Criticism series by Sayawaka;Far away from the“Genba”
連載「現場から遠く離れて」
第二章 ネット環境を黙殺するゼロ年代史 【2】ネット時代の技術を前に我々が現実を認識する手段は変わり続け、現実は仮想世界との差異を狭めていく。日々拡散し続ける状況に対して、人々は特権的な受容体験を希求する――「現場」。だが、それはそもそも何なのか。「現場」は、同じ場所、同じ体験、同じ経験を持つということについて、我々に本質的な問いを突きつける。昨今のポップカルチャーが求めてきたリアリティの変遷を、時代とジャンルを横断しながら検証する、さやわか氏の批評シリーズ連載。
しかし、第二の点については反論があり得る。そうは言っても、神聖かまってちゃんがライブハウスでライブを行なう時には多くの観客がおり、前章で紹介した「ライブ回帰」のように、何らかの物理的な場所性を重んじながら「現場」の文化創出が行なわれているのではないか。
このような反論に対しては、いったん語るべきアーティストを変えたほうがわかりやすい。そこで我々が考えるのは相対性理論についてである。「ポストYouTube時代のポップ・マエストロ」というキャッチフレーズを自らに冠した、この奇妙な名前のグループは2006年に結成された。彼らは音楽性も戦略も神聖かまってちゃんとは全く異なっている。最も特徴的なのは、彼らがメディア上に、もちろんインターネットも含めて、全くメンバーの姿を現わさないことである。同時に彼らは積極的なライブ活動を行なっており、全くの覆面バンドというわけでもない。次に特徴的なのは、ボーカルのやくしまるえつこの木訥とした声によって、SF漫画のような現実味のない世界で無邪気な恋愛を思い描く少女の物語が歌われることである。一口に言えばそれは90年代以降から女性の愛嬌の一種としてサブカルチャーの界隈で認知されるようになった「不思議ちゃん」としての特徴を持っている。ライターの四方宏明はその例として80年代に活躍したシンガーである戸川純を挙げながら次のように「不思議ちゃん」の条件を語っている(※20)。
■新宿系につながるサブカルチャー性
■ランドセルが似合うロリータ性
■難解な漢字が好きな文学少女性(だから、作詞する人も多い)
■自虐的な情緒不安感
■お高いお姫様度
■一芸に秀でている天才肌(これは、ミュージシャンの場合当然ですが)
■ランドセルが似合うロリータ性
■難解な漢字が好きな文学少女性(だから、作詞する人も多い)
■自虐的な情緒不安感
■お高いお姫様度
■一芸に秀でている天才肌(これは、ミュージシャンの場合当然ですが)
この「条件」は厳密な定義のためにはほとんど役立たないが、その特徴として想定されているのが要するに浮世離れした少女性であることはわかるだろう。そして戸川純の例から類推できるように、こうした女性には非現実的な独自の世界観に基づいた物語をあたかも自分の現実のように語ることがしばしば期待されている。
さて相対性理論のやくしまるえつこは、典型的に「不思議ちゃん」であると言えるだろう。ライブにおいても彼女は無表情のままであり、曲の途中で黙々と携帯電話を眺めていたりする。曲間でも観客を意識して語りかけることはなく、代わりに「私の行間、読まれちゃった」「嘘つき」など二言三言の奇妙な言葉が呟かれる。また、同じく曲の合間に水を飲む時にはボトルを奇妙な角度で支えて行なうのが常である。場合によってリスナーは男女の別を問わず、相対性理論が、もしくはやくしまるえつこが見せる少女性に愛着を覚えることもある。しかし、神聖かまってちゃんにおけるの子の内面性と同じく、この「不思議ちゃん」のキャラクター性こそが相対性理論の本質であると考えるのは早計である。やはり彼らはこれを演劇的な行為、パフォーマンスとして行なっている。その最もわかりやすい理由としては、歌詞を書いているのがやくしまるえつこ個人ではなく、他の男性メンバーたちを含めたバンド全員であることだ。つまり「相対性理論のやくしまるえつこ」は台詞を用意されて演じられるキャラクターである。彼らの本質は「不思議ちゃん」にあるのではなく、「それを演じている人々」なのだ。
