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【8】終わらない狂気

「そうでしたわね」

あくび混じりに言った阿夜のほうも、そんなことは頭からすっかり抜けていたように見える。大したことでもないとでも言いたげなその様子に、吉丸は思わず苛(いら)っとした。

――何のために、俺がここまで耐えたと思っている。

外は、夏の朝の雨が降っているのだろうか。蔀が下がったままなのでよくはわからないが、吉丸が黙り込んで部屋がしんと静まると、雨が屋根に当たって滑る音が聞こえた。今また規則正しく整い始めようとする阿夜の寝息が、その音を追う。

「言えよ、すべとやらを」

痛みが気を逸らせたせいもある。語気が少し荒くなった。

しかし阿夜は

「まだ言えませんわ」

吉丸の苛つきに気づかないのか、気にしないのか、閉じてしまった目を開けようとすらしない。

「まだ?」
「そう。まだ、まだ……」

阿夜はふふと笑いながら、歌うように囁いた。寝ぼけているようでもある。そのまま、眠りに落ちようとしていた。吉丸は怒りに歯を噛み締めた。

だが……彼はその怒りをどう扱っていいものやらわからなかった。このまま阿夜を起こしてしつこく訊き続けるか、さもなければいっそ張り倒すという手もありはするのだろうが、そういう手段で解決をしたいとは思わない。そういうことができる自分であれば、最初からこんな苦労などしなかっただろうとは思うが、どうしても選択肢の中から選ぶことができないのだからしょうがない。

吉丸は眠ってしまった阿夜の横に、むすっとしたまま腰を下ろした。その拍子にまた背中が痛んだ。確かにこの傷では、少なくとも今日一日は休んだほうがよさそうだ。

――まぁ、こんな傷を負ったのは逆に幸いと言えば幸いかもしれない。賊にでも襲われたとか何とか言い訳ができそうだ。

吉丸はそう考えることにして、もう一度うつ伏せになった。

それでも胸中の苛つきはなかなか収まらない。眠りにつくこともできず、付き合いたくもないその苛つきにしばらく付き合っているうちに、吉丸は段々それが阿夜に向けられているのか、それとも阿夜に強く出られない自分に向けられているのか、よくわからなくなってきた。東国から京に出てきてずいぶん経つのに、いまだに京の手弱女(たおやめ)を前にするとどうしても萎縮してしまう。これがお伽噺なら滑稽ながらも美談にはなるのだろうが、いざ自分の身がそうであってみるとこれはなかなかやりづらいものだと、吉丸はつくづくとため息をついた。阿夜といると今までにも増して自分は弱くなったように感じる。それは咀嚼や指を噛む様に惹かれたりだとか、笞で打たれたことが肉欲に結びついたりだとか、今まで知らなかった熱情を知ったからというせいも間違いなくあるだろう。何か許されないことに否も応もなく巻き込まれて、頭の中身を少しずつ書き換えられているような感がある。

――もう、俺は俺がよくわからん。これも業というやつか。

吉丸は阿夜の頬に手を伸ばして、そっと触れた。薄い皮膚だった。吉丸はその頬を、壊れやすい舶来の陶磁器でも扱うかのように撫でた。阿夜の顔は、刀や弓矢を握り続けてきた無骨な手の中にすっぽりと収まってしまうほど小さい。この虫も殺せなさそうな柔肌の内に、自分を翻弄する、卑しくも火傷しそうに熱い乱倫の気が渦巻いているのだと思うと、その小ささは余計に愛おしく感じられた。

不意に長い睫が可憐にふるりと揺れ、寝ていたと思った阿夜の目がぱちりと開いた。

「吉丸さまのそういうところが、私は好きなのです。私の見る目は間違っておりませんでした」

まるで吉丸の心を読んだかのように阿夜は悪戯っぽく笑って、頬の上の大きな手をそっと握った。

吉丸は思わず手を引っ込めた。顔がかっと熱くなり、背中の痛みを一瞬忘れた。



翌日は屋敷に戻ろうと思っていた吉丸だったが、傷はそれほど浅いものではなかった。が、いい言い訳を思いついていたこともあって、以前ほどは焦っていなかった。

三日ほど経つと、傷はいくぶんかおさまってきた。雨は相変わらず止む気配もなく降り続いていた。夏の雨は気を鬱々とさせたが、ゆっくり体を休ませるのにはむしろ良かったかもしれなかった。

阿夜は相変わらず吉丸に「竈の土を煎じた」とかいう苦い飲み物を飲ませた。土だからか、妙に生臭い上に飲もうとすると喉にどろどろと絡みつく。そんなものが傷を癒すのに効果があるとは吉丸は今まで聞いたこともなかったが、回復具合を見る限りはまったく効果がないとはいえないものにも思える。もっともその前に、もともと丈夫な体であることのほうが大きいのだろうが。

傷の具合がよくなってきたからには、言い訳があるとはいってもいつまでもここでのんびりしているわけにはいかない。阿夜はまだ「すべ」とやらを言う気はなさそうだし、だとしたら少しでも早く屋敷に戻ったほうがいいだろう。だいたい言い訳が通じるかどうかはまだわからないのだし、同輩の顔を思い出すと長々とのんびりとしていることにも気が引けてきた。冷静になって考えてみると、「すべ」というのは吉丸をとりあえずその場に引き止めるために咄嗟に言った出まかせだったのかもしれないとも思えた。

