Special issue for Silver Week in 2009.
2009シルバーウィーク特別企画
『彼氏彼女の事情 21』著者=津田雅美 発売=2005年8年5日 出版社=白泉社
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 : 破』に端を発する
鼎談:泉信行 x さやわか x 村上裕一 2010年代の批評に向けて 第二回
ゼロ年代も残すところあと3カ月あまり。世に溢れる多種多様なコンテンツの中でも、アニメに対する関心度が一際集まる10年間だったように思います。そんなゼロ年代の最後の年に公開された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 : 破』。この作品を通じて行なわれた批評家たちの熱い対話の軌跡を全3回の特別企画としてご紹介いたします。
編註:この鼎談が行なわれた経緯は、泉信行氏がブログ上でさやわか氏のエントリについて言及した際に、さやわか氏がコメント上で「一度ゆっくり意見を交わしたい」と言われたことに端を発し、泉氏が日程を調整中のところ、時期の重なる夏コミ3日目の評論島にて村上裕一氏に話しかけられ、泉氏が村上氏をさやわか氏との会合にお誘いしたことで2009年8月22日に秋葉原にて実現したものです。 その際に録音されていた音声データをWEBスナイパー編集部が再構成を行ない、出席者の方が加筆修正された原稿を鼎談記事として掲載しています。
2009シルバーウィーク特別企画
『彼氏彼女の事情 21』著者=津田雅美 発売=2005年8年5日 出版社=白泉社
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 : 破』に端を発する
鼎談:泉信行 x さやわか x 村上裕一 2010年代の批評に向けて 第二回
ゼロ年代も残すところあと3カ月あまり。世に溢れる多種多様なコンテンツの中でも、アニメに対する関心度が一際集まる10年間だったように思います。そんなゼロ年代の最後の年に公開された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 : 破』。この作品を通じて行なわれた批評家たちの熱い対話の軌跡を全3回の特別企画としてご紹介いたします。
編註:この鼎談が行なわれた経緯は、泉信行氏がブログ上でさやわか氏のエントリについて言及した際に、さやわか氏がコメント上で「一度ゆっくり意見を交わしたい」と言われたことに端を発し、泉氏が日程を調整中のところ、時期の重なる夏コミ3日目の評論島にて村上裕一氏に話しかけられ、泉氏が村上氏をさやわか氏との会合にお誘いしたことで2009年8月22日に秋葉原にて実現したものです。 その際に録音されていた音声データをWEBスナイパー編集部が再構成を行ない、出席者の方が加筆修正された原稿を鼎談記事として掲載しています。
■旧『エヴァ』における他者の象徴、惣流・アスカ
村:「気持ち悪い」の起源といえばアスカのお風呂シーンなんですが、これはもともと『シト新生』のDEATH編に追加された場面です。DEATHは紆余曲折を辿ったテクストで、無印(映画)、TRUE(WOWOW版)、TRUE2(ビデオ版など)の3バージョンが存在します。バージョン違いの最大の差分は今言ったアスカのシーンの有無で、TRUE以降は消えています。じゃあ消えてどこいったかというと、ビデオ版の弐拾弐話に挿入されているんですね。ということでそのシーンは単なるイメージではなく物語の時間軸に組み込めると思うんですが、そこで「気持ち悪い」というセリフが出てきます。何が気持ち悪いんだといったら、まず風呂の水を抜きながら「ミサトやバカシンジの浸かったお湯なんかに誰が入るもんか」と。そんな調子で洗濯機、トイレと来て、とうとう同じ空気すら吸いたくないと言い、最後はお腹を押さえて「自分が一番イヤ!」。お腹は生理のイメージですね。こういう日常生活のコミュニケーションから沈殿してきた「気持ち悪」さが、最後のアスカのセリフに残響していると思います。
泉:これ言うとみんなに変な顔されるんですけど、僕は『旧エヴァ』のラストをハッピーエンドだと解釈してまして。
さ:それはめちゃめちゃハッピーエンドでしょ。あれはそういう話だもん。
泉:ラブラブですよね。
村:え!? 待って待って、ラブラブ?(笑)
さ:ラブラブではないでしょ(笑)。なんでラブラブ? あ、人と人とが融合してないってことに意味があるという意味で?
泉:旧劇場版の中でアスカが「あなたのすべてが手に入らないなら私何もいらない」って言いますよね。首をしめられたあとにシンジの顔をなでるんですよね。
さ:気持ち悪いけど寄り添わざるを得ないというのが美しい物語なんですよ。あれは本当にベストだなと思って。
村:ベストです。でもそのベストを説明する論理を立てると人によって違う気がするんですよね。確かにほほをなでてる、ないてる、その実アスカは「なんでこいつ泣いてんの?」とか素で思っているのかもしれない(笑)。
泉:極端にいうとプレイなんですよ、あれは(笑)。
村:それは整合性を担保できる唯一の論理かもしれない(笑)。
泉:だってシンジがオナニーしながら「僕のことバカにしてよ」ってお願いしてたわけで。じゃあ「気持ち悪い」って言ってやれと。
村:庵野がみやむーに言ったんですよね。「夜中に窓から男が入ってきて、黙ってオナニーされていたらどう思う?」って。
さ:それでみやむーが「気持ち悪い」。
泉:みやむーも人に気を遣うタイプだと思うので、沈痛な顔して相談しにきた庵野さんを前にして「あぁ、この人はどういう風に言ってあげれば満足するのかなあ」って考えたと思うんですよね。それと同じで、顔をなでながら相手にどう言うのがいいかなってアスカも考えてると思うんですよ。あなたが言ってほしいのはバカにしてほしいんでしょ、否定してほしいんでしょ、っていうのを言ってあげてるんですよ。
さ:でもそうすると、アスカの本質の部分はまだ出てすらいないってことになっちゃう。
村:出てなくていいんじゃないですか。そこから始まっていくっていう。『幻冬舎版のエヴァ』は触れ合わないで終わってるんですよ。
さ:最終的には殺し合う結果になってしまっても、関係を切り結ぶというような美しさが描かれてもいいんじゃないのかなあ。
■新劇場版『ヱヴァ』における式波・アスカ
村:一般的に『破』を見たアスカファンはちょっと扱いのひどさに発狂しているのではないか(笑)と思いますが、アスカ好きで有名な東浩紀さんがそこをうまく迂回して評価しています。この夏に東さんが出された同人誌の記述とか口頭で聞いたことなんかを総合するとこういう論理です。『破』のアスカはよかった。なぜならばアスカが死んだことになんの必然性もなかったわけで、それは彼女が物語の外部として存在していることを意味している。それは『EoE』から貫かれていることで、だからよい。
さ:僕もそう思う。だからこそ『Q』ではなんらかのアスカに対する落とし前は必要だと思う。
村:でもこの論理は逆説的に「アスカは無駄死にだった」というストーリーを強調するわけですね。ひどい言い方をすれば、アスカは勘違いで死んでいったということです。なんかシンジが活躍していて気になるなー、と思ったらお食事会とかいってレイがシンジにモーションかけてるなー、じゃあ私も料理するかー、と思ってたら食事会の日が起動実験日だからしゃーない敵に塩を送るってことで私が被験者になるかー、ひとりで生きてきたけどこういうのもいっかなー、と思ってたら死んでしまった(かにも見える)。それは全力で物語に噛もうとしていた態度でもあるはずですが、前述の論理だとそういうことが言えなくなる。