ここには補足的な解説を加えることができる。というのも、実は「不思議ちゃん」という「内面性のようなもの」とは、本来から「キャラクター」として成り立っていると考えることが可能なのである。どういうことか。宮台真司らが1993年にパルコ出版から刊行した『サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーション』における、70年代半ば以降にかけて台頭した女性性の愛嬌の代表的な類型、「かわいいカルチャー」についての考察を参照しよう。それは起源として60年代的な「自分探し」の延長としての側面を持ち、したがって70年代前半までは丸文字やイラストポエムなどの様式によって「〈私〉らしさ」をセンシティブに追求するものとして考えられた。だが70年代後半以降はこれが消費社会化の進行によって一般化する。同書では山根一眞『変体少女文学の研究』(講談社、1986)がラブホテルの落書き帳に丸文字による饒舌なコミュニケーションを発見したことをあげ、これを前期的な丸文字の使用、すなわち日記やイラストポエムにおけるナイーブな「固有の〈私〉らしさ」の表現と区別する(『増補版 サブカルチャー神話解体』ちくま文庫、123ページ)(※21)。丸文字は固有の〈私〉を探り当てるハードなコミュニケーションを回避し、「みんな同じ」である匿名的なコミュニケーションに寄与するツールとして使われるようになるのである。
宮台はこうした状況を整理して次のように述べている(※22)。
まず第一に私たちは、「乙女ちっく」に始まる転倒した〈世界〉解釈の営み(現実の虚構化)が、後の若者文化を特徴づけるコミュニケーションの”記号”性の端緒となったという事実に、注意を促したい。高度消費社会を特徴づける「〈私〉の物語の異常な増殖」の先駆けとなっていることに注目したいということです。
第二に指摘しておきたいのは、こうした転倒が、疑似現実(虚構)と現実の間の距離を、無効にしてしまうということです。こうした転倒によって、少女たちは、現実をオハナシのように、あるいは、オハナシを現実のように、生き始めます。
第二に指摘しておきたいのは、こうした転倒が、疑似現実(虚構)と現実の間の距離を、無効にしてしまうということです。こうした転倒によって、少女たちは、現実をオハナシのように、あるいは、オハナシを現実のように、生き始めます。
さて、ここで語られているのは90年代冒頭までの少女の内面史とでもいうものだが、この系譜の先に登場したのが90年代後半の「不思議ちゃん」だと考えていいだろう。「〈私〉の物語の異常な増殖」は90年代にはあらゆる分野で心理主義として全面化したが、「不思議ちゃん」はこうした傾向の中で「〈私〉の固有性」と「みんなと同じ匿名性」の双方を担保しつつコミュニケーションに参加するために、自分を”戸川純のような”類型として位置づけていると言える。90年代を代表するヒップホップグループの一つであるスチャダラパーは「From喜怒哀楽」(1995)の中で次のように歌っている。
んでんで 聞いてみりゃ
“アタシーよく人から変わってるって言われるんですぅ“かぁ?
“そういう子達 多いですよねー 最近“
多いよー 君等を筆頭に
“アタシーよく人から変わってるって言われるんですぅ“かぁ?
