Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第三章 探偵小説的磁場【4】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(以下『YU-NO』)の名前は、いわゆる「美少女ゲーム」というジャンルにおいては極めて重要な位置を占めている。そして、その重要性は現代においてもなお色あせておらず、アダルトゲーム全体においても最高傑作との呼び声が高い。例えば、アダルトゲームの評判統計サイトである「エロゲー批評空間」では、本作は驚異の中央値95点を記録している(※41)。上記サイトは1995年から現在に至る作品データを揃えているが、今のところ、得点上でこれに迫る作品は存在しない(※42)。
なぜこの作品はそこまで高い評価を受けているのだろうか。むろんそれは、ゲームというメディアが暴きつつあった物語の多元性という問題を、物語の形式という内在的な次元に落とし込むことに成功していたからである。のみならず、それを物語の意味的な水準に落とし込んで作中の展開に生かしていたことも指摘しないわけにはいかないだろう。2010年にノーベル文学賞を受賞したラテンアメリカ文学の作家バルガス・リョサは、『若い小説家に宛てた手紙』という評論において以下のように指摘している(※43)。
物語に命を吹き込んでいるメカニズムを説明するために、テーマと形式を分けることができるにしても、その際そうした分離は本来あり得ない、少なくともすぐれた小説においてはあり得ないことだということは心にとどめておくべきでしょう。出来の悪い小説では、両者を分かつことは可能ですが、これはつまり出来の悪い作品だということの何よりの証なのです。すぐれた小説の場合は小説の語っている内容とその語り口とが分かちがたく結ばれています。つまり、形式が効果的に機能しているおかげで、人を惹きつけずにはおかない説得力が備わっており、だからこそすぐれた小説になっているのです。
このことは小説に限った話ではないだろう。文学、というよりも、物語が表現されるにおいて、その理想的な状態がどのようなものであるかということがここで語られているからだ。
しかしながら、この形式とテーマの一致ということについて深く考えるためには、まず形式について確認することが重要だろう。我々もまた形式的な興味からこの作品に辿りついたのだし、実際、本作は形式的な重要性において論じられてきた。 例えば、様々な形で反響があったとはいえ、一種の思想的興味から、パブリックな形でこのアダルトゲームを取り上げたのは東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001)が最初である。ここにはいくつかの含意がある。それは、恐らくはアダルトゲームというジャンルが文化・文学的な問題として取り上げられるにあたって最初に主題的に論じられたのが本作であり、また東にとってもパブリックな形でアダルトゲームの作品論をものしたのはこれが最初だということだ(※44)。
ではそこではどのように取り上げられているのか。本作は前掲書の第三章「超平面性と多重人格」という項目で言及される。論点を要約しつつ筆者なりの解釈を加味すれば以下のようになる。ポストモダンとはデータベース消費の世界であり、その世界は、データベースとシミュラークルの二層構造となる。このとき、『YU-NO』はこの構造を内面化している。というのも、『YU-NO』にはヒロイン別にいくつかのシナリオが存在するが、それは「並列世界」として、つまり本物の存在しない二次創作(=シミュラークル)として展開されている。このような構造は「美少女ゲーム」においては一般的だが、『YU-NO』が優れているのは、その分岐を可視化するオート分岐マッピング・システム(A.D.M.S)が存在し、それを見ることで自分たちがどこの「歴史線」にいるかが相対的に把握できる。この自覚が重要である。
さらに重要な設定として、デラ=グラントという異世界に触れねばならないだろう。一般的な物語のイントロダクションを済ませておらず恐縮だが、つまり本作には個別ルート終了時に現われるグランドルートが存在する。それが異世界編だ。名の通り、主人公は異世界にワープし、そこで並列化した世界に散りばめられていた謎が解き明かされる。この異世界は現代に対して超歴史的であり、まさにデータベースとシミュラークルという二層構造を地で行くものである。直接的にここには触れていないものの、このように、意味の水準で深層的なものと表層的なものが同居する作品だからこそ東が「超平面的」と述べたことは疑いえない。
