チリ人の踊り子ルーシーとジョウジ川上。新宿モダンアート、終演後の舞台上で。1976年。 |
ジョウジ川上。近年「ショーアップ大宮」から始まったSM興行で、読者をはじめ斯界からも注目される存在だ。しかし彼はもともと昭和50年代にストリップ界のつかこうへいとして、様々なメディアを使いストリップに一時代を築いた男であることをご存知だろうか。
埼玉県さいたま市大宮。
かつてここにSM興行を数多く手掛けた「ショーアップ大宮劇場」があり、私はここへ何度も足を運んだ。その劇場を経営していたのがジョウジ川上だ。
彼は今でも劇場の近所に住んでいる。彼の話を聞くために大宮までやってきたのである。
彼が待ち合わせに指定したのは「ショーアップ大宮劇場」の前。閉館したのは知っていたが、もちろんその後は足を運んでいない。小雨の降るなか辿り着いた、かつて劇場だった場所は、言いようのない寂しさに包まれていた。
立て看板などの面影が残るものは当然のように何もなく、隣接するポルノ映画館のヌードポスターだけが変わらずそこにあった。
ジョウジ川上。ストリップ興行師。昭和50年代に奇抜なアイデアと卓越した行動力で、様々な興行を仕掛ける。現在ストリップを支えるポラロイドショー※1は、このときに彼が考え出した。そして「フォーカス」や「アサヒ芸能」にスポーツ新聞など様々なメディア戦略を展開。山手線の中吊り広告にまでデカデカと文字が 踊った。こうして劇場の入場者数はうなぎのぼり、ストリップの黄金時代を築いたのである。
『前田真理子ポラロイドアクトショー』。1981年4月、池袋スカイ劇場にて。 |
しかしそうした過激な宣伝活動が当局の目に留まらぬはずはない。
昭和57年、ホテトルとストリップを合体させた観客参加型の個室ナマ板ショー※2、「ストトルショー」の興行中に手入れを受ける。踊り子と、絡んでいた客、そして司会のコメディアンが公然わいせつ※3の現行犯で逮捕。その後川上の事務所にも逮捕状を持った刑事が現われ、勾留※4。 公然わいせつ罪共謀共同正犯※5。前科一犯である。
略式裁判※6を受け、シャバに戻った川上には、何も残っていなかった。川上が苦労して定着させた客たちはもういなかった。優秀なスタッフたちはみんな逃げていた。踊り子は下着を穿いて踊っていた。
そのとき川上は実感したのだという。
一度捕まったら、今まで築き上げたものが全てなくなってしまう。裏稼業ではダメだ。違法ではない興行をする。
ときはアングラの劇団がひしめいていた時代であり、彼の周りには関係者も多かった。川上は彼らと共にストリップ興行で稼いだ資金を注ぎ込んで、合法のストリップによる新たな時代を夢見る。
昭和59年4月、新宿モダンアートで昼の部営業の「シアターパラダイス」を経て、「シアターニューモダンアート」を開館。念願の合法ストリップ劇場だ。力のある演出で構成された舞台なら。旧知の間柄だった流山児祥※7を演出家に呼んで「肉体の門※8」をリメイクした。ポスターの写真は深瀬昌久※9に頼んだ。当然ながらメディアも利用し、あの荒木経惟が撮影に来た。だが惨敗。見せない、やらせない、面白くないと客の評判は散々だった。
『肉体の門'85』。1984年11月〜1985年1月、「シアターニューモダンアート」にて。 |
そしてわずか10カ月の営業で川上の夢は破れる。注ぎ込んだ資金2000万円は全てパアになった。
そして昭和60年、新風営法※10の施行と共に業界から足を洗う。このときジョウジ川上、三十五歳。すでに二児の父であった。
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写真=川上譲治 文=編集部・五十嵐彰
※この記事は『S&Mスナイパー』2006年6月号に掲載された記事の再掲です。