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I want to live up to 100 years
「長生きなんてしたくない」という人の気持ちがわからない――。「将来の夢は長生き」と公言する四十路のオナニーマエストロ・遠藤遊佐さんが綴る、"100まで生きたい"気持ちとリアルな"今"。マンガ家・市田さんのイラストも味わい深い、ゆるやかなスタンスで贈るライフコラムです。嫌なことや悲しいことは、すぐに忘れてしまうほうだ。
零細AVライターなんて不安定な仕事をしていて、月の半分はバファリンのお世話にならなきゃいけないほどの偏頭痛持ちで、一旦落ち込むと何日も殻に閉じこもってオナニーばかりしているダメ人間のくせに、能天気に「長生きしたい」なんて言えるくらいだから間違いない。典型的な「喉元過ぎると熱さを忘れる」タイプである。
でも、そんな忘れっぽい私でも、毎年GWになると思い出さずにはいられないことがある。ゲイ友達のFちゃんのことだ。
3年前のGW初日、Fちゃんは急死した。
実家に帰省する予定だった私は、駅までの道を急ぎ足で歩いている途中に友達からの電話でそれを知った。
「嘘でしょ?」「私もそう思ったんだけど......でも本当みたい」
心臓をギュッとつかまれるような感じがした。
まだ40代の半ばなのに。ついこの間、仲間内の花見で会ったばかりなのに。酒もタバコもやるけどすこぶる健康で、会社の定期健診はオールAだっていつも自慢してたのに。
数日後、急いで東京へ戻った私は実家から持ってきた喪服を着て、まったく現実感がわかないままお葬式に参列した。
Fちゃんは十数年前、インターネットを始めた頃にできたネット友達だ。
暇に任せてAVばっかり観ていた私が、よく覗いていたゲイによるAV男優応援サイト。そのサイトの管理人がFちゃんだった。私自身もAVレビューのサイトを立ちあげたのがきっかけでやりとりするようになり、東京に行ったときにオフ会をして友達になった。
話題はだいたい「どの男優のチンポが大きい」とか「やっぱり昔の歌謡曲は最高ね」とかいうどうでもいいことばかりだったけど、よくお酒を飲んでは盛り上がった。掲示板やその頃流行り始めたmixiで、どんどん仲間が増えていくのが楽しくてたまらなかった時期だ。とても懐かしい。
見た目はスーツ姿のサラリーマンだけど、中身は頼れるお姉さんというか、お母さんのような人だった。
面倒見のいい性格のせいか、彼のマンションはすぐ友達やネット仲間の溜まり場になった。特に私はその頃長野に住んでいて頻繁に上京していたから、よく泊めてもらったものだ。「仕事で帰りが遅いときもあるから」と笑顔で合鍵まで渡してくれた。なかなかできることじゃない。人生相談を受けたり、彼氏に殴られて怪我をした子をかいがいしく世話したりしたこともある。
30代後半で独身で結婚の目は皆無。そんな三重苦女にとって、ゲイ友達と一緒に過ごすというのは一つのファンタジーだと思う。
風邪をひいたときは姉のように栄養ドリンクを買ってきてくれて、しつこいセールスがきたときは、夫のようにおっぱらってくれる存在。そんな相手と、生臭い恋愛のことなんて考えず、気楽に仲良く暮らす。ああ、なんて素晴らしい! 恋愛がうまくいかない女なら、誰でも夢見たことがあるんじゃないだろうか。
かくいう私も、そんな都合のいい想像をしたことがあった。実際に冗談で「偽装結婚しよう」なんて言い合ったこともある。でも、実際はそんなに甘いものじゃない。
知り合って数年が経ったころ、私はFちゃんの家に宿泊禁止になった。平日の夜、調子に乗って夜通し飲み、明け方に泥酔して家に転がり込んだのが原因だ(しかも居間で下着姿になったところで力尽き、裸のまま爆睡していたらしい......)。
これから会社に働きに行こうという人の家で、へべれけに酔って尻出して寝てるんだから、そりゃ怒るに決まっている。