“そういう子達 多いですよねー 最近“
多いよー 君等を筆頭に
これは「不思議ちゃん」があくまでも類型であり、空疎な内面であることを批判的に扱っている。しかしその批判的な態度は、むしろ90年代の「〈私〉の物語の異常な増殖」を色濃く反映していると言っていいだろう。つまりこれは「本来なら求めるべき内面がある」という信念に基づいて、にもかかわらず「不思議ちゃん」たちは空疎な「キャラ」を代替として提示しているという批難なのだ。しかし前述したように、相対性理論は既にこうした批判性の先にある。「不思議ちゃん」の「キャラ」を十分に機能させてフェティッシュな耽溺を誘引しつつ、同時にそれを自覚的に演じる演者の内面を逆照射するという構造を持っているのである。そもそも、一見するとその歌詞はたしかに「不思議ちゃん」の非現実的な世界を歌っているだけだが、それ以上の特色として歌詞の前面にあるのは楽曲に顕著なスタッカートに馴染むように配されたナンセンスな言葉遊びなのである。アルバム『シンクロニシティーン』(2010)(※23)の一曲目に収録されている「シンデレラ」の歌詞は次のようなものだ。なおこれは歌詞カードに書かれているとおりではなく、実際の歌唱に合わせて筆者が書き取ったものである。
シ、シ、シンデレラ
わたしの後ろに
乗って タンデムで
お城まで
ねえねえシンデレラ
わたしのマシンは
ボ、ボ、ボンネビル
速いのよ
わたしの後ろに
乗って タンデムで
お城まで
ねえねえシンデレラ
わたしのマシンは
ボ、ボ、ボンネビル
速いのよ
一読すればこの歌詞が意味そのものよりも一連目と二連目の語感が一致するように配慮されて作られていることがわかるだろう。また「乗ってタンデムで」「わたしのマシン」などのように執拗に形式的な母音の反復、つまり押韻が強調されている。このような作法は現在までの相対性理論の歌詞の多くを手がけているベースの真部脩一が盛んに採り入れており、それは彼がメンバーとして参加している別のバンド、進行方向別通行区分においてはより際だっている。相対性理論がそれと違うのは、音符に言葉を配する時の約束事、つまり一つの指針として「不思議ちゃん」の物語性を絡めることを選んでいるということだけなのである。
ここにおいて、神聖かまってちゃんに起きていることと全く同じように、表層にある物語からうかがえる内面性ばかりを深く掘り下げてもグループの本質に迫ることができないことがわかるだろう。しかし残念なことに、やはり音楽ジャーナリズムの大半は相対性理論の歌詞世界にのみ言及して、そこにバンドメンバーの内面を見出そうとすることが多い。それは昨今の邦楽ミュージシャンが自分の内面性、自分にしかないオリジナリティを追い求めるのではなく、決められたジャンル性、決められた世界観、決められた音楽性を脚本的に用意して、それをパフォーマンス的に演じるという構造に新しさを見出しているということを著しく低く見積もっていると言わざるを得ない。
相対性理論が神聖かまってちゃんと同様に考えうるのはそれだけでない。両者はライブに対する考え方においても似た構造を持っていると考えていい。どういうことだろうか。神聖かまってちゃんは積極的にインターネット配信を行なうことで、彼らが関与するあらゆる場所、本来はさしたる事件の起きていない物理空間を「現場」化してメンバー自身とリスナーが共に大きな価値を見出せるように活動しているが、相対性理論はインターネット上で一切姿を現わさず、生身の彼らが存在する場所をいわば密室化することで、逆説的に強くリスナーの関心がライブ会場のような物理的な場所へ向けられるように振る舞っている。つまり両者のやり方は真逆だが、あくまでもインターネット上で自分たちが関心を持たれることを前提にしてライブ会場のような物理的な場所に値付けを行なっているという点で一致するのだ。したがってライブ会場のような物理的な場所に観客が集まるのはたしかにインターネットでは不可能な体験を味わうためだが、しかしそれはインターネットが身体性を持たないことが嫌われるがゆえに物理的な場所が求められるというような二者択一の説明で片付けられるものではない。より正確には、インターネットが十分に重視されるがゆえに物理的な場所もまた求められていると考えるべきである。
文=さやわか
【註釈】
※20GIRL GIRL GIRL〜Part 1 不思議ちゃんの系譜 - [テクノポップ] All About(http://allabout.co.jp/gm/gc/205625/3/)より。
※21『増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』著=宮台真司/石原英樹/大塚明子(筑摩書房、2007)
※22『サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーション』著=宮台真司/石原英樹/大塚明子(パルコ出版、1993)91頁より引用
※23『シンクロニシティーン』相対性理論(みらいrecords、2010年4月7日発売)
関連リンク
神聖かまってちゃん-ニコニコミュニティ
http://com.nicovideo.jp/community/co20278
相対性理論
http://mirairecords.com/stsr/
さやわか ライター、編集者。漫画・アニメ・音楽・文学・ゲームなどジャンルに限らず批評活動を行なっている。2010年に西島大介との共著『西島大介のひらめき☆マンガ 学校』(講談社)を刊行。『ユリイカ』(青土社)、『ニュータイプ』(角川書店)、『BARFOUT!』(ブラウンズブックス)などで執筆。『クイック・ジャパン』(太田出版)ほかで連載中。
「Hang Reviewers High」
http://someru.blog74.fc2.com/
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11.04.10更新 |
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