さ:少なくとも僕が思うのは、あのアイパッチをしたアスカは、二人目ですらあってはいけないと思うんです。アスカはシンジと同じように成長というテーマを与えられたキャラクターなので、レイのように、クローンのような形で『破』を踏まえていないアスカが登場するのは好みじゃない。
村:単にレイの焼き直しになってしまうのでそれはないですよね。ただそうなると『RE-TAKE』的展開がマジでありえそうで、例えば「人でなくなる」は「破」頻出のキーワードですが、じゃあ人でなくなったらどうなるのか、使徒になるのか、ということは考えますね。そうなるとヒトとシトは違うから、そういう異種族間コミュニケーションで他者性を表現しようとしている……とか言えなくもないですけど、短絡的で嫌ですね。
泉:友達の妄想では、マリは人間を超えようとするじゃないですか。アスカは一旦使徒と融合してしまいますよね。アスカは人間であろうとする存在で、マリは人を捨ててもいいと思ってる存在。で二人がぶつかった時にアスカが「人間を捨てようとしたあなたは、人間になった私に、勝てない!」って言い始めるっていう。
さ:それはいい展開。
村:それは熱い。僕はマリがある意味で寒いと思うのは、いくら“ビースト”って言っても安全な感じがするからですね。
泉:僕はそこまで思わないかな。普通に「マリはそうやって痛みを受け入れるのが当たり前として生きてるんだな」ってそのまま受け取ってました。
さ:マリはゼロ年代的なアニメ文脈を踏まえたキャラクターなので、“モード反転! 裏コード、ザ・ビースト! ”と言ってるのは、“エキゾティック・マニューバ!”と叫んでいるのと変わらないんですよ。『旧エヴァ』は必殺技を叫ぶことができないアニメだったんですよね。せいぜい、いかにもパイロットと本部の無線通信のような形でしか、それらしいセリフしか言わせることができなかった。それが90年代的なリアリズムであって、今からすると閉塞感が感じられる部分でもある。しかしゼロ年代には必殺技を叫んで見得を切ることは、カッコいいんだからやってもいい。そこを外しちゃいけないんだと言うことが可能になっている。そういう意味があると思っています。
村:“ザ・ビースト”って語義矛盾じゃないですか、意図を外れた存在が“ザ・ビースト”なのに、裏コード“ザ・ビースト”とか言って使える選択肢になってる。あれはおかしい。
さ:そうそう、だからあれはマリという虚構性の高いキャラクターが発するセリフとしては正しいんだけど、でも虚構ならではの安全さを備えたものになっている。泉さんの話と関連させて言うなら僕はやっぱりアスカがあれを超えていくしかないはずだと思うんですよね。
■観察者の系譜 - 長門有希・綾波レイ・渚カヲル
さ:峰尾さんも似たようなことを言ってましたけど、「ポカポカする」とか言ってる『ヱヴァ破』の綾波、あれは見てるうちにすごく『ハルヒ』の長門に見えるんですよね。綾波レイというキャラクターとしては「ポカポカする」などとあの綾波が言うだろうかという議論が起きそうですが、「無口で髪が寒色系でロボットっぽい」キャラのデータベースに存在するものとして見ると何も問題ない。むしろ歓迎したいというふうに思えてしまう(笑)。『旧エヴァ』において綾波レイは固有の綾波レイであったはずなのに、『ヱヴァ破』は長門と共通のデータベースを背景に持ったキャラクターとして綾波レイを捏造している。そこも僕が『ヱヴァ破』を面白いなと思った部分です。
村:あらゆる『エヴァンゲリオン』の序盤には、シンジがふと綾波らしき人影を発見するけど、次の瞬間には消えてしまうという描写があるじゃないですか。あれってようするに、あらゆる『エヴァンゲリオン』の世界に登場してシンジを観測してくれているエンドレスエイトの長門みたいな存在のオリジナル綾波がいて、物語を祝福してくれてるのかなと。
泉:どっちかというとエンドレスエイトの長門はカヲルなんですよね。
村:ああ、そうか。
泉:ヒロインの位置にいないにも関わらず頑張って長門の位置にいるカヲル君が不憫なんですよ。
さ:みんなが相手にしてくれない。
村:でも初めて同じような境遇の他キャラクターとコミュニケーション取れそうですよね。今回はマリが生き残っているし、アスカも再登場しそうだし、で。
泉:しかし、こないだTV版再放送してたので見てたんですけど、綾波は怖いしアスカは廃人だしミサトさんも怖いしで本当に頼れる人間がいなくなったときに、スッと鼻歌を唄いながら心の隙間に入り込んでくるカヲル、っていうあのタイミングは本当に神がかってるなと。ごく自然にシンジが少年愛に走っていくという。でも新劇場版のシンジにとってカヲルはいらない存在なんですよね。
さ:誰お前?みたいな感じですよね。
泉:当時は、シンジがカヲルを必要とすることにすごく説得力がある流れだったんですよね。でも今回は全然違う流れになっている。
■『エヴァンゲリオン』の物語が内包するトラウマ
村:僕はカヲルは死にたいやつだと思ってるんですよ。多分シンジを助けることがループから外れられるミッションで、やっぱあいつ死にたいんじゃないかと。そこで葛藤してる。シンジを助けたい、でもシンジを助けるという目的をモチーフに自分が死に残りたいだけなんじゃないかって。だって長門だってこんな無限の繰り返し嫌だーって壊れていくわけじゃないですか。
さ:僕はカヲルは言葉のレベルで、メタフィクション的に振舞っていたキャラクターだと思うんです。ずっとそうやってほかの登場人物と視聴者の両方をかき回していられたのに、新劇場版ではドラマを勝手に引っ張ってしまう人が増えたせいですごくやりづらそうだなと思いましたね。特にマリとの対比でそう思ったんだけど、マリは画面に登場して動くだけでメタフィクション的な役割として機能してるんですよ。『旧エヴァ』の95年当時のフィルムにゼロ年代的なものをポッとのせてしまって、彼女が口の端をクッと歪ませて笑う描写だけでこれはほかの全員と全然違うものだなっていうふうに見えて、物語全体に不協和音を発生させてしまう。それでもカヲルは言葉の上のメタフィクションを一生懸命やろうとしてるんだけど、それは『旧エヴァ』からあったペダンティックに展開される諸々の「エヴァの謎」と大差ない。むしろそこに回収されてしまう。だから90年代的存在としてとり残されてしまっているのが彼なのかなと。
村:必死ですよね。最後の「今度こそ君だけは幸せにしてみせる」とか、ちょっと苦悶の表情とかを見てると、こいつは一体どんな苦労抱えてきたんだろうってなりますよね。
泉:リツコの話ですけど、母親の話が今回一切ないですよね。マギの中には赤木(ナオコ)博士が入ってて……ということがない設定になってるふしがあって。ということはリツコのゆがんだエレクトラ・コンプレックスもない可能性がある。
さ:『旧エヴァ』っていうのはなんでもトラウマで回収する物語だと思うんですね。宇野常寛さんが『ヱヴァ破』はアメリカン・サイコサスペンス的なものを導入していたと説明されていましたが、たしかに『旧エヴァ』の時点では幻冬舎文学的というか、登場人物の背景はだいたいトラウマで説明付けられた。逆に言えば、通して見ると全部、物語の背景は回収され得る。登場人物の内面には謎などないと言ってもいい。
泉:友達が庵野秀明のフィルムを時系列に並べてたんですけど、庵野秀明がどこでそれを乗り越えなくちゃいけなかったかっていう仮定として『式日』がある。『式日』っていうのは全部が家庭内のトラウマで回収されてしまう物語。トラウマの極北なんですよ。原因が母親によるトラウマだ、って言われてしまうと、その母親だってさらにその親がトラウマになっているわけだから、どうしようもない。その前に監督した『カレカノ』のアニメ版は未完で終わるんですけど、原作はその6年後に完結していて。原作の『カレカノ』は読まれてました?
