場へ加勢に向かえ!」
剛毛の髭で顔中覆われている侍が、雪を空に押し返すような一喝で号令した。見回せばすでにここそこに、盗賊の死体がうち重なっていた。
「応ッ!」
男たちは野太く短い返答で応じて、白く斑(まだら)になった大気に湯気を立てながら散っていく。吉丸もまた屋敷の中に駆け入ろうとした。
すると後ろで、
「なんじゃ、こりゃあ!」
誰とも知らぬ中年侍が、どこか間の抜けた驚愕の声をあげた。太刀を握ったまま振り向いた吉丸は目を見張った。侍たちに囲まれ動かなくなった盗賊の死体が、雪に降り込められる中で徐々に人の形を失い、本物の狐に変化していく様がそこにはあったのである。死体の体は完全に狐に変わると、最後に面の縁が顔にすぅと溶けた。そうして後には毛の生えた獣としての狐の、痛ましげに目を閉じた顔がこちらに向けられているばかりであった。
同じような驚きが、まるで呼応したかのようにあちこちからあがった。それぞれに目を遣るとやはり四本足の獣と化した死骸が、水干や胴丸に包(くる)まれ、動かなくなった前足を武器にそっと載せるような形で横たわっていた。
「こいつら、狐のへんげだったのか」
「どうりで今まで一筋縄ではいかなかったはずだぁ」
「しかし、それも今夜で終わりだがな」
「狐鍋にでもしてやろうか、ははは」
あたりには北からの風が吹き始めていた。雪もそれに応じるかのようにさらに激しさを増してきた。吉丸はチッと舌打ちをしてまた駆け出した。男たちの粗野な言い合いに、何とも言えず胸くそが悪くなった。狐面たちがへんげではないかという疑いは、もうずっと前から胸のどこかにはあった。
びょうびょうと屋敷の壁を打ちつけ始めた風の音は、今、斃(たお)れたばかりの狐たちの怨嗟を思わせた。味方の罵声も敵の悲鳴もその中で揉まれ、破られては、切れ切れになってどこかにさらわれていく。いつしか吉丸は、眦(まなじり)をあちこちに血走らせて首魁狐を探していた。部屋部屋を覗き、庭に踏み入り、血煙あらば斬り込んでいく。そこに首魁狐の姿がなければ離れ、野生の勘にまたがむしゃらな足をまかせるということを何度も繰り返した。
しかし、首魁狐を探し出してどうするつもりかというと、じつのところ、何も考えてはいなかった。奴だけでも助けようというのか、それともせめてとどめは自分が刺そうというのか。あるいは死んだ後に面を剥がして素顔を暴こうとでも? だが、目前に掲げられていたのはそういったことのいずれでもなかった。そこには、首魁狐に最後にただ見(まみ)えたいという、目的というにはあまりにも不完全な、しかし胸に苦しいほどに迫る単純な希求があるばかりだった。
ついに吉丸は、北の方の寝所の中に、数人の侍に追い詰められ絶体絶命となっている首魁狐を見出した。腹のあたりには切り裂かれた跡があり、右腕には矢が刺さっている。足元にはすでに血溜まりができており、立っているのもつらいのか前のめりになって肩で息をしていた。かたわらには黒狐が倒れていた。
首魁狐は部屋に飛び込んできた吉丸に気づくと、はっと小さく後ずさった。囲んでいた侍たちは吉丸のことなど一顧だにしない。単に遅れて加勢に来たものに過ぎないと思っているのだろう。
吉丸は動かなかった。動けなかったのか、動かなかったのか、自分でもよくはわからない。ただ太刀を構えてその場を、誰をでもなく、場を、睥睨した。手がわずかに震えていた。
首魁狐もまた、動かなかった。首魁狐のほうこそ、動けなかったと言うべきだろう。睨みつけようとしているのか縋ろうとしているのか、とにかく何か必死な念が込められた若狐の面が不気味なほどゆっくりと吉丸に向けられた。顔を、いや、彼もしくは彼女という存在のすべてを吉丸から隔てる狐面の下から、いつか見た黒々とした瞳が覗いていた。
「とどめだ」
向かい合っていた男の一人が太刀を振り上げた。首魁狐は覚悟に体をこわばらせた。
刹那、吉丸はなぜか、斬られるのは首魁狐なのではなく自分なのだと思った。あの体の中で脈打っているのは、たとえ一滴ほどの量ではあったとしても、紛れもなく自分の肉から成った血潮なのだと……荒唐無稽な夢だとばかり思っていた「食われて、ひとつになる」という倒錯は、もうすでに現実となっていたのだということが、そのとき忽然と示された気がした。
