Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第五章 臨界点の再点検【2】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
トラウマと癒し系には対応がある。トラウマがあるからそれを癒す必要がある、というような対応関係だ。トラウマの問題は別に目新しくないが、近場で目立つのは、これを主題的に取り扱った『新世紀エヴァンゲリオン』だろう。作中に登場する「人類補完計画」は、さながら傷ついた人類が人工的な究極の癒しを求めた結末だったと言える。劇場版完結編にはそれが描かれている。しかし、あれを純粋な癒しとして消費することは難しい。壮大な劇伴とともに滅び去っていく綾波レイ化したエヴァシリーズの姿には確かにカタルシスとしか呼べないものがあるものの、結末的には、安直な癒しや消費を拒否するような態度が見受けられた。全ての理由を『エヴァ』に帰するわけでもないが、一九九五年的な状況において、人々が安直な癒しを求めていたところはあったのではないか。そして、『エヴァ』ではそれは十全には果たされなかったのではないか。――このような観点を取れば、感動系ゲームとしての泣きゲーの台頭は比較的簡単に理解できるところがある(※70)。
では、そもそも泣きゲーとは何だろうか。――というような問いを立てると、その起源に遡らなければならなくなり議論が紛糾するので、ここでは、プレイヤーに対して実際に涙を流させるような物語内容を持った美少女ゲーム、ととりあえず設定しておこう。
2000年前後において、泣きゲーの代表格として考えられていたのは『Kanon』を典型とするKeyのゲームである(※71)。現在においては、どのKeyのゲームが想像されるかという違いはありこそすれ、まだKeyのプレゼンスは変わっていないものと思われる。問題はKey作品ばかりが泣きゲーではないということだ。それは1999年当時からしてそうだった。
実は、というほど秘密の話でもないのだが、その泣きゲー性を共有していたのがLeafのゲームではなかったかと筆者は考えている。それは先程のトラウマと癒し系の関係からも述べることができる。
たとえば「『雫』の時代」という形で主題にもなっている『雫』は、電波という超能力をめぐる物語であり、その能力の根源にはヒロインである瑠璃子のトラウマがある。トゥルーエンドやハッピーエンドを搭載している本作は、そのトラウマを解消する選択肢を選ぶことができるという点で完成している。しかし、あくまでもその主題はトラウマである。トラウマを癒すことよりも、トラウマによって発現する電波の方が重要なのである。
これに対してより分かりやすく癒し系にシフトしたのが『To Heart』だと言えるだろう。特に典型的なのはマルチというキャラクターのシナリオである。もはや常識ではないのかもしれないが、『To Heart』において、いや20世紀末のオタク業界で最も人気を集めていたキャラの一人は、このマルチという人懐っこいドジっ子のメイドロボだった。
簡単にシナリオの内容を確認しよう。マルチは正式名称をHMX-12型マルチという。彼女は来栖川重工が開発した一般家庭向けアンドロイドの試作機である。彼女は、感情表現に対するフィードバックや、人間とのコミュニケーションがAIに与える影響を研究するという実証試験のために稼働しており、その一環として主人公の所属する学校へと転校してきた。彼女には「感情」がインストールされており、アンドロイドでありながら非常に人間的な行動をとる。たとえば、決してそうプログラミングされているわけではないのだが、主人公に頭をなでられると嬉しくなり、モーターがオーバーヒートするというような反応を示す。この反応そのものをマルチ自身が最初の頃は理解できないのだが、それが感情の効果であることを学んでいくなど、自然と物語はマルチが内面的にロボットから人間になっていく過程として描かれることとなる。
しかし、彼女はあくまでもロボットであり人間ではない(※72)。言い換えれば、マルチが人間になるという方向での解決がありえないということだ。そしてこれは実証試験であるため、期限が決められている。マルチとの別れは運命づけられていたのだ。その頃には遊園地でデートをしたりなど非常に緊密な関係性ができあがっており、それだけに別れが惜しい主人公としては、マルチをなんとか救うことができないかと粘る。だが、試作機である彼女が戻らなければ、彼女の妹たる「量産機」が作れない。量産機がより多くの人たちの役に立つのが夢なのだと、そうマルチ自身にも説得され、主人公はそれを受け入れざるを得なくなる。ただ、マルチは主人公との思い出をメモリーの最奥部に記憶する、それだけは言い残していた。
エンディングでは、マルチの実験を経てメイドロボが量産化される。ところが、実証試験の結果、パフォーマンスなどの問題から上層部が不要の判断を下したため、量産機には「感情」が搭載されなかった。そして、主人公はそれを知っていながらマルチの思い出のために量産型を購入するのだった。むろん、それは彼が愛したマルチではない。しかし、一枚のDVDが後送されてくる。そこにはかつてのマルチの情報を呼び起こすためのアプリケーションが入っているという。それを用いて量産機をアップデートすると、彼が愛したマルチが目を覚ますのだった。
