Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第三章 探偵小説的磁場【3】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
このとき『EVE burst error』が『黒の断章』的物語を演じていることはあらすじを簡単に追いかけるだけでもすぐに明らかになることである。探偵事務所を経営する主人公の天城小次郎は、依頼を受けて盗まれた絵画探しをするのだが、それをきっかけに表面的には無関係な別の殺人事件に巻き込まれる。その過程で家出少女プリシアの保護(実は某国の王女!)や依頼人のすりかえ殺人など、様々な探偵小説的約束を消化しつつ、最終的には王位継承権にまつわる国家的陰謀に挑むこととなる。この表層それ自体は、探偵事務所の取り扱う問題が気づいたら国家的問題になっているという飛躍の構造があるとはいえ、こちらはむしろスパイものに類するようなプロットであるから『黒の断章』とそこまで似ているわけではない。しかし、次の設定の存在こそが象徴的である。それはヒロインの一人である御堂真弥子という人物が、実は国王の脳を移植したプリシアのクローン体だったということだ。つまり、一連の事件は国王が一種の永遠の生命と王位を得るための策略であって、そのために国王は自分を暗殺させて、新しい身体で何事もなかったかのように王位につき直そうとしていたのだ。このとき真弥子の中には自分と国王の人格が多重人格的に併存しており、真弥子自身は別人格の存在を知らなかったのだが、それを自覚することによって国王の人格を封じ込める形で物語が終わる。
似すぎではないだろうか、とはいっても、このようなモチーフの共振は、要約的に眺めてみて初めて明らかになるものだと言える。決して両者は互いに剽窃をし合ったわけではない。しかし、このような共振は、ある種の時代性を象徴するものとしては軽視できない。例えば恋愛ゲームが探偵小説的磁場をいわば「日常の謎」として翻訳し取り込んだというとき、この作劇構造は極めて抽象的な物語の原理として存在している。しかし、『黒の断章』と『EVE burst error』における共通性はそこまで大雑把なものではない。蓮實重彦はかつて『小説から遠く離れて』という書物において、何の示し合わせもないはずなのに、同時代の幾人もの作家がなぜか同じ主題をめぐって物語ってしまっている事実を指摘している。例えば、「素人探偵の宝探し」という小見出しがつけられた、以下のような記述がある。
素朴な反復によって『羊をめぐる冒険』と『吉里吉里人』とを結びあわせているのは、「宝探し」という物語的な類型である。どこかに何やら貴重なものが、人目を避けたかたちで隠匿されており、主人公が、難儀しながらも、その隠された対象を探しあてるという物語が、村上春樹と井上ひさしの長編小説で反復されることは、この二つの長編を読みくらべてみたものの目には、あまりに明らかだろう。前者にあって探されるのは、日本には存在しえないはずの羊であり、後者では金塊が求められている。二人の作家によって主人公として選ばれるのは、一方は広告業界でそれなりの生き方を体得した離婚歴のある若い翻訳家だし、いま一方は、生涯に一度の文学賞による虚名で文壇を泳ぎまわる五十過ぎの小説家なのだが、彼らは、まるで諜しあわせたように、「宝探し」の旅に出発する。『羊をめぐる冒険』と『吉里吉里人』とは、こうした旅の目的が達成されるか否かをめぐって語りつがれる物語なのである。
むろん『小説から遠く離れて』で分析されている作品はより多くどれも長大なため、登場するテーマ的磁場もそれなりには多彩であり、「宝探し」の他にも「双子」「三角形」「架空の少数者」「依頼と代行」「権力の移譲」などの要素が指摘されている。このように、構造とその要素をこと細かに規定し作品を切り刻むことは、それによって作品を丸裸にする意図のためではない。それによって構造に還元されずその構造を揺さぶるような転倒を小説そのもののアイデンティティとして見出すのが、少なくとも蓮實の実践だったはずである。
しかし、それはそれとして、細やかに規定された主題の数々が示すのは、通時的な物語構造の確かさと言うよりも、同時代的な呼応であることは間違いない。そして、少なくとも『EVE burst error』と『黒の断章』の間に見なければならないものもその呼応である。つまり、繰り返しになるが、街の探偵が国家の存亡に関わるようなお家騒動に干渉し、しかもその問題の中枢に不死を目的とするような錬金術的意匠が絡んでいるというプロットは、むしろそのような構造を描くことがなめらかに可能だった時代の雰囲気が裏打ちされている。それはまだ「超展開」ではなかったのである。
しかし、同じく錬金術的意匠を取り上げていながらも、『EVE burst error』には独自の、しかもその先に繋がるような特別な要素がある。それはマルチサイトシステムである。上述の粗筋にはうまく取り込まれていないが、本作は小次郎と法条まりなの二視点――シナリオから成り立っており、規模は異なるものの、それはほとんど『街 〜運命の交差点〜』(チュンソフト、1998)的なザッピングシステムであると言ってよい。つまり、相互のシナリオは見かけ上独立しているのだが、片方だけでは必然的に行き詰まり、もう片方のシナリオを進めなければ先に行けないというような依存関係になっている。
かような仕組みの重要性は今や自明とも言える。それは物語の多元性――例えば恋愛ゲーム=ギャルゲーが選択の多様性を目的としているように――を、早くもシステマティックな形で実装しているからだ。なるほど本作も『黒の断章』と同様決してマルチエンディングではないのだが、しかし、錬金術的意匠によって精神の複数性――多重人格性を描いているのは間違いない。アボガドパワーズは精神分析的探究に乗り出すことによって、この問題を意味的に取り扱う方向へと歩んだが、むしろ菅野はゲーム的、形式的に取り扱う道へと歩んだ。そして、その早々とした研究成果として現れたのが、事実上の次作となる『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(エルフ、1997)である。
文=村上裕一
※40 『小説から遠く離れて』著=蓮實重彦 (河出書房新社、1994)19-20頁より
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11.09.24更新 |
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