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「ガンダム」世代は、どう家族と向き合えばいいのか?
結婚相手の選び方、妻の出産への覚悟、育児・教育の苦労。 数々の偶然のぶつかりあいの産物である家族とは、ちっとも安らぎの場ではなく、むしろ「修業」の場所だ――。 『機動戦士ガンダム』『伝説巨神イデオン』『ガンダムF91』『ブレンパワード』『リーンの翼』など数々の名作アニメをその生みの親が自ら解読しつつ語る、家族の未来像。
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危機の中で作り続けるために

『「ガンダム」の家族論』は、富野由悠季が自ら語る集大成的な監督作品解説であるとともに、いっぺんの社会評論として読むことができる。すると、いかに富野作品が一貫したメッセージのもとに描かれていたのかと舌を巻く思いに駆られるのだが、他方でそこに込められたメッセージそのものの有効性については疑問に付さざるを得ない。あまりにも封建主義的すぎるからだ。よくも悪くも凝り固まった、御年七十を数える頑固親父の提言を、そのまま受け入れることは難しい。

たとえばその分かりやすい事例として氏のスカイプ批判が挙げられる。これはスカイプというよりも、それを入り口にツイッターやフェイスブックなど、流行のネット・アーキテクチャを、ひいてはインターネット社会そのものを批判したものだ。確かに、ある種の虚業であることが間違いないインターネット産業が、土着的な第一次産業を無闇矢鱈に一種の投機の材料にしてしまう状態は、資本主義の公平な結末であるとはいえ、問題なしとは言えないだろう。実際、この最高に過激な形として投機で国家を転がしてしまうヘッジファンドや個人投資家たちのマネーゲームが存在し、富野自身スカイプ批判の直前にマネー経済批判を行なっている。それだけなら傾聴すべき正統性に満ち溢れているのだが、彼はスカイプについてはこう言ってしまう。
僕自身、スカイプを使って海外に暮らす幼い孫と話をすることはある。確かに便利だ。
だがそれを『進歩』であるとか、『素晴らしい』とはなかなか思えない。
なぜか。たとえばあなたにも、電話の声だけだって不愉快になる相手はいるだろう。そこに顔まで見せる機能をつけてどうなるというのだ。
僕の場合は、老人が一方的に孫を愛でるという関係だからこそ、スカイプというテクノロジーがかろうじてプラスに成立しているだけ。これで孫がもう少し年をとって『じいちゃんの顔なんて見たくない』と思えば、孫にとっては、ただのうっとうしいツールにしか過ぎなくなる。そういう認識だから、スカイプも納得しがたい抵抗を抱えつつ使っているというのが正直なところだ。
(18頁)
しかし、この批判はさすがに言いがかりもいいところだと言わざるを得ない。これは、単純に外国のように遠くにいる人物と安価にかつ日常的に会話することを可能にしてくれるスカイプに対して、「孫が私のことを気に入らなくなったらしゃべってくれなくなるかもしれない、それに対してスカイプはどういう対策を講じているんだ」とでも文句を言っているようにしか見えないからだ。しかし、当たり前だがそれは技術の問題ではない。

これが下記のような話だったらまだ分からないでもないのだ。なるほど、遠隔地にいる人物と会話できるツールは確かに便利だ。しかし、電話的なものだけでは不可能な質のコミュニケーションが存在していて、もし携帯電話やスカイプのようなものを使うことで、身近な友人や家族を無視し、遠くの都合のいい他人とばかり交流していたら、つらい現実社会に対応できない人間ばかりが生産されてしまうのではないのか。気に入らなくなったら切断すればいいスカイプ的なものではなく、切ろうとしても切れないし切りたくても切ってくれないような濃密な関係性こそが健康な人間を育てるのではないのか。