村:僕昨日全巻読破して素晴らしいなと思いました。『カレカノ』と『エヴァンゲリオン』が関係してると思うくらい。
泉:そうそう。それが『式日』へのカウンターになってるんですよね。トラウマとか親の因果とかに回収されるのはもういい! 過去の連鎖は断ち切ることができるんだという、力強いラストで。だから『カレカノ』で使われた音楽が『ヱヴァ破』に流用されていることの意味はすごく大きくて、でもこういう文脈で語ろうとする人も少ない。
■トラウマを乗り越える津田雅美の物語
村:読んでみて、有馬と雪野の関係を追っていると、様々な困難が訪れるわけです。ところが、二人がそれを乗り越える論理というのはだいたい雪野の「でも私、有馬のこと愛してるから!」っていうようなセリフなり態度なりなんですよね。つまり本当に「愛」だけで乗り越えていっている。他の物語だったらこうシンプルにはいかないはずだけど、『カレカノ』では非常にそれがスムーズにいく。それは他の人物についても同様で、見事に全ての人物たちが愛のもとにカップルになっていく。
泉:友達はそれをつがいの物語って呼んでて。津田雅美さんの漫画は最初から全部そうなんですよ。『ブスと姫君』って話があって、4人女の子が出てきて4人が4人とも恋人を作ってあまりが出ずに終わる話。完全に群像劇で、それぞれが主人公で、恋人を作って終り×4、捨てキャラがいない。
村:平和に世界が収束していく。
泉:『カレカノ』の一対一に恋人が存在するっていう割り切った関係はすごいなって。ノアの箱船みたいな感じ。浅葉の前で宮沢が泣くんですよね、私は有馬を救うことにしたから、私は貴方を救えないって。貴方には貴方の恋人が現れてくれればいいのに、って泣いて謝るんですが、それでちゃんと出てくるんですよね。
村:そう。誰にも救えないと思っていた浅葉を救済する人物として、なんと有馬と宮沢の娘の咲良が登場する。こんなことを発想できるっていうのは本当に凄いと思います。こう言えば分かりやすいのかもしれませんが、僕は浅葉が非常に渚カヲルとそっくりだと思いました。彼らはともにコミュニケーションの外部にいて、それゆえに最もトラウマの深い有馬だとかシンジだとかいう人物と分かり合える。けれど浅葉=渚には絶対にそこで知りえた問題を解決することができない。それは裏返せば浅葉や渚たちが救われないということです。ところがそういう呪縛が、なんと浅葉のことを「生まれる前から好きだった」という人物=娘が救ってしまう。これは本当に凄い。まさに「たった一つの冴えたやり方」です。よく言えば神話的で、悪く言えばカルト的ですらあります。「カレカノ」前半は有馬と宮沢の平面的な恋愛関係のみが、つまり「彼氏彼女の事情」だけが描かれます。学校生活ということもあり、これはほとんどセカイ系的な閉塞感を覚えます。ところが後半に描かれる問題は三代に渡る「家」の問題です。つまり「彼氏彼女の事情」であったはずの有馬のトラウマが実は歴史的な問題だったということが明らかになります。そんなわけで恋愛問題とトラウマ問題の両方を解決する、いわば両方の外部からやってきた咲良によって救われるというのは論理的です。で、こうして見ると前半の「愛が全て」展開の謎が少し見通せるところがあって、あれはいわば苦難の果てにたどり着くはずの「後日談」的なセカイを描いているんですよね。そういう風に存在するはずの平穏な生活が先取りされていて、後から帳尻合わせで問題の解決が行われていく。象徴的なのは、前半の段階で有馬と宮沢のセックスがあるってことですね。普通はそこに行くまでがつらいはずなんですが、比較的あっさりとそこに到達する。ところがむしろそれが罠で、セックスによってむしろ、二人が別な人間だということがより明らかになり、問題が紛糾する。
泉:しかもあのタイミングでセックスすることでちゃんと浅葉の救いになってるのがすごいですよね。
村:そうそう。そのセックスで出来た子供が咲良なんですよね。一方の宮沢たちは妊娠によって進路が変わったり親の世代の呪縛を痛感したりするわけですが。ともあれ、『カレカノ』を読んだあとにセックスが一つのゴールであるところの美少女ゲームのことを考えると、色々と悩むところが多いんですよね。
さ:それはわかる。
村:『カレカノ』のアニメは1998年ですよね。アニメはいわゆる有馬のトラウマを放置したまま、恋愛のセカイだけで終わりました。美少女ゲームが盛り上がるのが1999年であることを考えると、それはかなり同期していたのかなと思います。他方、今いったような漫画の展開を考えると、美少女ゲーム的なものへのカウンターとも考えることができますね。
さ:美少女ゲームが臨界点を指摘されたあと伸び悩んでしまったのは、そこをしっかり扱えてないからなんじゃないかと。僕最近ちゃんとやってないんですけど。
村:何描けばいいんだって感じですよね。
さ:そうなんですよね。
■新劇場版『ヱヴァ』によって相対化されるもの・さやわか言説
さ:なぜ?(笑)
泉:だって『貞本エヴァ』は連載の順番でいうと本来新劇場版の影響を受けないで描いてるはずじゃないですか。順番として『旧エヴァ』・『貞本エヴァ』・新劇場版って時系列で並んで欲しいんです。
さ:そうなんだ。僕はライブ感を意識してというか、連載がこれだけ長期化したのもあるけども、今の『エヴァンゲリオン』が選んでることをきちんと持ち込んでるなと。
村:漫画の開始は1994年12月が初出なので、実は最も古いんですよ。アスカはひとりでガギエルを倒しているとか、使徒が足りないぞとか色々あるし、独立したコンテンツとして見たほうがいいんじゃないですか。
泉:あ、そうか。TV版のスタートと関係としては並行してるんですね。それなら新劇場版もライブな参照元としてフィードバックされるのは納得がいきます。
さ:本来あるべきものはもうなくて、参照元としてしかない。で、実際こうなるべきだったっていうのもないけど要素としてはある。あとはそれをどう選んでいくかっていうのでしかないんじゃないかと。
泉:その「実際はこう」っていうのはさやわかさんのブログで「史実」と呼ばれていたものの話だと思うんですが、お互いブログで言ってたことのメタファーが違うんですよね。
さ:そうですね。泉さんは「史実」という概念はフィクションに適用しない方がいいんじゃないかとおっしゃったんですが、たしかにフィクションは現実ではないのだから、そうおっしゃるのはわかります。ただ僕が史実という言葉を選んだのにはちょっと理由があるんです。僕はその現場で体験したとしても言語化することでそれは物語、フィクションだと思うから、だから史実はない。けど、僕はブログの中で「本来ありうべきだったエヴァンゲリオン」って言葉を使っていて、これはハイデガーの『存在と時間』の「本来性」という言葉を意識しているんです。本来性って言い方は本来あるべき、目指すべきものがあるって考え方なんだけど、そうじゃないんじゃないか。フィクションが描くべきものが夢想される状態というのは戦記において「史実に忠実かどうか」ということに近くて、それが本来性として請われるのだろうと。ところが、それが実際にはないっていうことをはっきりさせているのが『破』じゃないかなと思うんです。
村:『破』がTV版を相対化してるってことですか。
さ:そうそう、ウェルメイドな形でTV版がやろうとしたことを実演しようとしたのが『序』だったとしたら、それは本来性を目指していることになる。でも本来性というのは実は虚ろなものだから存在しないんだよっていうことをはっきり突きつけようとしているのが『破』だったんじゃないかと。
村:本来性っていいタームですよね。真の姿っていう空白のものに惹かれながら『エヴァンゲリオン』という共同体を作り上げているという。神話的ですよ。