腹の中で小指が分解され溶解し、吸収されてゆくとともに、女の体の深奥から染み出す官能にわななく阿夜の姿が、鮮やかな色彩で脳裏に刻みつけられていく。
気がつくと吉丸は、今まで味わったこともないような幸福感に胸がひたされゆくのを感じながら、首魁狐の体を抱えて屋敷の廊を走っていた。
「あっ! お味方が!」
「裏切りだ!」
「追え! 追えぃ!」
といった怒声は、すでに背後のものだった。彼は怒涛の勢いに思わず道を開く男たちの白刃を潜(くぐ)って廊を抜けると、一散に裏門に向かった。立ち塞がる相手がいれば、斬った。
裏門はもう警護の数も少なくなっていた。門番を蹴り倒し外に躍り出る。小路の先には、建ち並ぶ棟々の影が雪片の向こうに薄黒くぼやけながらも、吹きすさぶ風に耐えて粛然と広がっていた。
見えるものすべて、雪明りにぼんやりと白い。
首魁狐が肩の上で苦しげに呻いた。抱えられた所が腹の傷に当たっていたのだろう。下ろすと、吉丸の肩にも腕にも血のあとがべっとりと残っていた。吉丸はかわりにその手首を掴んで走り出した。
大晦日に近い京は、常ならば夜とはいっても賑々しい。辻々に焚かれた篝火が人々の酔態や、いでたちこそ恐ろしげだが洛中警備の兵のどこか浮かれた足どりを、夜半過ぎまで照らすものだ。しかしこんな吹雪となったからには人の気配もなく、残された篝火だけが茫と煙るばかりで、二人が彷徨い走る今夜は、どこかこの世ならぬ場所のように見えた。
吹雪のすさびをかき分けて、追っ手の低く猛々しい声が届いてきた。吉丸は首魁狐の手首をさらに強く握った。と、時をそれほど違わずして、今度はどこからか、狐の鳴き交わす声が雪の空高く吸い込まれていくのが聞こえた。
狐は一匹や二匹ではないようだった。あちこちから何匹もで、まるで何か伝えるように長く尾を引く声を投げかけ合っている。吉丸はたかが狐の鳴き方に、こんなにもたくさんの種類があることを知らなかった。歌うような高い声、威(おど)すような低い声、太い声、か細い声。それらの声が、しらじらと暗く光る空の上で凛然と交錯していた。
駆けてはいるが、どこへとて行くあてがあるわけではない。破れ家でも荒れ堂でも、わずかな間でも身を隠し寒さをしのげ、傷の手当てのできる場所を見つけられれば、そこに入るつもりだった。首魁狐は傷の苦しみに何度もまろびかけた。が、そんな中でも、空いたほうの手で、自らの面だけはしっかと押さえ続けていた。衣は破れ、疲れ果て窶(やつ)れ果てた姿は、息も荒く見るも痛ましい。しかしまるで、面さえ落とさなければ、すぐにすべての救いが自分に齎(もたら)されるのだと一途に信じてでもいるかのように、表情を変えぬ狐の面に血に染まった手を押し当てていた。
そのうちに首魁狐は、辻々に差し掛かるたび、面に当てる手を注意深げに離しては物言わぬ指で進む道を示すようになった。どこかへ導こうというのか。だがいったい、どこへ。しかし吉丸は指されるままに走った。雪と篝火に濁されて永遠に明けないようにも思える夜を、細い手首を曳いてひたすらに走った。
疲れのせいか焦りのせいか、吉丸は走るうちに、今が現(うつつ)ではないような気がしてきた。かと言って夢や幻を見ているようかと訊かれれば、そうとも言い切れない。互いに侵食を始め、入り混じろうとしている現(うつつ)と夢との今にも崩れそうな境界線の上を、彼は首魁狐と二人きりで走っているように感じていた。地を這って追ってくる人の声はなお止まず、狐の鳴き声も空に響いていたが、それもいつしか幻聴に変わっていたかもしれない。
何度目かの辻を曲がったときだった。ふと、掴み返される手首に痛みを感じた。
振り返って、ぎょっとした。首魁狐の袖から覗く腕から手の甲にかけて、針のように細い真っ白な毛が生えて、雪に濡れていた。痛みを感じたのは、その鋭く伸びた爪の先がわずかに突き刺さっていたからだった。吉丸はこれは錯覚だろうかと一旦目を離し、振るい落とすことも忘れていた睫毛の雪片を拭った。そして再び目を向けると、そこにはもうあの獣の手はなく、人の小さな手が何も知らぬげな顔をしているばかりだった。
(続く)
10.11.11更新 |
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