Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第五章 臨界点の再点検【3】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
このようなパラダイムシフトについて語るためには、いよいよ美少女ゲームの条件について触れなければならない。そして、実際のところ条件などというものは、そのように変動してからでなければ分からないものでもあるだろう。
『AIR』によって終わりが刻印されるような現象としての美少女ゲーム。それはいったいどのようなものだろうか。
極めて簡潔に『AIR』について説明すると、これは『Kanon』の次に発表されたKeyの作品である。登場ヒロインは三名で、ギャルゲーとしては驚くほど少ない。全員のルートを攻略すると仮初めのエンドを体験できるのだが、その後に「SUMMER」と呼ばれる過去編が登場し、通常ルートの背景文脈が明かされる。それが終わると最終ルートである「AIR」が登場する。そこでは通常ルートのエンド以後の物語が描かれる。実は主人公はすでに消滅しており、ヒロインは誰の助けもなく苦しんでいるばかりだが、そこで仲の悪かった母親との関係を修復し、笑って死んでいく――。あまりにも乱暴に過ぎるが、一応、構造的にはこのような内容である。このヒロインの死に際が感動的であるということから、一応珠玉の泣きゲーとしても認知されている。
ここに要約されている内容がどれだけ重要なものであるかを、『AIR』だけで説明することは困難だ。そこで、いささか遠回りに思われるかもしれないが、『臨界点』と「『雫』の時代」の作品たちを召喚してガイドラインとしたい。
そもそも『臨界点』は分裂した書物である。この書物は、サブタイトルを「HAJOUHAKAGIX」としている。これは無論LeafKeyの隠語である「葉鍵」に由来している。従って「葉鍵」の時代について語っている書物であると推察される。他方で、中を紐解いてみると、掲げられているテーマは「『雫』の時代」である。したがって、Leafの起源的な重要性が述べられているようにも思われる。しかし、実際に本書がもっとも多くを負っているのは『AIR』という作品の存在であり、東浩紀も寄稿しているのは『AIR』論だ。そもそも「美少女ゲームの臨界点」とは『AIR』のことに他ならない。
その結果内容がどうなっているか。分かりやすいのは『AIR』の印象的なフレーズを引用した所収の座談会「どうか、幸せな記憶を。」である。ここでは、小見出しレベルで「永遠の終わり」「楽園の終わり」「内面の時代の終わり」などと「終わり」ばかりが連呼される事態となっている。これらの「終わり」は、「『雫』の時代の終わり」として総括することができるだろう。
つまり、『AIR』が終わらせている美少女ゲームとは、「『雫』の時代」の作品のことなのである。しかしその実態とは何なのか。
この言葉遣いの内実はあまりにも込み入っている。ほとんどバズワードと言ってよいだろう。そこで、便宜をはかってこのような理解を提案したい。「『雫』の時代」という言葉には、泣きゲーの起源性や、美少女ゲームの起源性が含み込まれてしまっている。しかし、実際には泣きゲーのそれは『Kanon』が、美少女ゲームのそれは『To Heart』が代表的に担っている。にもかかわらず、特別な理由によって、『雫』に全ての起源がたまたま偶然帰されてしまっているのだ、という感じだ。
泣きゲーについては前回説明している。ここでは、いよいよ美少女ゲーム形式の起源の問題について論じよう。
『臨界点』において更科修一郎は言う。
少女たちに「物語」という枷を与え、キャラクターと物語の相克によって作品を作り上げていた『雫』に対し、『To Heart』は「物語」という枷を放棄して、少女たち=キャラクターを「物語」から解放してしまった。確かにキャラクターの魅力を引き出すことには成功したのだが、物語が希薄になってしまったように思えて、筆者の評価はあまり高くなかった。(1140頁)
このような認識それ自体が『To Heart』の登場によってはじめて可能になっていることはまず確認すべきだろう。更科は強く『雫』を評価しており、実際、「『雫』の時代」という概念の構成に一役買っている。
