ショーSM界のパイオニア長田英吉を師匠に持つドイツ人緊縛師長田スティーブ。金髪碧眼、その大きな体で見せるショーは非常にダイナミック。また流派などにこだわらず熱心に緊縛術を学ぶことでも知られるが、はたしてそんな彼にはどんな時代が見えているのだろうか。 |
ドイツからやってきた男は期せずして緊縛師となった。
物静かに彼は語る。ただ、縛りが上手くなりたいだけだと。
――まず最初に何故あなたは縛りが好きなんでしょうか。よく日本のマニアの人たちは、例えばチャンバラ遊びのときにお姫様役の女の子を木に括りつけたりとか、そういったことが緊縛趣味の原風景だという方がいるんです。あなたの場合、そういった原風景みたいなものってあるんでしょうか。
長:同じような遊びは小さいときからやってたよ。私はドイツで生まれて育ったので森の番人というのがいるわけです。警察みたいなものかな。グリム兄弟の話に良く出てくるよ。女の子が一人で森に入ってくるといたずらをして「こういう危ないところに入ってきてはいけないよ」という遊び。でも途中でやっぱり女の子は逃げちゃう。だから縄で結びつけるんだ。私にとって、小さいときから縄は重要だったんだね。
――そんな遊びの最中に、子供たちはみんな縄を使うのですか?
長:いや、僕だけ(笑)。でも日本の遊びと雰囲気は一緒だと思うよ。もしアメリカならカウボーイとインディアンごっこだろうしね。ドイツでは森の番人なのさ。それは子供の遊びだけど、青春期に彼女ができると、やっぱり縄で縛ろうとしてた。何故縄が好きなのかだっけ? 女性を縛ることは女性を抱くことと一緒だから。赤ちゃんを抱くようにね。そういう気持ちは大事だ。だから雪村さんの寝技、あのスタイルは大好きだよ。
――先日明智伝鬼さんが亡くなられました。あらゆる意味で、この先は新しい時代、そう考えられるんじゃないかと思ってるのですが、いかがでしょう。
長:ちょっと違うと思うね。まず強調しておきたいのは、彼は自発的に三十年掛けてユニークな彼の縛り方を創ったということ。非常に細かくて複雑な縛りだよ。彼には弟子や、一緒に勉強した方はいたんでしょうけど、本当に深く学んだ方はいないんじゃないだろうか。だからホントに彼の三十年の労力がこの世から消えてしまったんだ。それが非常に残念だ。やっぱり僕は元々ジャーナリストだから、記録しておく、勉強しておく気持ちが強いんだ。でも明智さんに関しては失われてしまった。
――確かに残念なことです。では同じ緊縛師として、あなたは何を残すつもりなんでしょう?
長:私はまだまだタマゴです(笑)。何も残すことはできないけど、私は日本の縄の世界で色んな人に教わってる。そのお返しとして、世界中の人に日本の縄を理解してもらいたい。だから英語に翻訳して、ホームページを通して縄のことを伝えていきたい。それはいただいたもののお返しとしてだね。そして自分のことを緊縛師と呼べるまでに、あと三年はかかると思う。
――随分具体的ですが、何か明確なヴィジョンをお持ちなんでしょうか。
長:三年前も「あと三年」なんて言ってた気がするけど(笑)。まだまだ長い時間がかかるんだ。毎日緊縛をやってるけどなかなか上達しない。大工や何かと同じように六、七年やってから職人になるものだと思う。だから僕はまだ職人じゃない。毎日練習しないと。
――本当に、まるで世界一の縄師を目指しているかのようですね。
長:やっぱりみんな心のなかで一番になりたいと思っているよね。でも縛りもアートだろ? 例えば音楽だったらローリングストーンズとモーツァルトを比べることは無意味だ。だからたぶんベテランの縄師たちはそんな野望とは縁がない、というか関係ないと考えてると思う。縛りの中でも寝技は雪村先生、吊りでは濡木痴夢男さん、そういうふうに考えるべきだ。そしてやっぱり劇場も特別だね。人に見せるものはまた別だ。
――あなたの先生である長田英吉氏は、やはりあなたにとってもショーSMのナンバーワンだったのでしょうか?
長:私にそれを言う権利はないよ。それは見てくれた人たちが決めることだ。でもショーSMのパイオニアであり、とても縛りが速かった。そして人気があった。そして私は、本当のことを言えばショーは好きじゃないんだ。
(続く)
インタビュー=編集部・五十嵐彰 通訳=alice liddell
※この記事はS&Mスナイパー2006年1月号に掲載された記事の再掲です。
長田スティーブ ドイツ出身。1988年にフォトジャーナリストとして来日。1998年、長田英吉氏と初めて出会い、その後師事。2001年、長田英吉が永眠すると、生前伝えられていた師匠の希望通り長田性を襲名、緊縛師・長田スティーブとしての活動を開始して現在に至る。
関連リンク
長田スティーブ公式サイト=http://www.osadasteve.com/