泉:不在の中心みたいな。
さ:中心は不在でいいんですよ。
■相対化されない物語としての『旧エヴァ』・泉信行言説
泉:僕は相対化としては見ていないという立場なんです。三国志を喩えに使って、正史としての『陳寿三国志』を参照することはあっても、普通は史実まで遡って考証はしない。史実が曖昧になっていくというのも、時代が経っていくとみんな知ってるのは正史と演義だけで、じゃあ史実は、といえば地道に調べていくしかない。だから「史実がどうだとか、我々には何の関係も持たない」という指摘は、三国志においては正しい。では『エヴァンゲリオン』にとっての「史実」や「正史」とは?という話になってくる。
村:しかし『エヴァンゲリオン』で史実とは何かを言い出すのは不毛な話ですよね。それはTV版を見ればいいよって話じゃないですか。
泉:その通りです。あれを正史にしてしまいましょうよっていう。史実ではないけど、オフィシャルな歴史として正史がある。
さ:順序として最初にTV版が結末を迎えたという意味においてはそうです。でも、そこでTV版がやったことはドラマの筋書きを放棄して、物語は多用な可能性に開かれていて、内容も結末も複数化するという結末だったわけですよね。だからあれを筋書きのレベルで特権化することは本当はできないはずなんです。筋書きとして結構が付けられたわけでもないし、最初にエンドマークを打った自らの絶対性を否定する内容なのに、それが正史として扱われるという奇妙な受け入れられ方をしている。
泉:逆にいうと大抵のコンテンツは旧エヴァほどの「正史」っぽさは得られないんですよね。『旧エヴァ』は、スタッフ本人達も意図してなかった奇跡的な出来事として、大衆娯楽として語り直すことも可能な正史になった。大衆娯楽……つまり「演義」として成立させなかったからこそ「演義」の語り直しが可能だった。普通のものは最初から演義を作ろうとするので語り直しができないはずで、仮にやっても空虚になっちゃう。たとえば『エウレカセブン』がそうだと思うんですよ。最初からちゃんと作ったものへ変奏曲を入れてまたエンターテインメントに作り直してるんですけど、『ヱヴァ破』ほどショッキングな出来事じゃないんですよね。
村:『エウレカセブン』の物語内容は普通に面白いんですよ。「傑作だ!」と思った話がいくつもあります。中でも48話「バレエ・メカニック」はアネモネという他者の救済を描いた傑作話です。大雑把に言ってアネモネは『エヴァ』でいうアスカの立位置ですが、彼女が救われて本当によかった(笑)。一方、表現のレベルで『エヴァ』のゴーストにしか見えないところがあって、そこがつらかった。『エウレカ』では『エヴァ』の映像を模写したシーンがほとんど毎話数に登場しますが、非常に適当な使い方なんですね。
泉:京田監督がやる引用って意味がないんですよね。そのセンス自体は実は好きなんですけど。
さ:僕はでもあの意味のなさがすごいと思った。こっちのほうが新しいと。
泉:テクノポップの引用の薄っぺらさ。あれは狙ってもできないですよ。
村:京田監督は『序』に画コンテで参加してますが、見方によっては『エウレカ』で『序』のようなことをやろうとしたのかもしれません。『エヴァ』に似通った人物配置と、引用で構築された画面の組み合わせで、『エヴァ』と異なった帰結を引き出そうとしたということです。ただ『エウレカ』は『エヴァ』ではないので、『序』にはなれなかった。むしろ、最終話でレントンがエウレカを救い出そうと指令クラスターに殴りこむシーンは、『破』でシンジがレイを救おうとするシーンと極めてよく似ています。
さ:『エウレカセブン』は『旧エヴァ』をマジメに観てしまった人が、いかにしてそのくびきから逃れるかみたいなことをやってたのかなと。
村:僕の3つ下くらいの世代になるともう『エヴァ』が消滅していて、代わりのように『エウレカ』が語られていました。「マジで神」「オレの心に刻印を残した」と熱がある感じ。実際、レントンとエウレカが擬似家族から本当の家族になっていく物語展開は芯がしっかりしているし、表現レベルでもエキセントリックな着地をしたということで、多面的に評価されているようです。
さ:若い世代がそこになんらかの力を感じてるなら批評はそれを扱えなくてはいけないと思いますね。
【注釈】
DEATH編 :1997年に公開された、新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH & REBIRTH シト新生のうち、総集編として製作されたEVANGELION:DEATHのこと。(村)
庵野がみやむーに言った : NHK「BSアニメ夜話」第三弾の新世紀エヴァンゲリオン特集にて、ゲストの宮村優子が証言。正確には以下の通り。「「その、最後のセリフに関してはですね、これは言っていいのかどうか分からないですけれども、もし、アスカとかじゃないんですよ、いつも言われることが。もし、宮村が寝てて、自分の部屋で一人で寝てて窓から知らない男が入ってきて、それに気づかずに寝てて、いつでも襲われる状況だったにも関わらず、襲われないで私の寝てるところを見ながら、さっきのシンジのシーンじゃないですけど、自分でオナニーされたと。で、それをされた時に目が覚めたら、何て言うって聞かれたんですよ。前からもう、監督変な人だなって思ってたんですけど、その瞬間に気持ち悪いと思って「気持ち悪い…ですかね」とか言って。そしたら「やっぱりそうかぁ」とか言って。やっぱりそうかって言うか…。」(村)
『幻冬舎版のエヴァ』:『THE END OF EVANGELION 僕という記号』 著者=庵野秀明 出版社=幻冬舎 発売=1997年
この夏に東さんが出された同人誌 : 『Final Critical Ride 』波状言論+PLANETS発行
『EoE』 :『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 THE END OF EVANGELION Air/ まごころを、君に』。1997年7月19日に全国東映・東急系で公開された。「夏エヴァ」とも呼ばれる。(編)
アイパッチをしたアスカ :『Q』の予告編で登場したアイパッチをしたアスカのこと。(編)
峰尾さん : 峰尾俊彦。ゼロアカ参加者。ゼロアカサイト内に詳細なプロフィールアリ。
エンドレスエイト : TVアニメーション『涼宮ハルヒの憂鬱』作中のループするエピソード。この作中では、他の人物が繰り返しを意識していない中、ただひとり長門だけが全ての繰り返しの経験を認識している(全ての展開を見ている)。(村)
ゆがんだエレクトラ・コンプレックス : 『旧エヴァ』におけるナオコはゲンドウの愛人であり、ナオコの死後はリツコもゲンドウと肉体関係を持つという、ドロドロした関係がほのめかされていた。エレクトラ・コンプレックスとは「父親を独占しようとする娘が母親に対抗意識を持つ」関係を指した言葉だが、母子家庭らしきリツコとナオコの場合、むしろ「母親へのゆがんだ愛情」の代償行為としてゲンドウと寝ていたかのように映る。(泉)
友達が庵野秀明のフィルムを時系列に並べてた : 【映画版ヱヴァ破考察 その壱】僕たちが見たかった「理想のヱヴァ」とは?〜心の問題から解き放たれた時、「世界の謎」がその姿を現す (物語三昧)
『式日』 : 「式日(SHIKI-JITSU, ritual )」監督・脚本=庵野秀明 原作=藤谷文子『逃避夢』 公開=2000年