更科の認識では、『雫』に対して『To Heart』ではキャラクターが物語から解放されているという。実際、この認識自体は我々も共有可能である。第一章で確認したように、『To Heart』においてはヒロインを選択するという行為が、ヒロインたちの多様性がゆえに、ほとんど物語のジャンルを選択するような経験になっている。更科の言う「物語」とは、ヒロインが同じ世界観に従っているということとほとんど同じなのだ。だから、前回確認したように、マルチのシナリオがいくら感動的でドラマティックであるとしても、それだけで物語が強いと言うわけにはいかないのである。確かに、『雫』においては全ての人物がひとつの猟奇的な事件を共有している。
しかし、このような更科の認識は、逆説的に『To Heart』の重要性を指摘している。つまり、世界観的な共通性が無いのにもかかわらず、こちらの作品においては複数の異なったヒロインたちを同居させることに成功しているのである。それを可能にしているのが美少女ゲームという形式である。
むろんこれは、学校には多様な人物がいる、という程度の通俗的な認識を意味しない。仮にそうだったとしても、『同級生』にロボットはいなかったのだから、二つのものの間には何か質的差異があるのだと疑ってしかるべきだ。
『To Heart』が重要なのは、『雫』と同じ形式で恋愛ゲームをやった、ということにある。つまり、ノベルゲームの形式で恋愛システムが駆動したことによって、美少女ゲームは生まれたのである。
では、その結果によって『To Heart』は他の作品とどんな違いを示し得たのか。それは、主体性を男性プレイヤーではなく女性ヒロインの側に移動させたことにある。
たとえば『同級生』においてはプレイヤーの視点は連続したまま幾人ものヒロインを同時攻略することができた。しかし、『To Heart』においては中途半端に複数のヒロインを攻略するということはできない。これは、主導権を奪い合っているのがあくまでもヒロインの側であり、だからこそルートに入った瞬間に他のヒロインからは手が出せなくなるのだと考えれば非常に分かりやすい。即ち、美少女ゲームとは複数のヒロインがたった一人の主人公を奪い合うゲーム形式として基礎づけられているのである(※77)。
なるほど確かに我々は、この形式のプロトタイプを『雫』に見出すことができる。見かけは『To Heart』と非常に似通っているし、実際同じシリーズの一番目の作品だからだ。しかし、更科が指摘するように、二つのものは決定的に違う。『雫』は物語に依存しているが、『To Heart』は形式に依存している。それゆえに更科は『To Heart』を批判するが、むしろ我々はそれゆえにこちらを重要視するのである。
別な観点から言えば、『To Heart』以前である『雫』はそれこそ『かまいたちの夜』的な事件的物語に依拠しているが、『To Heart』以後である『Kanon』などでは、「Kanon」問題(※78)に代表されるようにむしろ美少女ゲームの形式を前提にした形で物語が展開される。ここを分水嶺に状況は大きく動いているのである。ところが、泣きゲーという形では共通性がある。『雫』も感動的であるのなら、『To Heart』も感動的である。『Kanon』はいわずもがなだ。異なった材料を使って同じような効果を発揮しているため、いっしょくたにされやすいのだ。
改めて整理すると、『雫』の周辺には、美少女ゲームという形式の成立、泣きゲーの勃興といった潮流が、交差しながら浮遊していた。どうして交差してしまったのかについてはほぼ説明されただろう。筆者の考えでは、『雫』はどの潮流をとってもほぼ本質的な起源ではないのだが(※79)、それら全ての要素があったことや、LVNSの第一作目だったこと、ついでに言えば『エヴァ』とのカルト的な同型性から象徴として扱うにはもってこいだったのだと考えている。そして、その裏で存在を主張し始めていたのが、Key作品に独自の世界観だった。
『AIR』は、その全ての問題を同時に取り扱ったからこそ「臨界点」だった。
文=村上裕一
※77 以後筆者はこの意味で「美少女ゲーム」という語を用いる。
※78 月宮あゆというメインヒロインが、自分以外のルートにプレイヤーが進んだ場合、エンディング間際に登場して恨み言を言う展開がある。ここから生じた、複数ルートをまたいでヒロインを攻略するとはどういうことなのかをに関する議論のこと。
※79 『雫』を称揚しているはずの更科も、同時に「最近、若いユーザーの方と話す機会があり、彼らが美少女ゲームの歴史が『雫』から始まっているかのように思っていたことに少しばかり困惑した」(139頁)とも書いている。
関連リンク
波状言論>美少女ゲームの臨界点
http://www.hajou.org/hakagix/
12.01.08更新 |
WEBスナイパー
>
美少女ゲームの哲学
|
|