以上の過程は、そもそもメイドロボが可能なのかといった点を除けば、ほとんど超自然的な要素がなく、実直なコミュニケーションの積み重ねによって愛情を育て、そしてそれを正しい理由のために手放す、というような展開になっている。そして、失ったあともマルチに対して変わらぬ愛情を抱いていた主人公に対して、いわばご褒美の奇跡としてDVDがやってくるという仕立てだ。マルチのシナリオがいちばん典型的だとはいえ、このような傾向は大なり小なり他のキャラクターのルートにも存在しており、全体的にきちんと物語として落とすことが目されていたことは確かである(※73)。
このようにトラウマから癒しという流れはすでにLeafにおいて先取りされており、『Kanon』による達成はむしろこれらの要素の集合ないしは整理といった感が強い(※74)。そして、それゆえにLeafとKeyの二者には共振する部分が多かったのではないか(※75)と考えられる(※76)。
このような観点からすれば、むしろ「『雫』の時代」は2000年における『AIR』の登場によって早くも終わりを迎えたのだと考えるべきではないだろうか。というのも『AIR』の登場によって、明らかに美少女ゲームが内包する問題が次のステージへとシフトしているからだ。それはKey的な問題といってもよい。と同時に、その2000年は『月姫』が完成した年でもあった。それが問題を紛糾させている。
文=村上裕一
※70 さらにいえば、2000年前半においては『世界の中心で、愛をさけぶ』(セカチュー)を代表とする感動系小説が大ヒットを飛ばし、一大流行と化した。むろんこのタイトルはハーラン・エリスンではなく『エヴァ』からの引用であり、その影響関係を強く思わせる。セカチューは『ノルウェイの森』が持つ国内小説売り上げの記録を更新し、一連の感動小説ブームは後のケータイ小説や韓流の勃興に繋がった。
※71 『AIR』や『CLANNAD』をあげたほうがよさそうに見えるかもしれないが、それらの作品は麻枝准の作家性によって、「単なる」感動的な作品ではなく、セカイ系だとか超越性だとか少女性だとかを巡る、重大な問題系の中で語られてしまう。しかし、ここでは「単なる」感動的な作品であることが重要なのである。
※72 それは魔法でロボットが人間になる、というような展開がありえないということを意味している。ただし、作品には超自然的な要素がないわけではない。ヒロインの一人である来栖川芹香には黒魔術にかぶれているという設定が、また、姫川琴音というヒロインには超能力者という設定があるというのが実情だ。そもそもマルチの造形自体、科学というにはできすぎていると言わざるを得ないだろう。ただ、これらの設定はあくまでも各シナリオ内におけるハウスルールのようなもので、他のルートに現われて超自然的な力で物語の方向性を変えるということにはならない。
※73 この点が『同級生』との違いとも言えるだろう。連載第一章も併読されたし。
※74 特にもっとも感動的な月宮あゆのシナリオとマルチのシナリオは近い。大事に育てた日常があり、シナリオ後半で必然的な理由によってその日常ないしはヒロインと別れなければならないのだが、それを受け入れると、奇跡という形でもう一度その失ったぬくもりを取り戻すことができるというような構造である。
本編に即して述べれば、『Kanon』の場合、全てのヒロインに対して主人公が少年時代にトラウマを与えており、本編はそれを解消することが目的である、という点で、本文で展開した「トラウマと癒し系」というテーマを完全な形で内面化していると言うべきだろう。
これに対して『ONE』や『AIR』の場合、この描かれる「別れ」や「トラウマ」が「えいえんのせかい」や「呪い」など、表層的な因果関係を遥かに超越しており、ゆえに「単なる」感動物語ではなくなっているため、泣きゲーの一部ではあってもなかなか泣きゲーの代表には選びにくいというのが筆者の見解である。
※75 泣きゲーにおいては音楽の果たす役割も極めて重要だが、とりあえずここでは、『雫』の音楽担当が後にTacticsに移籍し、keyの立ち上げにも参加した折戸伸治であることを確認すべきだろう。折戸の音楽はどの作品においても象徴的な役割を担っている。
※76 より極端に言えば、『To Heart』の次は『Kanon』だったのではないかということだ。むろん『Kanon』の前作は実態的には『ONE』である。しかし、カルト的な人気はあったものの、『Kanon』が十万本を売り上げた事実からすれば、『ONE』がそこまで大きな影響を担ったと考えるべきではないと筆者は思う。むしろ、『To Heart』のメジャー化こそが『Kanon』の成功を後押ししたと見るべきであり、その内的根拠は本文にある通りだ。これは続編の『AIR』においても同様で、こちらも、今となってはその超越的な内容から神作として認知されているが、何よりも『Kanon』のネームバリューがあったからこその購買力だったことはいくら強調してもし足りない。
関連リンク
波状言論>美少女ゲームの臨界点
http://www.hajou.org/hakagix/
11.12.25更新 |
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