『カレカノ』 : 津田雅美による漫画『彼氏彼女の事情』。1996年2月号から2005年4月号まで「LaLa」(白泉社)連載された。テレビアニメ作品は庵野秀明がエヴァ後初のテレビアニメ監督を手がけた作品でもある。1998年10月2日から1999年3月26日まで放送され、原作が未完ゆえか、放送も未完のまま終了した。(編)
美少女ゲームが臨界点を指摘された :『美少女ゲームの臨界点 HajouHakagix』発行=波状言論 発売=2004年
『ヤングエース』 : 2009年7月4日に創刊された角川書店の月刊漫画雑誌。1995年2月から『月間少年エース』(角川書店)で連載されていた(ただし休載中だった)『新世紀エヴァンゲリオン』(漫画=貞本義行 通称「貞本エヴァ」)は同誌へ移籍されることになり、創刊と同時に連載が再開された。(編)
お互いブログで言ってたこと : 泉氏の言及エントリ/さやわか氏の言及エントリ
『存在と時間』 : 『存在と時間』著者=マルティン・ハイデッガー原著=Martin Heidegger 翻訳=細谷貞雄 出版社=筑摩書房 発売=1994年6月
「演義」 : 正史としての『陳寿三国志』に対して、より大衆に向けて再構成された『三国志演義』を新劇場版の喩えに用いている。(泉)
『エウレカセブン』 : 『交響詩篇エウレカセブン』。2005年4月から2006年4月に放送された、ボンズ制作によるSFロボットアニメ。放送終了後2008 年4月に劇場版制作が決定、2009年4月25日より公開された。劇場版の制作はボンズから制作を委託されたキネマシトラス。(編)
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2009年・夏!休特別企連画
ばるぼら × 四日市対談『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 : 破』
【前篇】>>>【後篇】
泉信行 1980年生まれ。漫画研究家。『ユリイカ』、『Quick Japan』誌で研究発表やコミックレビューなどをして活動中。2008年から今年にかけて発行された、私家版の同人誌『漫画をめくる冒険』シリーズ(ピアノ・ファイア・パブリッシング)に今までの研究成果が結実している。
『劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に』 [DVD]
監督=庵野秀明 販売=キングレコード 発売日=2003年11月27日
さ:アスカこそ最も近くて遠い他者で、『エヴァンゲリオン』において重要な他者はアスカしかありえないじゃないですか。アスカは完全に自分の自由にならなくて、レイみたいな母性で自分を承認してくれる存在じゃない。だから、アスカがそれでも最後に新劇場版の「気持ち悪い」って言うかどうかは大事な問題だと僕は思うんですよね。
村:「気持ち悪い」の起源といえばアスカのお風呂シーンなんですが、これはもともと『シト新生』のDEATH編に追加された場面です。DEATHは紆余曲折を辿ったテクストで、無印(映画)、TRUE(WOWOW版)、TRUE2(ビデオ版など)の3バージョンが存在します。バージョン違いの最大の差分は今言ったアスカのシーンの有無で、TRUE以降は消えています。じゃあ消えてどこいったかというと、ビデオ版の弐拾弐話に挿入されているんですね。ということでそのシーンは単なるイメージではなく物語の時間軸に組み込めると思うんですが、そこで「気持ち悪い」というセリフが出てきます。何が気持ち悪いんだといったら、まず風呂の水を抜きながら「ミサトやバカシンジの浸かったお湯なんかに誰が入るもんか」と。そんな調子で洗濯機、トイレと来て、とうとう同じ空気すら吸いたくないと言い、最後はお腹を押さえて「自分が一番イヤ!」。お腹は生理のイメージですね。こういう日常生活のコミュニケーションから沈殿してきた「気持ち悪」さが、最後のアスカのセリフに残響していると思います。
泉:これ言うとみんなに変な顔されるんですけど、僕は『旧エヴァ』のラストをハッピーエンドだと解釈してまして。
さ:それはめちゃめちゃハッピーエンドでしょ。あれはそういう話だもん。
泉:ラブラブですよね。
村:え!? 待って待って、ラブラブ?(笑)
さ:ラブラブではないでしょ(笑)。なんでラブラブ? あ、人と人とが融合してないってことに意味があるという意味で?
泉:旧劇場版の中でアスカが「あなたのすべてが手に入らないなら私何もいらない」って言いますよね。首をしめられたあとにシンジの顔をなでるんですよね。
さ:気持ち悪いけど寄り添わざるを得ないというのが美しい物語なんですよ。あれは本当にベストだなと思って。
村:ベストです。でもそのベストを説明する論理を立てると人によって違う気がするんですよね。確かにほほをなでてる、ないてる、その実アスカは「なんでこいつ泣いてんの?」とか素で思っているのかもしれない(笑)。
泉:極端にいうとプレイなんですよ、あれは(笑)。
村:それは整合性を担保できる唯一の論理かもしれない(笑)。
泉:だってシンジがオナニーしながら「僕のことバカにしてよ」ってお願いしてたわけで。じゃあ「気持ち悪い」って言ってやれと。
村:庵野がみやむーに言ったんですよね。「夜中に窓から男が入ってきて、黙ってオナニーされていたらどう思う?」って。
さ:それでみやむーが「気持ち悪い」。
泉:みやむーも人に気を遣うタイプだと思うので、沈痛な顔して相談しにきた庵野さんを前にして「あぁ、この人はどういう風に言ってあげれば満足するのかなあ」って考えたと思うんですよね。それと同じで、顔をなでながら相手にどう言うのがいいかなってアスカも考えてると思うんですよ。あなたが言ってほしいのはバカにしてほしいんでしょ、否定してほしいんでしょ、っていうのを言ってあげてるんですよ。
さ:でもそうすると、アスカの本質の部分はまだ出てすらいないってことになっちゃう。
村:出てなくていいんじゃないですか。そこから始まっていくっていう。『幻冬舎版のエヴァ』は触れ合わないで終わってるんですよ。
さ:最終的には殺し合う結果になってしまっても、関係を切り結ぶというような美しさが描かれてもいいんじゃないのかなあ。
■新劇場版『ヱヴァ』における式波・アスカ
村:一般的に『破』を見たアスカファンはちょっと扱いのひどさに発狂しているのではないか(笑)と思いますが、アスカ好きで有名な東浩紀さんがそこをうまく迂回して評価しています。この夏に東さんが出された同人誌の記述とか口頭で聞いたことなんかを総合するとこういう論理です。『破』のアスカはよかった。なぜならばアスカが死んだことになんの必然性もなかったわけで、それは彼女が物語の外部として存在していることを意味している。それは『EoE』から貫かれていることで、だからよい。
さ:僕もそう思う。だからこそ『Q』ではなんらかのアスカに対する落とし前は必要だと思う。
村:でもこの論理は逆説的に「アスカは無駄死にだった」というストーリーを強調するわけですね。ひどい言い方をすれば、アスカは勘違いで死んでいったということです。なんかシンジが活躍していて気になるなー、と思ったらお食事会とかいってレイがシンジにモーションかけてるなー、じゃあ私も料理するかー、と思ってたら食事会の日が起動実験日だからしゃーない敵に塩を送るってことで私が被験者になるかー、ひとりで生きてきたけどこういうのもいっかなー、と思ってたら死んでしまった(かにも見える)。それは全力で物語に噛もうとしていた態度でもあるはずですが、前述の論理だとそういうことが言えなくなる。
さ:少なくとも僕が思うのは、あのアイパッチをしたアスカは、二人目ですらあってはいけないと思うんです。アスカはシンジと同じように成長というテーマを与えられたキャラクターなので、レイのように、クローンのような形で『破』を踏まえていないアスカが登場するのは好みじゃない。
