Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第五章 臨界点の再点検【4】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
『AIR』はいかなる意味で美少女ゲームの臨界点なのか。まず、他ならぬ『臨界点』の認識を確認しておこう。これについては、『臨界点』所収の東浩紀による評論を引用するのがもっとも分かりやすい。
『AIR』のゲームプレイにおいて、私たちは二度挫折を経験する。一度目に挫折するのは、「父になりたい」、すなわち、観鈴を救いたい、彼女とコミュニケーションをとりたいという、キャラクター・レベルでの素朴な欲望である(第一部)。二度目に挫折するのは、「父にはなれないが、自由にしたい」、すなわち、観鈴を救えないがゆえに性的視線のもとで対象化したい、コミュニケーションがとれないがゆえに永遠の少女として所有したいという、プレイヤー・レベルでの否定神学的な欲望である(第三部)。第一部の物語は、「零落したマッチョイズム」(家父長制補完的な想像力)を脱臼するが、第三部のシステムは、「ダメ」な自己欺瞞(反家父長制的な想像力に隠れて超家父長制的な欲望を密輸入する構造)を解体する。
この二つの「挫折」が臨界点の内実である。そして、この「挫折」は二つ=二重であることによって決定的になっている。
『臨界点』P170より
一度目の挫折は、一般的な美少女ゲームのルールにおける挫折だと言ってよいだろう。つまり、主人公が誰か特定のヒロインのルートに入り、そのヒロインの問題を解決するという流れが滞っているということだ。この時点で破綻は決定的である。何せ、ゴールに辿りつけないのだから。
『AIR』が周到なのは、そうは言っても、そんな明らかな設計ミスだと誤解させるような作りにはなっていないことだ。問題になるのは神尾観鈴である。彼女のルートこそがまさにゴールに辿りつけていないのだが、しかし、無理に鈍感を装えば、終わっていたと見るのもそこまで難しくはないといった体裁である。
観鈴は謎の病気によって人と一定以上に親しくなることができない。このため家庭的には親戚の晴子のもとへ預けられることとなり、学校的には友達のいない孤独な生活を送ることとなった。主人公の国崎往人が来訪することで、初めて美鈴にとって友達らしき存在となるのだが、病気のせいで観鈴はどんどん病んでいく。しかも病気は国崎にも感染し、彼自身を苦しめる。最終的に第一部の観鈴ルートは、国崎が消滅することで、つまり彼の自己犠牲によってエンディングへ至る。そこでは確かに、苦しんで臥せっていた観鈴が起き上がる姿が描かれた。
しかし、この終わっている感じは見かけだけのものである。だからこそ第二部第三部があったのだ、という事後的な理由もさることながら、単に第一部をプレイしただけでも物足りなさは見た目に明らかだろう。
すでにここで美少女ゲームではないことが起きている。筆者の美少女ゲームの定義は、ヒロインこそが主人公を攻略する、である。そのためには主人公の存在が必須である。にもかかわらず彼は消えてしまった。カマキリの雌でも想定して、主人公を餌として消費することができたのだ、とでも無理やり考えればよいのだろうか。
第二部は「謎の病気」の原因である、千年前の呪いについての逸話が描かれる。その上で、再び観鈴ルートをやり直したのが第三部である。
この流れは、いわゆるループものの常套手段である。しかし、普通のループものと『AIR』が決定的に違うのは、目指している方向が正しいエンドではない、ということだ。というよりも、美少女ゲームというジャンルの規範とは異なった目的を目指しているのだ、と考えたほうが正確かもしれない。
第三部の物語は、第一部の観鈴シナリオの繰り返しである。しかし、大きな違いとして、このシナリオでは視点人物がカラスへと移動している。これは、第一部で主人公が消滅していることを思い出せば当然なのだが、実際にプレイしていると面食らう。
だが、面食らうべきだ。このたった一つの設定変化はすでに重要な示唆をしている。
