Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第三章 探偵小説的磁場【2】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
まだ『雫』について本格的かつ詳細に論じることはできないが、しかし一つ言えることは、単純な印象として『雫』が「エヴァ」と相通ずるものがあるということと、それに対してむしろ『黒の断章』のような作品が断絶しているということである。この印象も本来は精査されねばならないが、取り急ぎ確認すれば、『雫』がヒロインごとのマルチエンディングを用意したのに対し『黒の断章』がほぼ一本道のストーリーだったことは大きな違いである。
しかし、それ以上に論じたいのは質的差異だ。『黒の断章』も『雫』もある種の猟奇的な事件とそれにまとわりつく狂気を描いているが、にもかかわらず二つのものは異なっている。象徴的に言い換えるなら、これは「ナコト写本」と「毒電波」の差異とも言えるだろう。すでに述べた通りナコト写本とはクトゥルー神話に起源を持つ魔道書で、作中では自在に人々を操った。他方の毒電波も機能としてはほとんど同じものを担っている。これによって人々を操ったり精神を崩壊させたりすることができるのだ。一般的な言葉で言えば超能力である毒電波は流行語としてアダルトゲーム界隈においては一世を風靡した。『雫』は一般的な学校の内部だけを事実上舞台としているが、そこで描かれるのは人々を狂気に追い込む毒電波の正体を掴むことと、誰がなぜ毒電波を行使しているのかを突き止めるという、非常にオーソドックスな探偵小説的物語である(実際主人公は途中で親戚の刑事と協調する)。
ナコト写本と毒電波の大きな違いは、後者が単独的で非歴史的な想像力だということだ。『雫』の冒頭では主人公が世界を破壊する想像をノートに書き付けている様子が描かれる。それは狂気的ではあるが、しかし異常にスケールの小さい狂気であって、むしろ妄想と評価すべきものだろう。主人公は後にこの毒電波という能力に目覚めるし、また作中の何人かの人物がこの能力を使用することになるのだが、いずれにせよ毒電波を支えているのは非常に小規模な個人の内面である。これは、たとえフィクションであるとはいえ、壮大な神話体系によって支えられているナコト写本とは明らかに異なった位置づけである。
しかしこの違いはむしろ『黒の断章』の次回作にあたる『Esの方程式』と比較したほうが適切だろう。こちらの作品は同シリーズであるのだから当然に前作の枠組を共有している。にもかかわらず、『雫』とも似通っているのだ。簡潔に説明すると、ある特殊な因習を持った村に生まれ、神として崇められていた鵺野兼人という少年がおり、その思い込みを通じて人の精神を操る力を手に入れてしまった彼は、選ばれたものとしての管理意識から自分に関わった人間たちを「Es」の解放という名目で自殺させていく。実はこの村の因習には前作同様クトゥルー神話の下敷きがあり、その言い伝えにしたがって彼は邪神復活の儀式を執り行なおうとするのだが、涼崎たちの介入によってそれは失敗し、鵺野は神隠しによって異世界へ消える。「Es」とは無論、フロイト精神分析における無意識であり欲望を意味している。
『黒の断章』との比較で言えば、これは前作の錬金術的意匠を精神分析ないしは心理学の語彙に置き換えたものとして理解することができる。このシフトは見た目よりも重要で、例えば「エヴァ」に端を発するセカイ系的な潮流は、宇野常寛の整理(※35)ではひきこもり的な心理主義として位置づけられている。『雫』を取り上げれば、完全にこの見立てに合致する。しかし、『Esの方程式』を取り上げてこの見立てに入れ込むことは難しい。理由は、少なくとも主人公である涼崎ないし草薙はこの心理主義を背負っていないからだ。あくまでも心理主義を背負っているのは敵方の鵺野である。ところが、『雫』においては、まさに鵺野に相当するような人物が主人公の地位を与えられているのである(※36)。
ここにある種の移行過程を見ることは容易いのだが、そこで描かれている差異とはまさに「エヴァ」が内包していたものである。というのは、「エヴァ」には作品を支える社会設定やSF的なメカニズム、そして部分的にではあるが宗教的な体系があった。ところが、作品が進行すればするほど、むしろ強調されたのは個人の内面と世界の癒着であった。この構造は後にセカイ系と呼ばれ、その潮流らしきものを形作ることとなった。
もちろん、あらゆる個別のアダルトゲームがこの見立てで詳細に区切れるわけではない(※37)のだが、しかし大なり小なり時代の影響を受けていたことは間違いない。アボガドパワーズ社長の急死という突発的な事態があったとはいえ、長らく予告されておきながら『黒の断章』『Esの方程式』の次回作となる『人工失楽園』がついぞ発表されなかったことと、それに対し、強烈な心理主義化をこそ受け止めてはいたものの、猟奇的な雰囲気と探偵小説的側面をまだ色濃く残していたはずの『雫』『痕』を発表したLeafが次に打ち出した作品が、業界の方向性を決定づけた『To Heart』(1997)であったことは、あまりにも決定的な差異に感じられる。
セカイ系的な心理主義化が意味するのは背景設定の衰退ないしは消滅である。例えば『セカイ系とは何か』(※38)の著者である前島賢は、セカイ系の典型とされているいくつかの作品に共通する要素が、「社会」や「中間領域」の排除ではなく、「世界設定」の排除であると指摘している。この見立ては本論と同方向を向いている。というのも、『黒の断章』ないしは『Esの方程式』にはあって『雫』には無さそうに見えるものこそがまさに「世界設定」だからだ。
そして、これはむしろ『雫』と比べれば全くセカイ系的でない『To Heart』を考える上で重要である。この作品は、セカイ系の主要なニュアンスである「エヴァっぽい作品」にはほとんど当てはまらないが、しかし、言うなれば教室だけで構成された箱庭であるがゆえに、歴史的な世界設定からは隔離されている。
だが、それでもなお『To Heart』は、『雫』『痕』にあった探偵小説的磁場を引き継いでいると考えられるのではないだろうか。というのは、『雫』は毒電波の秘密、『痕』はエルクゥ(※39)の秘密を探求する探偵小説的作品であった。世界設定の排除が意味するのはこの類の意匠の脱落である。しかし、今回の冒頭で述べたように、Leafの作品においてはキャラクターごとのルート展開、即ちゲームのマルチエンディング化が進んでいた。第一章の議論と同期するが、これは、探求すべき謎が人物の内面に埋没したことを意味している。つまり、探偵小説的磁場の一部は、1995年を経由することによって、極端なセカイ系化を起こさなかったとしても、緩やかに「恋愛」という風景に回収されていったのではないだろうか。
文=村上裕一
※35 『ゼロ年代の想像力』著=宇野 常寛 (早川書房、2008)17頁より
※36 とはいえ、『雫』で描かれるのはむしろ似通った境遇の毒電波使い同士の戦いであるので、単純に『Esの方程式』の見立てが転換したわけでもないし、そもそも『Esの方程式』の方が後発である。
※37 例えば『雫』の次回作となる『痕』(Leaf、1996)は前者と比べて伝奇的な見立てや背景設定が充実した作品である。
※38 『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』 著=前島賢 (ソフトバンク・クリエイティブ、2010)
※39 『痕』では登場人物が鬼の血を引いており、この血の衝動ゆえに猟奇殺人を起こしてしまうということが問題の中心にある。ところで、この鬼というのが実は外宇宙に由来する存在であり、その名前がエルクゥと呼ばれている。
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11.09.17更新 |
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