村:単にレイの焼き直しになってしまうのでそれはないですよね。ただそうなると『RE-TAKE』的展開がマジでありえそうで、例えば「人でなくなる」は「破」頻出のキーワードですが、じゃあ人でなくなったらどうなるのか、使徒になるのか、ということは考えますね。そうなるとヒトとシトは違うから、そういう異種族間コミュニケーションで他者性を表現しようとしている……とか言えなくもないですけど、短絡的で嫌ですね。
泉:友達の妄想では、マリは人間を超えようとするじゃないですか。アスカは一旦使徒と融合してしまいますよね。アスカは人間であろうとする存在で、マリは人を捨ててもいいと思ってる存在。で二人がぶつかった時にアスカが「人間を捨てようとしたあなたは、人間になった私に、勝てない!」って言い始めるっていう。
さ:それはいい展開。
村:それは熱い。僕はマリがある意味で寒いと思うのは、いくら“ビースト”って言っても安全な感じがするからですね。
泉:僕はそこまで思わないかな。普通に「マリはそうやって痛みを受け入れるのが当たり前として生きてるんだな」ってそのまま受け取ってました。
さ:マリはゼロ年代的なアニメ文脈を踏まえたキャラクターなので、“モード反転! 裏コード、ザ・ビースト! ”と言ってるのは、“エキゾティック・マニューバ!”と叫んでいるのと変わらないんですよ。『旧エヴァ』は必殺技を叫ぶことができないアニメだったんですよね。せいぜい、いかにもパイロットと本部の無線通信のような形でしか、それらしいセリフしか言わせることができなかった。それが90年代的なリアリズムであって、今からすると閉塞感が感じられる部分でもある。しかしゼロ年代には必殺技を叫んで見得を切ることは、カッコいいんだからやってもいい。そこを外しちゃいけないんだと言うことが可能になっている。そういう意味があると思っています。
村:“ザ・ビースト”って語義矛盾じゃないですか、意図を外れた存在が“ザ・ビースト”なのに、裏コード“ザ・ビースト”とか言って使える選択肢になってる。あれはおかしい。
さ:そうそう、だからあれはマリという虚構性の高いキャラクターが発するセリフとしては正しいんだけど、でも虚構ならではの安全さを備えたものになっている。泉さんの話と関連させて言うなら僕はやっぱりアスカがあれを超えていくしかないはずだと思うんですよね。
■観察者の系譜 - 長門有希・綾波レイ・渚カヲル
さ:峰尾さんも似たようなことを言ってましたけど、「ポカポカする」とか言ってる『ヱヴァ破』の綾波、あれは見てるうちにすごく『ハルヒ』の長門に見えるんですよね。綾波レイというキャラクターとしては「ポカポカする」などとあの綾波が言うだろうかという議論が起きそうですが、「無口で髪が寒色系でロボットっぽい」キャラのデータベースに存在するものとして見ると何も問題ない。むしろ歓迎したいというふうに思えてしまう(笑)。『旧エヴァ』において綾波レイは固有の綾波レイであったはずなのに、『ヱヴァ破』は長門と共通のデータベースを背景に持ったキャラクターとして綾波レイを捏造している。そこも僕が『ヱヴァ破』を面白いなと思った部分です。
村:あらゆる『エヴァンゲリオン』の序盤には、シンジがふと綾波らしき人影を発見するけど、次の瞬間には消えてしまうという描写があるじゃないですか。あれってようするに、あらゆる『エヴァンゲリオン』の世界に登場してシンジを観測してくれているエンドレスエイトの長門みたいな存在のオリジナル綾波がいて、物語を祝福してくれてるのかなと。
泉:どっちかというとエンドレスエイトの長門はカヲルなんですよね。
村:ああ、そうか。
泉:ヒロインの位置にいないにも関わらず頑張って長門の位置にいるカヲル君が不憫なんですよ。
さ:みんなが相手にしてくれない。
村:でも初めて同じような境遇の他キャラクターとコミュニケーション取れそうですよね。今回はマリが生き残っているし、アスカも再登場しそうだし、で。
泉:しかし、こないだTV版再放送してたので見てたんですけど、綾波は怖いしアスカは廃人だしミサトさんも怖いしで本当に頼れる人間がいなくなったときに、スッと鼻歌を唄いながら心の隙間に入り込んでくるカヲル、っていうあのタイミングは本当に神がかってるなと。ごく自然にシンジが少年愛に走っていくという。でも新劇場版のシンジにとってカヲルはいらない存在なんですよね。
さ:誰お前?みたいな感じですよね。
泉:当時は、シンジがカヲルを必要とすることにすごく説得力がある流れだったんですよね。でも今回は全然違う流れになっている。
■『エヴァンゲリオン』の物語が内包するトラウマ
村:僕はカヲルは死にたいやつだと思ってるんですよ。多分シンジを助けることがループから外れられるミッションで、やっぱあいつ死にたいんじゃないかと。そこで葛藤してる。シンジを助けたい、でもシンジを助けるという目的をモチーフに自分が死に残りたいだけなんじゃないかって。だって長門だってこんな無限の繰り返し嫌だーって壊れていくわけじゃないですか。
さ:僕はカヲルは言葉のレベルで、メタフィクション的に振舞っていたキャラクターだと思うんです。ずっとそうやってほかの登場人物と視聴者の両方をかき回していられたのに、新劇場版ではドラマを勝手に引っ張ってしまう人が増えたせいですごくやりづらそうだなと思いましたね。特にマリとの対比でそう思ったんだけど、マリは画面に登場して動くだけでメタフィクション的な役割として機能してるんですよ。『旧エヴァ』の95年当時のフィルムにゼロ年代的なものをポッとのせてしまって、彼女が口の端をクッと歪ませて笑う描写だけでこれはほかの全員と全然違うものだなっていうふうに見えて、物語全体に不協和音を発生させてしまう。それでもカヲルは言葉の上のメタフィクションを一生懸命やろうとしてるんだけど、それは『旧エヴァ』からあったペダンティックに展開される諸々の「エヴァの謎」と大差ない。むしろそこに回収されてしまう。だから90年代的存在としてとり残されてしまっているのが彼なのかなと。
村:必死ですよね。最後の「今度こそ君だけは幸せにしてみせる」とか、ちょっと苦悶の表情とかを見てると、こいつは一体どんな苦労抱えてきたんだろうってなりますよね。
泉:リツコの話ですけど、母親の話が今回一切ないですよね。マギの中には赤木(ナオコ)博士が入ってて……ということがない設定になってるふしがあって。ということはリツコのゆがんだエレクトラ・コンプレックスもない可能性がある。
さ:『旧エヴァ』っていうのはなんでもトラウマで回収する物語だと思うんですね。宇野常寛さんが『ヱヴァ破』はアメリカン・サイコサスペンス的なものを導入していたと説明されていましたが、たしかに『旧エヴァ』の時点では幻冬舎文学的というか、登場人物の背景はだいたいトラウマで説明付けられた。逆に言えば、通して見ると全部、物語の背景は回収され得る。登場人物の内面には謎などないと言ってもいい。
泉:友達が庵野秀明のフィルムを時系列に並べてたんですけど、庵野秀明がどこでそれを乗り越えなくちゃいけなかったかっていう仮定として『式日』がある。『式日』っていうのは全部が家庭内のトラウマで回収されてしまう物語。トラウマの極北なんですよ。原因が母親によるトラウマだ、って言われてしまうと、その母親だってさらにその親がトラウマになっているわけだから、どうしようもない。その前に監督した『カレカノ』のアニメ版は未完で終わるんですけど、原作はその6年後に完結していて。原作の『カレカノ』は読まれてました?