このとき、例えばPS版『かまいたちの夜』(チュンソフト、1998)を思い出してもらうのがよいかもしれない。というのは、こちらのバージョンはオリジナルのSFC版と異なり、プレイヤーの利便性を図った仕組みとしてフローチャート機能が実装されているのだ。この結果、まさにプレイヤーはA.D.M.Sを使ったかのようにルートとルートの関係性を掴むことができ、しかもほとんどワンタッチで特定のキーとなる選択肢に戻りルートを変更することができるようになる。ところで、当然ながらこのような認識やマップそのものを『かまいたちの夜』の作中人物が持っているわけではない。従ってそれは単にプレイヤーのためのオプションでしかない。しかし『YU-NO』が重要なのは、そのような形式・認識上の操作に全て必然性が、即ち、物語内での位置づけが用意されているからだ。
具体的に言うと、A.D.M.Sとは決して抽象的なシステムではない、ということだ。それは作品の序盤において主人公がある人物から与えられるアイテムに由来している。そのアイテムはリフレクター・デバイス(Rデバイス)と呼ばれる。これはずばり次元間移動装置である。そして、A.D.M.Sとはこのアイテムを通じて閲覧することができるマップなのだ。主人公はこれを使用して、様々な次元に飛散してしまった「宝玉」を探すことを命じられる。そして、この宝玉を8つ集めると、件のデラ=グラントという異世界へと移動することが可能になるのだ。
さらに、この宝玉については補足しなければならない。これを用いて「宝玉セーブ」ということが可能なのだ。宝玉セーブは、普通のセーブと異なり、アイテムを持ち越したままのロードが可能である。まさに次元移動であり、ニュアンスとしては『雫』『痕』におけるフラグ解除(バッドエンドを見たことを条件とするハッピーエンドの解放)、または『クロノ・トリガー』(スクウェア、1995)における「強くてニューゲーム」を思い出してもらえばよい。むしろ、それらに実装された仕組みを、なんとかして物語の中で理由づけようとする努力がここにもまた伺える。バッドエンドルートで手に入れたアイテムがあるからこそ、事前のある時点において別な分岐を見出すことができる。
しかし、ここには東も指摘するような巨大な矛盾がある。正しいルートに進むためには、バッドエンドを経験した後にそこから前の時点へ移動する必要があるのだが、その際にある種の記憶喪失が起きるのだ。むろん、次元移動によってアイテムは持ち越せても記憶は持ち越せないという理由づけは可能だが、アイテムの意味が分からない次元移動は行為として破綻しているというのも確かである。しかし、確かにここには必然性がある。一般的な恋愛ゲームにおいて、主人公があるルートの記憶を別のルートで持ちあわせていないのは自然である。この自然さは、時間を巻き戻したとき、巻き戻された合間にあった出来事はなかったものとなるという前提を受け入れているからだ。そして、このような前提のもとに行われるゲームプレイ上の行為がいわゆる「セーブ&リロード」である。しかし、本来「宝玉セーブ」は単なるセーブ&リロードではないからこそ画期的なものだった。東はここにポストモダンの寓話を見てとっているが、この事実は我々にとっても重要である。というのも、この記憶喪失こそがまさに、『YU-NO』が寓話化しようとしているシステムそのものの存在をネガティヴに指し示しているからである。
文=村上裕一
※41 この世の果てで恋を唄う少女YU-NO ErogameScape -エロゲー批評空間-
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/game.php?game=2093
※42 次席は中央値92点の『マブラヴ オルタネイティヴ』(age、2006)である。
※43 『若い小説家に宛てた手紙』著=バルガス・リョサ 翻訳=木村栄一(新潮社、2000)32頁より
※44 言及だけならLeaf、Keyの一連の作品に触れられているが、しかしそれは作品論というには及びつかない簡単な論述に留まっている。
関連リンク
株式会社エルフ ホームページ
http://www.elf-game.co.jp/
11.10.01更新 |
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