Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第一章 恋愛というシステム【1】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
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†美少女ゲームという「風景」美少女ゲームについて、もう一度考えてみようと思う。
「もう一度」。こういう問いは、一定の蓄積=歴史を持つあらゆるジャンルにおいて、しばしば繰り返されるものである。実際、つい最近――と言っても僕にとっては生まれる前だが――生まれたはずの美少女ゲームなるものの歴史も、見方によっては四半世紀を数えるまでになった。
そもそも「美少女ゲーム」という語にしたところで一様な使い方をされていないではないか、とか、煩雑な問いがこの周辺には無数に犇めいているわけだが、ここではその語は、パソコンをプラットフォームとする18禁のアダルトゲームを中心としたゲームジャンルであるという以上のものではない。本稿はとりあえず、温故知新をモットーに、この美少女ゲームがかつて持っていた可能性を振り返ってみたいと考えている。
それは具体的にどういうことなのか。別に目新しいことではない。素朴に美少女ゲームのテクストを読んでみようとしているだけである。しかし、その意図は何なのか。かつて柄谷行人は以下のように語ったことがある(※1)。
いま私がいいたいのは、国学者が漢文学以前の姿を想定しようとしたときまさに漢文学の意識においてそうしていたように、「風景」以前の風景について語るとき、すでに「風景」によってみているという背理である。たとえば、山水画とはなにかと問うとき、その問いがすでに転倒の上にあることを自覚していなければならない。
ここで言われているのはいわゆる言文一致の問題だ。明治期における文明開化と、それに伴う言文一致運動によって、日本語の性質がラディカルに変質したことが言われている。しかし何が変質したというのか。柄谷が例示するのは「風景」である。明治より前の文学には描写が存在せず、ゆえに風景もなかった。それが意味するのは、我々自身の認識論的布置の変質である。柄谷が注意を促すのは、我々が歴史を反省しようとするとき、その反省はすでに変質した後の、転倒した歴史意識において問われているということだ。
美少女ゲームにも、文明開化時の言語的転換にはさすがに比べるべくもないとはいえ、美少女ゲーム的常識とでもいう名の認識論的布置が生まれてきていることは確かなことだろう。
例えば、ごく身近に(偶然)存在したうってつけの例がアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』である。この作品は、美少女ゲーム業界で有名なシナリオライターである虚淵玄が脚本を担当したことによって、まるで美少女ゲームのパラダイムを受け継いだような作品に仕上がっている。この事実は少なくとも筆者が見る限り、「美少女ゲーム的だからよい」「美少女ゲーム的であるにしてはヌルい」というような両極端な評価を生み出している。だが、そのとき参照されている美少女ゲーム史とはどのようなものだったか。
本稿の狙いはまさにこの美少女ゲーム史をいくらかでも振り返ることである。と同時に、かつて美少女ゲームが持っていた可能性に、いくらかでも肉薄できればとも願っている。温故知新という言葉をさっき使ったが、実際、ループだの奇跡だのといった美少女ゲームの生み出したクリシェ的制度が、実際のところどのように現われたかという事実そのものは、すっかり忘れ去られつつあるのではないだろうか。というよりも、これを書いている筆者自身が本当にそれを知っているのか。知っているつもりで、知らなかったのではないのか。かような態度から本論は出発する。
さて、連載第1回であることを鑑み、いくつかの露払いをしておきたい。というのは先ほど述べた「美少女ゲーム」という語の定義についてだ。この言葉はなんとなく業界を位置づけるキーワードとしてこれまで至るところで用いられてはきたが、実際には類似の他の用語と混濁的に使われている。類似の言葉、たとえば恋愛アドベンチャー、恋愛シミュレーション、パソコンゲーム、アダルトゲーム、エロゲー、ギャルゲー、ノベルゲーム、ループゲームなどだ。かなり具体的なジャンル名も上がっているが、「美少女ゲーム」という言葉はある意味でメタジャンル的にこれらの領域をまたいでいると言えるかもしれない。