村:僕昨日全巻読破して素晴らしいなと思いました。『カレカノ』と『エヴァンゲリオン』が関係してると思うくらい。
泉:そうそう。それが『式日』へのカウンターになってるんですよね。トラウマとか親の因果とかに回収されるのはもういい! 過去の連鎖は断ち切ることができるんだという、力強いラストで。だから『カレカノ』で使われた音楽が『ヱヴァ破』に流用されていることの意味はすごく大きくて、でもこういう文脈で語ろうとする人も少ない。
■トラウマを乗り越える津田雅美の物語
村:読んでみて、有馬と雪野の関係を追っていると、様々な困難が訪れるわけです。ところが、二人がそれを乗り越える論理というのはだいたい雪野の「でも私、有馬のこと愛してるから!」っていうようなセリフなり態度なりなんですよね。つまり本当に「愛」だけで乗り越えていっている。他の物語だったらこうシンプルにはいかないはずだけど、『カレカノ』では非常にそれがスムーズにいく。それは他の人物についても同様で、見事に全ての人物たちが愛のもとにカップルになっていく。
泉:友達はそれをつがいの物語って呼んでて。津田雅美さんの漫画は最初から全部そうなんですよ。『ブスと姫君』って話があって、4人女の子が出てきて4人が4人とも恋人を作ってあまりが出ずに終わる話。完全に群像劇で、それぞれが主人公で、恋人を作って終り×4、捨てキャラがいない。
村:平和に世界が収束していく。
泉:『カレカノ』の一対一に恋人が存在するっていう割り切った関係はすごいなって。ノアの箱船みたいな感じ。浅葉の前で宮沢が泣くんですよね、私は有馬を救うことにしたから、私は貴方を救えないって。貴方には貴方の恋人が現れてくれればいいのに、って泣いて謝るんですが、それでちゃんと出てくるんですよね。
村:そう。誰にも救えないと思っていた浅葉を救済する人物として、なんと有馬と宮沢の娘の咲良が登場する。こんなことを発想できるっていうのは本当に凄いと思います。こう言えば分かりやすいのかもしれませんが、僕は浅葉が非常に渚カヲルとそっくりだと思いました。彼らはともにコミュニケーションの外部にいて、それゆえに最もトラウマの深い有馬だとかシンジだとかいう人物と分かり合える。けれど浅葉=渚には絶対にそこで知りえた問題を解決することができない。それは裏返せば浅葉や渚たちが救われないということです。ところがそういう呪縛が、なんと浅葉のことを「生まれる前から好きだった」という人物=娘が救ってしまう。これは本当に凄い。まさに「たった一つの冴えたやり方」です。よく言えば神話的で、悪く言えばカルト的ですらあります。「カレカノ」前半は有馬と宮沢の平面的な恋愛関係のみが、つまり「彼氏彼女の事情」だけが描かれます。学校生活ということもあり、これはほとんどセカイ系的な閉塞感を覚えます。ところが後半に描かれる問題は三代に渡る「家」の問題です。つまり「彼氏彼女の事情」であったはずの有馬のトラウマが実は歴史的な問題だったということが明らかになります。そんなわけで恋愛問題とトラウマ問題の両方を解決する、いわば両方の外部からやってきた咲良によって救われるというのは論理的です。で、こうして見ると前半の「愛が全て」展開の謎が少し見通せるところがあって、あれはいわば苦難の果てにたどり着くはずの「後日談」的なセカイを描いているんですよね。そういう風に存在するはずの平穏な生活が先取りされていて、後から帳尻合わせで問題の解決が行われていく。象徴的なのは、前半の段階で有馬と宮沢のセックスがあるってことですね。普通はそこに行くまでがつらいはずなんですが、比較的あっさりとそこに到達する。ところがむしろそれが罠で、セックスによってむしろ、二人が別な人間だということがより明らかになり、問題が紛糾する。
泉:しかもあのタイミングでセックスすることでちゃんと浅葉の救いになってるのがすごいですよね。
村:そうそう。そのセックスで出来た子供が咲良なんですよね。一方の宮沢たちは妊娠によって進路が変わったり親の世代の呪縛を痛感したりするわけですが。ともあれ、『カレカノ』を読んだあとにセックスが一つのゴールであるところの美少女ゲームのことを考えると、色々と悩むところが多いんですよね。
さ:それはわかる。
村:『カレカノ』のアニメは1998年ですよね。アニメはいわゆる有馬のトラウマを放置したまま、恋愛のセカイだけで終わりました。美少女ゲームが盛り上がるのが1999年であることを考えると、それはかなり同期していたのかなと思います。他方、今いったような漫画の展開を考えると、美少女ゲーム的なものへのカウンターとも考えることができますね。
さ:美少女ゲームが臨界点を指摘されたあと伸び悩んでしまったのは、そこをしっかり扱えてないからなんじゃないかと。僕最近ちゃんとやってないんですけど。
村:何描けばいいんだって感じですよね。
さ:そうなんですよね。
■新劇場版『ヱヴァ』によって相対化されるもの・さやわか言説
少年エース 21年9月号 増刊『ヤングエース Vol.3』出版社=角川書店 発売=2009年9月4日
『新世紀エヴァンゲリオン (5) 』
著者=貞本 義行, Gainax 発売=1999年12月 出版社=角川書店
泉:『ヤングエース』の『貞本エヴァ』再開第二話を読んでちょっとがっかりしたのが、ミサトのセリフまで新劇場版から引っ張ってきてるんです。新劇場版の影響を受けて欲しくないなって。
さ:なぜ?(笑)
泉:だって『貞本エヴァ』は連載の順番でいうと本来新劇場版の影響を受けないで描いてるはずじゃないですか。順番として『旧エヴァ』・『貞本エヴァ』・新劇場版って時系列で並んで欲しいんです。
さ:そうなんだ。僕はライブ感を意識してというか、連載がこれだけ長期化したのもあるけども、今の『エヴァンゲリオン』が選んでることをきちんと持ち込んでるなと。
村:漫画の開始は1994年12月が初出なので、実は最も古いんですよ。アスカはひとりでガギエルを倒しているとか、使徒が足りないぞとか色々あるし、独立したコンテンツとして見たほうがいいんじゃないですか。
泉:あ、そうか。TV版のスタートと関係としては並行してるんですね。それなら新劇場版もライブな参照元としてフィードバックされるのは納得がいきます。
さ:本来あるべきものはもうなくて、参照元としてしかない。で、実際こうなるべきだったっていうのもないけど要素としてはある。あとはそれをどう選んでいくかっていうのでしかないんじゃないかと。
泉:その「実際はこう」っていうのはさやわかさんのブログで「史実」と呼ばれていたものの話だと思うんですが、お互いブログで言ってたことのメタファーが違うんですよね。
さ:そうですね。泉さんは「史実」という概念はフィクションに適用しない方がいいんじゃないかとおっしゃったんですが、たしかにフィクションは現実ではないのだから、そうおっしゃるのはわかります。ただ僕が史実という言葉を選んだのにはちょっと理由があるんです。僕はその現場で体験したとしても言語化することでそれは物語、フィクションだと思うから、だから史実はない。けど、僕はブログの中で「本来ありうべきだったエヴァンゲリオン」って言葉を使っていて、これはハイデガーの『存在と時間』の「本来性」という言葉を意識しているんです。本来性って言い方は本来あるべき、目指すべきものがあるって考え方なんだけど、そうじゃないんじゃないか。フィクションが描くべきものが夢想される状態というのは戦記において「史実に忠実かどうか」ということに近くて、それが本来性として請われるのだろうと。ところが、それが実際にはないっていうことをはっきりさせているのが『破』じゃないかなと思うんです。
村:『破』がTV版を相対化してるってことですか。
さ:そうそう、ウェルメイドな形でTV版がやろうとしたことを実演しようとしたのが『序』だったとしたら、それは本来性を目指していることになる。でも本来性というのは実は虚ろなものだから存在しないんだよっていうことをはっきり突きつけようとしているのが『破』だったんじゃないかと。
村:本来性っていいタームですよね。真の姿っていう空白のものに惹かれながら『エヴァンゲリオン』という共同体を作り上げているという。神話的ですよ。
泉:不在の中心みたいな。
さ:中心は不在でいいんですよ。
■相対化されない物語としての『旧エヴァ』・泉信行言説
泉:僕は相対化としては見ていないという立場なんです。三国志を喩えに使って、正史としての『陳寿三国志』を参照することはあっても、普通は史実まで遡って考証はしない。史実が曖昧になっていくというのも、時代が経っていくとみんな知ってるのは正史と演義だけで、じゃあ史実は、といえば地道に調べていくしかない。だから「史実がどうだとか、我々には何の関係も持たない」という指摘は、三国志においては正しい。では『エヴァンゲリオン』にとっての「史実」や「正史」とは?という話になってくる。
村:しかし『エヴァンゲリオン』で史実とは何かを言い出すのは不毛な話ですよね。それはTV版を見ればいいよって話じゃないですか。
泉:その通りです。あれを正史にしてしまいましょうよっていう。史実ではないけど、オフィシャルな歴史として正史がある。