しかし、今考えてみるとよくわかる。怒ったのはそのせいばかりじゃない。そのときFちゃんはたぶん私の「甘え」を見透かしていたのだ。
独身で寂しいとか偽装結婚したいとか言ってはいても、私は一応女だ。もしかしたら何かの拍子で逆転ホームランを打つことがあるかもしれない。でも、Fちゃんが世間でいう「結婚」をすることはきっとないだろう。決して顔には出さなかったけれど、40年もゲイとして生きてきたら辛いことだってたくさんあったはずだ。
その中で、人の世話はしても過剰な期待はしない、やるべきことをやり楽しむことを楽しんで淡々と日々を過ごすというストイックな生き方を築き上げた。だからこそ、女であることにあぐらをかき、どうせダメ人間だからと開き直る私の「甘え」が腹にすえかねたのだろう。
気の置けない友達同士だからこそ礼儀と思いやりが必要だったのだと、今ならわかる。でも、もう遅い。
一時期はあんなに頻繁に会っていたのに、"朝帰り尻丸出し事件"があってからは以前ほど会わなくなった。彼は一身上の都合で実家から会社に通うことになり、私も上京したときはマンガ喫茶や他の友達の家を渡り歩いていたので、ときどき外で飲んだり、仲間の集まりで顔を合わせる程度。そんな矢先の突然の訃報が訪れたのだ。
東日本大震災が起こった2011年は私にとっても激動の年で、GWにFちゃんが、6月に叔母が、そして5カ月後の10月には30年間一緒に暮らしてきた祖母が立て続けに亡くなった。「人は必ず死ぬんだな」という当たり前のことを改めて思い知らされた一年だった。
さらに昨年の今頃、義父が急死した。
61歳という若さで、散歩の途中の心筋梗塞。突然のことでみんなひどいショックを受けたけれど、特に病気がちだった義父と四六時中一緒にいた義母の憔悴は見ていられないほどだった。
「来年のGW、恐山にイタコの口寄せに行きたいんだけど......」と真剣に言うお義母さん。いつもだったら「イタコっすか!」とか何とか言って茶化す私も、痩せた白い顔を見たら何も言えなかった。
Fちゃんの、そして近しい人たちの死が押し寄せる中で、思うようになったことがある。
それは「人間は天寿をまっとうすべき」ということだ。
生きたくても死ななきゃならない人がいるんだから「早く死にたい」なんて言うのは罪、そんな野暮なことを言うつもりはない。
でも、幸せでも、そうでなくても、最後まで淡々と生き抜くことには意味がある。そう思うのだ。
Fちゃんの葬式では涙が止まらなかった私だけれど、30年間一緒に暮らした祖母の葬式に参列したときは自分でも驚くほど静かな、晴れ晴れした気持ちでいられた。
もちろんどちらも同じように寂しい。でも、最期を看取った母の言葉を聞いたら、おばあちゃんがこの世からいなくなること、もう会えないんだということが、スッと自然に納得できた。「おばあちゃんは毎日少しずつ弱っていって、命の糸がプツンと切れるみたいに人生を終えていったよ」。
私も、死ぬときはそんなふうに死にたい。
もしかしたら若いうちに不治の病に侵されるかもしれないし、この世知辛いご時世だから路頭に迷う寂しい老後を迎えなくちゃならないかもしれない。
もしそうだったとしても、神様から「長い間お疲れさん。もういいよ」と言われて、納得してから死にたいなと思う。
Fちゃんは、亡くなるときどんな気持ちでいたんだろう。納得して旅立てたんだろうか。
どんなことにも動じない人だったから、タバコの煙をフーッと吐き出して「バカねえ、人生なんてこんなもんよ」なんて言いそうな気もする。
今年のGWも、お酒が好きだったFちゃんを偲んで缶ビールを飲んだ。
家に行くといつも「発泡酒なんてマズいもの飲むのおよしなさい」と、私たちにとっては高級品だったプレミアムモルツを出してくれた。あれはとても美味しかったな、と思いながら。
文=遠藤遊佐
14.06.07更新 |
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