ゲームの内容に即して述べれば、以下のような事情がある。第三部には、そうは言っても主人公の国崎が登場する。しかし、視点は別な場所にある。なぜそういうことになっているのか。それは、国崎が消え去ったあとも物語を観測するためだ。国崎が視点人物だったから、第一部は途中で終わってしまったのだ――。
この説明はすでに、物語が「やり直し」を目的にしているのではないということを意味している。国崎が消えてしまうという悲しい未来を変えることが目的なら、そもそも視点を変える必要がない。そして、国崎という主人公が消えてしまうのを変えないのだとすれば、それはそもそも美少女ゲームの規範を逸脱している。
内容を追うと、主人公不在のまま物語は第一部の続きへと進行する。そこでは、再び呪いに苦しむ観鈴の姿が描かれる。彼女は苦しんだ果てに、義母の晴子との絆を取り戻し、「もう、ゴールしてもいいよね」という有名なセリフとともに死を迎える。生死的に言えば、彼女は決して救われない。
東の言う第二の挫折はここに関わる。主人公(プレイヤー・キャラクター)はすでに退場しているため、ここには、極めて特別なことに、剥き出しのプレイヤーの意識が顕現する。そして、美少女ゲームだと思ってこの作品をプレイしている限り、観鈴を救済する欲望からは逃れることができない。というよりも、主人公がヒロインを救う≒ヒロインが主人公を獲得する、という美少女ゲームのルール上、それは必然的である。
ところが、ここではヒロインは救われないわけだ。それゆえ、エンディングに至って、プレイヤーもまた、さながら消えた主人公を追いかけるように、挫折に直面することとなる。
この挫折は、見た目よりも本質的である。決して単なるバッドエンドではない。
それを確認するために、ゲーム的リアリズムという概念に触れたい。これは美少女ゲームの仕組みを元に、東浩紀が考案した新しいリアリズムの概念である(『ゲーム的リアリズムの誕生』)。簡潔に言えば、プレイヤーが物語に影響を及ぼすという、奇跡の一形態を合理的に説明するための概念だ。典型的な事例として、プレイヤーのアバターとなるキャラクターが神的に降臨し、登場人物たちの戦いに大きく力を貸した『ひぐらしのなく頃に』などが取り上げられている。
しかし、そういう先鋭的な例よりも、振り返るべきは『雫』『痕』であるだろう。こちらには非常に根本的な形でゲーム的リアリズムが現われている。これらのゲームには確かに分岐が存在する。しかし、重要な前提として、最初は必ず失敗するという事実がある。いかに正しい選択を取ろうにも、そもそも選択肢が現われないのだ。そして、次のプレイでは選択肢が登場する。なぜなら、一度経験したことがあるからだ。経験があるゆえに、それを克服することができる。
そんなやり直しを支えているのは誰か。むろんプレイヤーである。キャラクターはやり直しをしているわけではない(※80)。
『雫』などのように分かりやすい封印のシステム(※81)がなかったとしても、事実上問題は同じである。たとえば多くのノベルゲームには攻略サイトが存在している。それがなければ攻略に手間がかかるからだ。しかし、本当ならそれは、何十時間かの試行錯誤によって得られるはずの認識・知識である。しかし、面倒くさがりや多忙なプレイヤーはしばしば攻略サイトを利用する。この事実に関する認識もまた一つのゲーム的リアリズムだろう。
文=村上裕一
※80 もう一つ分かりやすい例を出そう。それは格闘ゲームだ。同じキャラクターを使っていても、プレイヤーの習熟度によって全然強さが違うだろう。しかし、それはキャラクターが違うからではない。プレイヤーが違うからだ。しかも、自分自身においてをや、最初の頃と何十時間かやりこんだ後ではキャラクターの振る舞いに変化が生じるのである。このような変化のリアリズムがゲーム的リアリズムなのである。
※81 バッドエンドを経験していなければ、そうでない選択肢を選ぶことができないということ。
関連リンク
波状言論>美少女ゲームの臨界点
http://www.hajou.org/hakagix/
12.01.15更新 |
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