しかし、それが一種の曖昧さの原因でもある。たとえば東浩紀は『美少女ゲームの臨界点』『動物化するポストモダン』など(※2)を通じて、このジャンルを一種のポストモダンの文学(ポストモダン文学ではない)として見出そうとしていた。その蝶番となる概念がいわゆるゲーム的リアリズムだが、しかし、本論にとってはそれこそがまさに巨大な「風景」なのだ。とはいえ、この「風景」以外には直接的に「美少女ゲーム」の実質を定義する言葉があまりないのも実情である。
では本論は「美少女ゲーム」をどう考えているか。例外はあるものの、それは 18禁パソコンゲーム(エロゲー、アダルトゲーム)そのものに他ならない。通称エロゲーだ。この立場が正しいのであればどうして「美少女ゲーム」という言葉が流通するようになったのか。それは、アダルトゲームを内包するアキバ系文化の世界的なメジャー化や、文学性など業界外における美的価値が作品に見出されていくに従って、アダルトゲームに外向きの呼称が求められた結果、美少女ゲームという語彙が選択されたのではないかと筆者は考えている。もちろんこれは仮説に過ぎないが、本連載ではその仮説の検証は行なわない。美少女ゲームというジャンルの正体は分からずとも、美少女ゲームとされている作品に迫ることはできるからだ。この辺の事情はライトノベルとも似ているだろう。ライトノベルは一般的な意味でジャンル名ではない。ここにはファンタジー、SF、超能力、伝奇など様々なジャンルが格納されている。レーベル名やアニメ調の挿絵がついていることくらいが識別の材料なのであって、ゆえにしばしばメタジャンルであるとされている。
ともあれ、美少女ゲームの中心が、パソコンというプラットフォーム的に考えてアダルトゲームにあることは間違いない。ただ、その最前線にはコンシューマゲームやアニメなどが存在しており、美少女ゲームではなく美少女ゲーム的なものが目立つようになった。もちろん「美少女ゲーム的」というのは、ここでは「美少女ゲームっぽい」程度の意味でしかない。先ほども見たように、その美少女ゲームっぽさの系譜を発見することが本論の目標の一つである。どのようにエロゲーが美少女ゲーム化したのか美少女ゲームについて考えるために、美少女ゲームの根幹を成しているはずのアダルトゲームを取り上げる、というのが本連載の当面の作法となる。
第1章では二つのことを試みたい。一つは、『同級生』(1992)(※3)の製作ブランドであるエルフを要にして、草創期のアダルトゲーム業界に一定の見通しをつけること。もう一つは、恋愛ゲームの二つの古典的代名詞とされている『同級生』と『To Heart』(1997)を比較し、そこに切断線を読み取ることだ。この切断線こそがいわゆる「風景」の一つだと考えてよいだろう。後者を明らかにするために、前者を振り返ることが必要となる。
文=村上裕一
※1 柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫、1988年)22頁より
※2 『美少女ゲームの臨界点』著=東浩紀 他(波状言論、2004年)
『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』著=東浩紀(講談社現代新書、2001)
※3 『同級生』は1992年にパソコン向けとしてPC-98、DOS/V、X68000、FM TOWNSの各機へ発売された後、家庭用ゲーム機向けとして1995年にPCエンジン、翌96年に『同級生if』としてセガサターンへ移植され、1999年アダルトシーンに若干の変更を加えたWindows版が発売。そして2007年には初出に準拠した『同級生オリジナル版』として、DMM公式サイトよりダウンロード販売されている。画像は99年のWindows版。
関連リンク
株式会社エルフ ホームページ
http://www.elf-game.co.jp/
elf | 同級生オリジナル版 - アダルト美少女ゲーム - DMM.R18
http://www.dmm.co.jp/digital/pcgame/elf/dokyusei.html
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11.06.25更新 |
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