実際、想像で大きく補っているとはいえ、本書全体を通読してみれば、富野が言いたかったのはそういうことではないかと思われる。それを裏付けるのは彼の結婚観だ。彼は、結婚を修行の場と捉えている。というのも、結婚こそが、気に入らない相手としての他者と生活を共同することで社会的責任を担い、もって社会を支えることとなるからだ。より簡単に言い換えれば、結婚によって鍛えられなければ、(社会を担えるような)強い人間にはなれないということだ。現代における恋愛結婚が破綻しやすいのは、そもそも結婚に誤った幻想を抱いているからなのだ、とすら彼は言う。そんな彼が推奨するのは見合い結婚の復活である。確かに、徳川慶喜と和宮のように、見合いでも上手く夫婦生活が営まれている例はいくらでもある――というより、かつてはそれが多かっただろう。そうでなければ歴史が円滑に現代にまで至っていたはずがない。富野自身、最初から恋愛で結婚するつもりはなく、経済的にシビアな認識を持っていたという理由を決め手に現在の妻と結婚し、その人を好きになるために十年間努力したというのだ。彼がその妻と四十年以上連れ添っていることを考えれば、説得力を感じないわけにはいかないだろう。

ところで、このような思想信条は、確かに現下の社会的衰退を考えれば非常に学ぶべきところが多いのだが、それ自体としては反動的な見立てであることを逃れ得ない。というのも、ある種のフェミニズムやウーマンリブ的な運動、あるいは自由主義の蓄積が、富野が一見体現しているかに見える封建主義的なものを解体するに至らせたのが歴史の成り行きだからだ。学ぶべきところが多いことと、その信条をそのまま社会に採用できるかはまた別問題である。まして、新しいのが駄目だったから古いのに戻ろう、などという短絡的発想が有益とはとても思えない。もしも富野の歴史に学ぶのなら、我々はそうならないようにこれを読まなければならない。戻るのではなく、先の方向へ進むものとして。

そうなったときに光る記述がある。それは擬似家族批判と病気批判であり、しかも両者がリンクしている。富野は、流行の擬似家族というモデルを批判する。なぜなら、それは偶然に晒された家族の他者性から逃げ出して、都合のいい等質的な共同体を作り出すことだからで、そしてそれは安定的に見えて不安定であるがゆえに病気に至ってしまうという見立てを語っている。一般に擬似家族モデルというのは、そもそもの発端である家族モデル自体が崩壊しているがゆえに求められた潜り戸、オルタナティヴであるから、これに対して家族モデルが優位であるということは本来は難しいのだが、しかし、富野の結婚観から考えればこれはなるほど一貫している。結婚とそれが生み出す家族という他者の経験こそが人間と社会を支えるのであり、擬似家族ではその経験が与えられないがゆえに早晩社会が崩壊することとなる。従って家族モデルが復活しなければならない。そのためには見合い結婚が重要である。結婚を困難に思わせる「恋愛」の問題など、そもそもが擬似問題でしかないのだ――。

そうはいっても、と若い読者は思わざるを得ないだろう。実際、富野が批判するネット的な領域では非モテ的なアイロニーが蔓延している。富野はほとんど、恋愛は病気だ、病人では責任は担えない、ということを言ってしまっているように見えるが、ネット上の言説にはしばしば、恋愛から疎外されているにも拘らず社会的責任からも同時に逃避しているもしくは疎外されているようなニート的リアリズムが響いている。そのこと自体が富野のネット的なリアリティに対する批判的な立場の一因になっているのかもしれないが、ともあれ、社会はそうそう簡単には転がらないようである。

実際、いま誰が社会的責任を担っているのか、と誰もが思っているだろう。終わらない日常の中では、誰しもがそれなりに生活を営んでいることによって社会的責任も担っているような気分でいられた。しかし、東日本大震災以後の世界において現前しているのは、まさに戦後日本を思わせるような「無責任の体系」である。すでに誰もが知っていたが、大文字の社会的責任を担うはずの政治は完全に麻痺し、今もなお日本列島を蝕む原発問題は責任がたらいまわしにされながらただ時間だけを消費し続けている。