ところが、である。

その日の夜、明朝には屋敷に戻ろうと思っていることを話すと、阿夜は自分のことは棚に上げて、癇癪を起こしたように騒ぎながら大泣きをした。

「せっかくもうしばらく、一緒にいられるかと思いましたのに」

大粒の涙をぽろぽろとこぼされながら訴えられるのは決して悪い気分ではないが、だからと言って「ならば、今しばし」と延ばし延ばしにしていたらきりがない。吉丸は怒るよりももう呆れてしまって、

「そう泣いてくれるな。いろいろと片付けごとをしたら、またすぐに戻ってくるから」

と猫を撫でるような声を出してみせたが、阿夜のほうはてんで耳を貸さない。頬をすり寄せようとする吉丸の顔を引っ掻き、腕の中でもがき暴れる様は半狂乱の態だった。

いったい阿夜という女は、人を翻弄したり、傷つけたり、はぐらかしたりを日々の営みのようにするかと思えば、このように突然暴れ出したりもする。そこにはどんな意図が潜んでいるのか今ひとつ掴みづらいが、単に男が自分の言いなりでいる状態が好きなだけなのかもしれないとも思う。

しばらくしてやっと泣き止んだ阿夜は、赤くなった鼻をすすりながら吉丸を見上げた。

「それなら、もう一度帰れない体にするまでです」
「もう一度?」

ぎょっとして、阿夜を抱いていた手から力を抜いた。その隙に阿夜はするりと吉丸の腕を抜け出す。

「先と同じことを、同じだけの数、もう一度致します。それに耐えられたら、お好きになさいませ」

阿夜の顔は挑戦的ともとれる笑みに歪んでいった。澄んだ水面に石を投げ水が濁っていくように、清楚な面立ちに、禍々しいほどに凄絶な美しさが広がった。

「げっ」

吉丸は声をあげた。あの笞打ちをもう一度されるというのか。勢いづいて言ったことかもしれないが、言った以上はそうしなければおさまらないだろう。

一気にどんよりと淀んだ空気を挟んで、しばらく二人は睨み合っていた。だが、

「……わかった」

先に観念したのは、吉丸のほうだった。

気は強くはないし、こうと決めるまでは情けないほどに迷うが、仕方がないと一度腹を据えたら汗馬の如き疾駆も厭わないところのある彼である。だからこそ今のような状況に陥ったのでもあるが、それはさておき、

「受けてやろう」

肩を落として溜息をつきながらも、きっぱりと答えると、阿夜は

「まぁ、頼もしゅうございますこと」

わざと意地悪げに微笑んで、吉丸の腕を両手で包むように掴んだ。白魚の指のひと姿勢(しな)さえ匂い立つようなのに、これからやろうとしているのはちゃちな罪人に処すよりもよっぽど酷いことである。

阿夜の手は一見するとたおやかだったが、力は見た目よりずっと強かった。そのまま吉丸を立ち上がらせ、離れに曳いて行く。

そこには、前と変わらず磔台がでんと構えていた。

――あぁ、まさか、こんなに早く再会することになろうとは。

吉丸は着ているものを剥がされると、また同じように手足を括りつけられた。空気に直接触れると、背中が少しひりついた。前回は打たれたのは健康な皮膚の上だったが、今度は癒えかけの傷の上に笞を振るわれるのだと考えるとぞっとする。

傷は吉丸自身には見えなかったが、赤を通り越して青黒く貼れ上がり、肉が苔のひとすじ、ひとすじの形に盛り上がっていた。出血があった部分は瘡蓋で覆われかけ、茶色くなっている。

「そう言えば、先のときは幾度ぐらい打った?」

吉丸は尋ねた。その回数終われば放たれるのなら、到達するまで、念珠を爪繰るように数えようではないか。

「さぁ、たぶん八十ほど」
「やそだと!?」

吉丸は思わず甲高い声をあげた。

「はい、そのあたりで吉丸さまが妙なお声を上げられたから、止めたのですわ」
「妙な声って、お前……」

阿夜は淡々としていたが、その涼やかな声の芯には、炭の内部でひっそりと燃える炎を思わせる押し込めきれない熱が潜んでいるように思えた。

(続く)

上諏訪カヤハ フェティシズムと日本史と妖怪・人外と幻想文学をこよなく愛しすぎて、 全部足さずにはいられなくなった水瓶座・A型。 好きな歴史上の人物は世阿弥。
上諏訪カヤハ公式ブログ「上諏訪山→」
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大往生ジダラク 2010年より少しずつ活動開始した新米絵描きです。1988年生まれ。和モノ怪奇モノ大好物です、座右の銘は【いやらしければなんでもいいわ!】です、宜しくお願いいたします。
大往生ジダラク公式サイト=「大往生のジダラク生活」
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10.08.26更新 | WEBスナイパー  >  口中の獄
文=上諏訪純 | 絵=常春 |