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夜9時の鐘が鳴るまでに……男と女がたどりついた愛の場所で――
イタリアの南トスカーナ地方で出会った男女。彼らが夫婦に間違われたことから始まるラブストーリー。『桜桃の味』で第50回カンヌ国際映画祭パルムドールに輝いた巨匠・アッバス・キアロスタミ監督が、初めてイラン国外で撮影。本物の夫婦を演じているうちに少しずつ互いの心情を変化させていく一組のカップルは、最後に何を見るのだろうか。2月19日(土)より、ユーロスペースにて公開!(全国順次)
大体において、まずトスカーナの街と、2人の中年の男女しか映っていないのに、え? あれ? え?と惹き付けられ続けるテンションが凄い。普通に会話が続いているだけで、たとえば映画のターニングポイントともなる喫茶店でのシーン、カメラが切り替わった瞬間に、ハリウッド映画で言うなら兵器工場が爆発するくらいの衝撃に襲われる。いやただ、机に2人の男女が座っているだけなのだが。
けど確かに日常生活においては、工場が爆発しなくてもたとえば、相手が自分の話に対して予想を全く超えた反応をして来たら衝撃を受けるだろうし、この映画にはつまり、日常における感触がまずとてもよく詰まっている。
たとえば、地下室に下りていくシーン。観ているだけで、湿って少し冷えていてカビっぽい空気の匂いが伝わってくるし、車に乗り込むシーンでは、フロントガラスを通して伝わってくる昼の光の温かさが感じられる。そういう感触がこの映画にはあって、そのうえでその合間はどこまでも概念的な「本物と贋物」についての会話で埋められていく。それはとりもなおさずこの映画の男性主人公、ジェームズが出版した本「承認された贋物」についての話で、それがこの映画の原題だ。
ジョージの説をかいつまんで話せば「本物と贋物という区別は曖昧で、認められた贋物というものもあるし、本物も元を正せば世界の贋物(コピー)だ」というもの。ミロのヴィーナスは、ダヴィンチがモデルとした夫人のコピー(贋物)だし、300年前にミラノの職人が作った「『紀元前ローマ時代の壁画』の贋作」は本物の贋物として美術館に飾られている。さらに、子供の意見は一笑に付されるが、同じことを哲学者や作家が言うと人はありがたがって聞くとか、単純な夫を愛し、楽することが人生で一番大事と信じる妹は正しいかとか、対話は手を替え品を替え続いていく。
やがて気になってくるのはもちろん、この2人の関係自体はどうなのかということで、2人の会話はやがて哲学的な話題から自分たちの話へと移り、真偽を審判していた彼らは一転、逆に観客によって真偽を推し量られる対象へと変わっていく。
そうして続いていく本作なのだが、なによりこの映画の女の最後の台詞はすごかった。これこそ本物だ。あんなにハッとする台詞、それもそれ自体を取り出してみれば何の意味もない言葉なのに、そこにあそこまで力を持たせたというのは、その言葉がこの映画の100分を経て発せられたからだ。
今までの本物と贋物についての概念的な会話、そして一方の光や空気といった身体的なもの。その全てが見事にこの最後の一言に集約して、急にある真実が目の前に現われる。そこには真実のハッとするきらめきがある。その一言がまるで、自分の思い出のように体の中に入ってくる感じだ。
日常から始まり、全てがあやふやになっていき、そして最後に突然真実を観せられて夕方の鐘が鳴る。2人の男女のわずか1日の出来事を追った本作は、緻密な計算とそれを突き抜ける情感に満ちていた。
ところで観終わって気づくのは、この映画にはイランの要素が全くないということだ。今まで長篇劇映画は全てイランで撮影して来たキアロスタミ監督なのに、本作のイラン要素はといえば作家がとってつけたように呟く一片の詩だけ。傑作だけど、キアロスタミの映画だということを忘れてしまう、まるでもう1度別の巨匠が誕生したように感じたのはそのためだ。
宗教革命以後の現在のイランは、検閲が厳しく映画を自由に撮ることができない状況だという。そんな母国をついに離れ、ヨーロッパ資本、フランス語のイタリアロケで撮られた本作。出来上がった完璧なヨーロッパ映画に「承認された贋作」という名前を付けたのは、キアロスタミ監督のイラン人としての矜持なのだろうか。
文=ターHELL穴トミヤ
『トスカーナの贋作』
2月19日(土)より、ユーロスペースにて公開!(全国順次)
関連リンク
映画『トスカーナの贋作』公式サイト
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