さ:順序として最初にTV版が結末を迎えたという意味においてはそうです。でも、そこでTV版がやったことはドラマの筋書きを放棄して、物語は多用な可能性に開かれていて、内容も結末も複数化するという結末だったわけですよね。だからあれを筋書きのレベルで特権化することは本当はできないはずなんです。筋書きとして結構が付けられたわけでもないし、最初にエンドマークを打った自らの絶対性を否定する内容なのに、それが正史として扱われるという奇妙な受け入れられ方をしている。
泉:逆にいうと大抵のコンテンツは旧エヴァほどの「正史」っぽさは得られないんですよね。『旧エヴァ』は、スタッフ本人達も意図してなかった奇跡的な出来事として、大衆娯楽として語り直すことも可能な正史になった。大衆娯楽……つまり「演義」として成立させなかったからこそ「演義」の語り直しが可能だった。普通のものは最初から演義を作ろうとするので語り直しができないはずで、仮にやっても空虚になっちゃう。たとえば『エウレカセブン』がそうだと思うんですよ。最初からちゃんと作ったものへ変奏曲を入れてまたエンターテインメントに作り直してるんですけど、『ヱヴァ破』ほどショッキングな出来事じゃないんですよね。
村:『エウレカセブン』の物語内容は普通に面白いんですよ。「傑作だ!」と思った話がいくつもあります。中でも48話「バレエ・メカニック」はアネモネという他者の救済を描いた傑作話です。大雑把に言ってアネモネは『エヴァ』でいうアスカの立位置ですが、彼女が救われて本当によかった(笑)。一方、表現のレベルで『エヴァ』のゴーストにしか見えないところがあって、そこがつらかった。『エウレカ』では『エヴァ』の映像を模写したシーンがほとんど毎話数に登場しますが、非常に適当な使い方なんですね。
泉:京田監督がやる引用って意味がないんですよね。そのセンス自体は実は好きなんですけど。
さ:僕はでもあの意味のなさがすごいと思った。こっちのほうが新しいと。
泉:テクノポップの引用の薄っぺらさ。あれは狙ってもできないですよ。
村:京田監督は『序』に画コンテで参加してますが、見方によっては『エウレカ』で『序』のようなことをやろうとしたのかもしれません。『エヴァ』に似通った人物配置と、引用で構築された画面の組み合わせで、『エヴァ』と異なった帰結を引き出そうとしたということです。ただ『エウレカ』は『エヴァ』ではないので、『序』にはなれなかった。むしろ、最終話でレントンがエウレカを救い出そうと指令クラスターに殴りこむシーンは、『破』でシンジがレイを救おうとするシーンと極めてよく似ています。
さ:『エウレカセブン』は『旧エヴァ』をマジメに観てしまった人が、いかにしてそのくびきから逃れるかみたいなことをやってたのかなと。
村:僕の3つ下くらいの世代になるともう『エヴァ』が消滅していて、代わりのように『エウレカ』が語られていました。「マジで神」「オレの心に刻印を残した」と熱がある感じ。実際、レントンとエウレカが擬似家族から本当の家族になっていく物語展開は芯がしっかりしているし、表現レベルでもエキセントリックな着地をしたということで、多面的に評価されているようです。
さ:若い世代がそこになんらかの力を感じてるなら批評はそれを扱えなくてはいけないと思いますね。
構成=編集部 / 文=泉信行・さやわか・村上裕一
【注釈】
DEATH編 :1997年に公開された、新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH & REBIRTH シト新生のうち、総集編として製作されたEVANGELION:DEATHのこと。(村)
庵野がみやむーに言った : NHK「BSアニメ夜話」第三弾の新世紀エヴァンゲリオン特集にて、ゲストの宮村優子が証言。正確には以下の通り。「「その、最後のセリフに関してはですね、これは言っていいのかどうか分からないですけれども、もし、アスカとかじゃないんですよ、いつも言われることが。もし、宮村が寝てて、自分の部屋で一人で寝てて窓から知らない男が入ってきて、それに気づかずに寝てて、いつでも襲われる状況だったにも関わらず、襲われないで私の寝てるところを見ながら、さっきのシンジのシーンじゃないですけど、自分でオナニーされたと。で、それをされた時に目が覚めたら、何て言うって聞かれたんですよ。前からもう、監督変な人だなって思ってたんですけど、その瞬間に気持ち悪いと思って「気持ち悪い…ですかね」とか言って。そしたら「やっぱりそうかぁ」とか言って。やっぱりそうかって言うか…。」(村)
『幻冬舎版のエヴァ』:『THE END OF EVANGELION 僕という記号』 著者=庵野秀明 出版社=幻冬舎 発売=1997年
この夏に東さんが出された同人誌 : 『Final Critical Ride 』波状言論+PLANETS発行
『EoE』 :『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 THE END OF EVANGELION Air/ まごころを、君に』。1997年7月19日に全国東映・東急系で公開された。「夏エヴァ」とも呼ばれる。(編)
アイパッチをしたアスカ :『Q』の予告編で登場したアイパッチをしたアスカのこと。(編)
峰尾さん : 峰尾俊彦。ゼロアカ参加者。ゼロアカサイト内に詳細なプロフィールアリ。
エンドレスエイト : TVアニメーション『涼宮ハルヒの憂鬱』作中のループするエピソード。この作中では、他の人物が繰り返しを意識していない中、ただひとり長門だけが全ての繰り返しの経験を認識している(全ての展開を見ている)。(村)
ゆがんだエレクトラ・コンプレックス : 『旧エヴァ』におけるナオコはゲンドウの愛人であり、ナオコの死後はリツコもゲンドウと肉体関係を持つという、ドロドロした関係がほのめかされていた。エレクトラ・コンプレックスとは「父親を独占しようとする娘が母親に対抗意識を持つ」関係を指した言葉だが、母子家庭らしきリツコとナオコの場合、むしろ「母親へのゆがんだ愛情」の代償行為としてゲンドウと寝ていたかのように映る。(泉)
友達が庵野秀明のフィルムを時系列に並べてた : 【映画版ヱヴァ破考察 その壱】僕たちが見たかった「理想のヱヴァ」とは?〜心の問題から解き放たれた時、「世界の謎」がその姿を現す (物語三昧)
『式日』 : 「式日(SHIKI-JITSU, ritual )」監督・脚本=庵野秀明 原作=藤谷文子『逃避夢』 公開=2000年
『カレカノ』 : 津田雅美による漫画『彼氏彼女の事情』。1996年2月号から2005年4月号まで「LaLa」(白泉社)連載された。テレビアニメ作品は庵野秀明がエヴァ後初のテレビアニメ監督を手がけた作品でもある。1998年10月2日から1999年3月26日まで放送され、原作が未完ゆえか、放送も未完のまま終了した。(編)
美少女ゲームが臨界点を指摘された :『美少女ゲームの臨界点 HajouHakagix』発行=波状言論 発売=2004年
『ヤングエース』 : 2009年7月4日に創刊された角川書店の月刊漫画雑誌。1995年2月から『月間少年エース』(角川書店)で連載されていた(ただし休載中だった)『新世紀エヴァンゲリオン』(漫画=貞本義行 通称「貞本エヴァ」)は同誌へ移籍されることになり、創刊と同時に連載が再開された。(編)
お互いブログで言ってたこと : 泉氏の言及エントリ/さやわか氏の言及エントリ
『存在と時間』 : 『存在と時間』著者=マルティン・ハイデッガー原著=Martin Heidegger 翻訳=細谷貞雄 出版社=筑摩書房 発売=1994年6月
「演義」 : 正史としての『陳寿三国志』に対して、より大衆に向けて再構成された『三国志演義』を新劇場版の喩えに用いている。(泉)
『エウレカセブン』 : 『交響詩篇エウレカセブン』。2005年4月から2006年4月に放送された、ボンズ制作によるSFロボットアニメ。放送終了後2008 年4月に劇場版制作が決定、2009年4月25日より公開された。劇場版の制作はボンズから制作を委託されたキネマシトラス。(編)
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2009年・夏!休特別企連画
ばるぼら × 四日市対談『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 : 破』
【前篇】>>>【後篇】
泉信行 1980年生まれ。漫画研究家。『ユリイカ』、『Quick Japan』誌で研究発表やコミックレビューなどをして活動中。2008年から今年にかけて発行された、私家版の同人誌『漫画をめくる冒険』シリーズ(ピアノ・ファイア・パブリッシング)に今までの研究成果が結実している。
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さやわか ライター/編集。『ユリイカ』(青土社)等に寄稿。『Quick Japan』(太田出版)にて「'95」を連載中。また講談社BOXの企画「西島大介のひらめき☆マンガ 教室」にて講師を務めている。
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09.09.21更新 |
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