実は、奇妙なことだが、前述したスカイプ批判の後に富野がすかさず行なっているのは原子力発電の批判である。
この虚業の跋扈は、原子力を思い出させる。
原子力という恐ろしい力を手に入れてしまった人類が、それをなんとか、"平和"に使おうとして原子力発電を行っているような、そういう危うさを感じる。しかも放射性廃棄物の行く末など思い至ることもないままに。それを英知と呼べる気はしない。
人類は今現在、まさにそういう歴史を歩みつつあるのだ。
(18-19頁)
この、唐突な割に奇妙におとなしいトーンを鑑みるに、恐らく序盤の収録は震災より前に行なわれたのではないだろうか(なお後半には震災に関する言及がある。ただし呼称が「東北関東大震災」だったので、収録は3月中だったのではないか)。しかし、それゆえに我々はこの記述の意味を正確に読み取ることができる。本当なら、スカイプから原子力につなげるなどという暴力的なことはありえないし、どう見てもスカイプをダシにして、よく分からない技術一般を批判したがっているだけなのだが、まさにそのような身の丈に合わない技術の最たるものとして原子力が存在していたことを、いまや批判できる人間はいないのだろう。

原発対応の批判は本書の役割でも本書評の役割でもないのでこれ以上触れないが、しかし、震災によって富野的な危惧が浮き彫りになったことは確かだ。それは技術の問題だけではない。社会を担う健康な人間の問題だ。これは科学の暴走などではないから、いきなり爆発が起きるように崩壊はしたりしないが、しかし、むしろこの健康さ――責任に耐えうる骨太さのようなものが期せずして問われてしまっているのが震災後の状況ではないだろうか。というのも、この不意に訪れた全方位型の障害は、まさに我々にとって他者である。企業の倒産、食品の汚染、家族の負傷......当然だが、全て、直面したい人などいるはずがない出来事である。

もちろん、現下の状況に対する処方箋を、性急に一冊の書物から引き出そうなどとするのは無謀なことだ。そういう読み方しかできないことはひどく貧しい事態でもある。このような読みからは、富野がアニメ監督だったのだという事実が忘れ去られている。

我々が省みるべきは、アニメ監督としては口数の多いほうだった富野監督とはいえ、それ以上に彼が何十年もの長きに渡って作品で語り続けていたという事実である。彼は、公的なメディアとして「観客を"病気"にする作品を送り出さない」という信条を持ち続けていた。彼曰く、「"病気"とは、人の心が内向きへと強化され、外へ向けて開かなくなってしまう状態のことを言っている」とのことだ。実際、富野の作品は、たとえば『機動戦士Zガンダム』や『機動戦士Vガンダム』『伝説巨神イデオン』など、ある意味でそこに足をかけていながらも、決して『新世紀エヴァンゲリオン』にはならなかったと言えるだろう。さらに言えば、なるほど後年の富野作品は『ブレンパワード』や『OVERMAN キングゲイナー』に見られるように、まさに対病気として健康を支え応援するような方向を推し進めていた(『ブレンパワード』に登場するロボットはアンチボディ=抗体と名付けられている)。それは確かに彼の思想信条において一貫している。その一貫性は、彼が作品を作り続けたことによって示されている。

震災というクライシスのただ中にいるとき、人は、思想など無意味なのだとも思うし、逆に、今こそ思想が必要だとも言いたくなる。しかし、筆者が思うのは、クリエイターの社会的責任は、単にボランティアを行なうことや、政治家のように社会に直接メッセージを発することではないのではないかということだ。もちろん、どれもこれもしないよりはしたほうがいいに決まっている。しかし、そういう短期的な射程の仕事をクリエイターは生業にしているのではない。作品を作るということは、もっと長い射程の仕事である。その長い射程の中で、作品を作り続けられるということ。その作品それ自体は社会に何らメッセージを発信していないかもしれないが、そのような作品が在り続けているということは恐らく希望である。富野は言う。自分は、三百年先の未来を考えて作品を作ってきた。しかしながら、本当は、それでは足りないのだ。読者よ、十万年後の世界を想像せよ、と――。

文=村上裕一

『「ガンダム」の家族論 』(ワニブックスPLUS新書)

著者=富野由悠季

価格:840円
ISBN-13:978-4847060335
発売:2011年04月15日
出版社:ワニブックス

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『突然、僕は殺人犯にされた〜ネット中傷被害を受けた10年間(竹書房)』著=スマイリーキクチ

村上裕一 見習い批評家。「東浩紀のゼロアカ道場」優勝。例の本については2011年中に出版予定。
twitter/村上裕一
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11.06.19更新 | レビュー  > 
文=村上裕一 |